第2話 黒い瞳の人

「雨かぁー」

 早苗が窓を見つめて、大げさにため息をついた。灰色の雲と、やけに青々した緑と、プールみたいなグラウンドが見えた。

「雨だね」

 窓の桟に滑っていく雨粒を目で追いながら、私は呑気に呟いた。

「あージメジメする!大体雨ってなんなの?雨が好きな人いるの?して相合傘するカップルだけじゃないの?」

 いつもは気さくで明るい早苗だが、最近はテンション低めで声も1オクターブ低い。

 3日前にとなりのクラスの彼氏が、となりのクラスのなんちゃらさんと相合傘で帰ったのを目撃したせいか、恋愛の話題を自分で吹っかけてはネチネチと嫌味を言っている。無闇に触れない方がいいと思って、私はずっと聞こえないふりをしていた。

「バド部は室内だから、部活も中止になんないし、はぁー嫌だ。今年で最後だっていうのにさぁー」

「あれ?外の部活も室内で練習するよ?」

「私が言ってるのはそういう事じゃないのよ!」

 鈍感すぎる私が悪いのか、気をつけていても早苗の地雷を踏んでしまう。早苗はプンプンと怒って教室を出て行った。さっぱり訳がわからないけど、私は早苗の後を追った。早めに謝るのが最善。時間を置けば置くほど拗れるのは目に見えているし、そろそろ部活に行かなければいけない時間だった。早足の後ろ姿は見失ったが、早苗の行き先は分かっていた。



「わかってるよ。こっちこそごめん。最近当たり散らしてばかりで」

「ううん、大丈夫」

 半袖と短パンに着替えて体育館へ行くと、早苗がネットを準備していた。謝罪をすんなりと受け入れてくれたことに拍子抜けしつつ、私も片方のネットの端を結ぶ。

 早苗の手はテキパキ動いているのに、ソワソワして何か落ち着きのない。

 私はそっと早苗がチラチラ見ている方向を覗いた。体育館を横で仕切っているネットの向こう側でサッカー部と野球部とバスケ部が同じ筋トレをしていた。やけにうるさい。そして、人口密度が高すぎる。顔をしかめながら、不意にそういえば、早苗の彼氏ってサッカー部だったとようやく思い出した。

 忘れたい人が近くにいれば、嫌でも目に入ってしまう、か。

「ねぇ、美里。美里って今好きな人いる?」

 不意打ちの質問に、私は悩むそぶりも見せず間髪入れずに答えた。

「いないよ。私、初恋もまだだもん」

 まるであらかじめ用意されていたような答えに、早苗はふふっと笑った。

「そうだよね。美里ってば恋愛に興味なさそうよね」

 さりげなく人をお子様扱いした事に気付いてムッとしたが、余計な事は言わない方がいい。そんな事を考える暇もなく、早苗は悲しげに呟いた。

「恋が綺麗なものなら、綺麗なままで終われればいいのになぁ」

 早苗の言った事はよくわからないけど、失恋した友人にかける言葉もわからなくて、私はそっと沈黙した。結び終わったネットの紐を意味もなく弄っていると、顧問の大声が響いた。



 部活が終わる時間になっても雨は降り続けていた。風邪をひかないように、それだけを顧問は口を酸っぱくして言っていた。私はその言いつけ通り、汗だらけの体をきちんと拭いて雨で体を冷やさないようにセーラー服の上から長袖のジャージに腕を通した。

 早苗とは逆方向なので、学校で別れた。朝にもさしてきた黄色い傘を開く。雨で少し布が張り付いていたのか、開くときにバリバリっと音がした。そして、雨が降り続く外へ飛び出した。

 午後6時頃だというのに、辺りはまだ明るい。雨が降っているのにも関わらず。今日が夏至であった事を思い出した。

 雨が傘にあたる音を聞きながら、私はデコボコの道を水たまりを避けながら歩いた。車の音が聞こえて顔を上げるといつもの交差点が見えた。ちょうど歩行者信号が赤になったところだった。靴が雨に濡れてまもなく靴下まで浸透しそうだったけれど、車がいたので不本意ながらもきちんと一旦停止する。

 道路脇に生えた青と紫の紫陽花が綺麗だった。水滴のついた紫陽花を手で弄びながら、何度も信号を確認する。

 それは、本当にふとした瞬間だった。



 何気なく反対側の歩道を見ると、さっきまでは誰もいