第3話 雨音の中

 1つの傘に男女2人で入る。ただそれだけの事なのに、傘を持ったままの手が少し熱くなる。一刻も早くこの恥ずかしさから抜け出したかった。しかし、少年は一歩も歩き出さないどころか、視線を紫陽花に留めていた。

「やっぱり、あと少しここにいていいですか?」

 少し申し訳なさそうに、それでも少年はここにいなきゃいけないといった感じで話した。

「どうしてですか?」

 私に理由を聞く権利はあるだろう。

 少年は少しの間ためらった後、口を開いた。

 傘から滑り落ちる雫は私と少年の肩を濡らしていく。その冷たさが今は好奇心と頬の熱で気にならない。

「隣に住んでいる、女の子を待ちたいです。いつもは僕の帰りをあの紫陽花の側で待っててくれるけど……今日は雨だったから早くに帰ってしまったかもしれないんですが……それでももし行き違いになったら嫌なんだよね。あの子が雨に濡れて寒そうにしながら僕を待っているのを想像すると」

 そう言った少年は少し微笑んだ。その微笑みに少し寂しさが混じっていて私はハッと息を飲んだ。脳裏に少年より少し小柄な、長い黒い髪の美少女が浮かんだ。……実際髪が長いかどうかは分からないけれど。

 次々と幼馴染の女の子の想像をする。どうしてもお隣の女の子の事がどうも気になってしまうのだ。

 少年がどれくらいその子の事を想っているのか、知りたい。でも、知ってどうするんだろう?何故知りたいんだろう?

 少し考えたらびっくりするくらいに簡単な事だった。鈍感な私でさえ気が付いた。

 要するに、出会った時にはもう終わっているんだな、なんて自分を嘲笑したい気分になった。なんとも儚い一目惚れだった。

 しかし、センチメンタリズムに浸りはしない。わがままな私は最後までこの目の前の人の心の片隅に残っていたいと同時に強く思うのだ。

「いいよ」

 私が肯定するのを予想してなかったのだろうか、少年がパッと私を見る。

「待とうよ。大切な人なんでしょう?」

「あ、でも君の都合もあるし、体調崩さないか心配だし……」

 この人はどこまで優しいのだろう。自分の気持ちに素直になれればいいのに。他人の事なんて気にしなくていいのに。

「私はいいですよ。それに、雨に濡れた貴方を放置して変えるほど冷たい人間では無いのです」

「!そんな事言っているんじゃなくて、」

「わかってますよ、じゃあ少し待っていましょうか」

 少年は少しホッとした様子で口元を緩めた。

「ありがとう、ございます。その子とは16時までにここで待ち合わせをする約束をしているんです。16時までに僕が来なかったら、帰るようにと言ってあります。ここは田舎だけれど、小さな子を一人にさせておけなくて」

 てっきり、同い年の幼馴染の女の子かと思っていた。早とちりな考えを抱いた事を恥ずかしいと思いつつ、ホッとした。

 でも、何かおかしい。

「16時、ですか?」

「うん」

 16時という時刻は私にとっては今でも悲しい響きを孕んでいる。しばらく忘れかけていた感情が目を覚ます。思いがけず少年の口から出てきた事で動揺を隠しきれなかった。

「どうしたんですか?」

 この少年達も、私達と同じような約束をしていたのだ。あの日の、大切な人との、約束を。

「え、ええ、大丈夫です。少しびっくりしただけなので」

「?」

「だって私が学校を出た時にはもう6時を回っていました。4時はとっくに過ぎていますよ」

 私はぎこちなくなりながらも、お兄ちゃんとの約束を隠した。話しても軽く流されるだけなのでは、と考えると話す事がもったいなく思ってしまったのだ。軽く流されたり、同情されるくらいなら、話さない方がいい。お兄ちゃんとの思い出を安いものにはしたくなかった。

 すると、今度は少年が動揺していた。ありえないくらいまん丸に目を見開いて。

「え、ええー!こんなに明るいのに」

「そうですよ。秋から冬にかけては4時でもこんな暗さになりますけどね、今は夏至ですし」

 自分で言っていて、ふと疑問に思った。朝テレビをつけると、情報番組のアナウンサーは今日が夏至である事を何度も伝えていた。たぶんどの局でも同じことを言っていただろう。こんな賢そうな少年が今日が夏至であることを知らないなんて、意外だ。いや、知らなくても夏に日が長くなることは誰でもわかっているはずである。

「夏至、かぁ……」

 少年はしばらく考えるように立ち止まっていたが、不意に顔を上げた。

「今日が夏至だったこと、すっかり忘れてた。16時を過ぎたならきっとあの子は帰ったんだろうし、行きましょうか」

 少年は私に笑いかけた。少年の笑い顔はやっぱり寂しそうだった。無理に笑わなくてもいいのにと思う。泣きたいなら、泣いてもいいのに。私は構わないのに。

 ふと、少年の背中をさすって抱きしめたくなる衝動をやり過ごしながら、私は少年と並んで歩いた。



「その女の子はどんな子なんですか?」

 思い切って質問すると、少年は笑った。今度は屈託のない、優しくて気持ちのいい笑顔だった。

「とても優しい子なんだ。まだ小学生なのに、僕よりもしっかりしていて弟の面倒なんかもちゃんと見てる。僕は頼りないし口下手なんだけど、あの子はそんな僕の代わりにいろんな話をして、僕をお兄ちゃんと慕ってくれる」

「そうなんだ。いつも、あの交差点で待ち合わせしているの?」

 少年の話す事は、なんだか私とお兄ちゃんの昔の話を聞いているみたいで楽しかった。お兄ちゃんと少年が重なる。悲しかった思い出は1つなのに対して、楽しかった思い出は数え切れない。なんだか少年は、優しいところとか、人を大切にするところがお兄ちゃんに似ていると感じた。

 隣の女の子の話をする少年もすごく楽しそうだった。お兄ちゃんも、こんな気持ちで私と接してくれていたのだろうか?でも、私は隣の女の子のようにはしっかりしていない。翔太の世話も十分には出来なかったし、お兄ちゃんに一方的に話しかけるだけだった。今思えばお兄ちゃんの迷惑になってばかりだった。とても恥ずかしい。

「うん、そうなんだ。小学校と高校じゃ下校時間が違うからね」

 少年はまたしても悲しい顔をした。少女が来ていない事を思い出したのだろう。私たちが口を閉ざすと、耳に聞こえてくるのは雨が傘にあたる音ばかりだけだった。

「あ、ごめんね。お隣の子が来なくて寂しいって時にまた……」

「いいんだ!大丈夫……」

 少年と私は気まずくなって、沈黙した。聞こえるのは、本当に雨音だけ。雫を携えた葉っぱさえも息を殺しているようだ。



「僕は、学校では1人なんだ」

 少年は小さく呟いた。私は驚いてパッと少年を見る。白い肌がなお白く見えた。

「僕は昔から言いたい事がうまく言えなくて、友達を作ってもつまんない奴だってすぐに呆れられてしまうんだ。自分で話しかける勇気もないし。だから、独りになってしまう。クラスメートはひとりぼっちの僕を避ける。そして僕はずっとひとりぼっちのまま。そんな悪循環なんだ。」

 少年の独白は続く。

「決していじめられているわけではないんだけど、やっぱり僕は寂しかった。自分が変わらなきゃいけない事は分かっていたんだけれど、どうしても変われない。変わる努力もできない。寂しさは募るばかりだったんだ。この事は、母さんにも父さんにも言っていない」

 雨音が少年を包んでいるようだ。私は雨音と少年の声を聞きながら、こんなどうしようもない比喩を浮かべていた。

「でも、あの子は雨の中でもずっと僕を待っていてくれたんだ。僕が図書館で遅い時間まで本を読んでいた時も、黙って紫陽花の側でしゃがみこんで。1人じゃないって気付き始めたら、何もかもが軽くなったんだ。それに、あの子だけじゃない。父さんも母さんも、弟も僕の近くにいる。僕はなんでひとりぼっちと思ってしまったんだろうって」

 少年が笑ったのを見て、我慢ができなくなった。


「私もいるよ!!」

 たまらず叫んだ。雨粒が震える。少年は大きく目を見開いた。ガシッと少年の細い腕を掴んだ。黒いブレザーは当たり前だけど水分を含んで重かった。

「会って間もない奴が何言ってるんだって思うかもしれないけれど、私もいるからね。学校で何かあったらいつでも私に言って。力になれないかもしれないけれど、そばにいるから。もう、学校でも貴方をひとりぼっちにはさせないから」

 強く言い切った後、なんだか泣きそうになってしまった。やけに暖かい涙が頬を伝った。人のために泣くなんて何年振りだろう。少年は突然の涙に驚いて、恐る恐る親指で私の頬を滑る涙を拭ってくれた。

「ごめん、急に泣いちゃって」

 少し鼻声で言うと、少年はふるふると首を振った。

「僕の方こそ、君に気を使わせてしまって」

「それは、全然いいんだよ!私が貴方の事を放っておけなくなっただけだから」

「あ…うん……、その、ありがとう」

 少年は赤くなった頬を腕で隠すと、照れ臭そうに笑った。口元が見えなくても、目が細くなっているのが見えた。何故笑ったのかを問うと、少年は言った。

「いや、似ているなって」

「誰に?」

「あの子に。あの子が大きくなったら、きっと君みたいな子になるんだろうなって」

「私、そんなにしっかりしてないんだけど」

 少年は私の言葉が聞こえてないのか、ふと下を向いて呟いた。

「同年代の子で、こんなに話しやすいのは君が初めてだよ」

 こんなに嬉しい言葉があるのか、と思うくらい私の胸は早鐘を打っていた。

 だって、私も同じ事を思っていたから。

『貴方も、お兄ちゃんと似てて、なんだか初めて会った気がしないんだ。』

 私はそっと微笑んで、少年と同じく下を向いた。2人の靴だけが見える。あともう少し歩いたら家に着いてしまうのが、名残惜しいと思った。

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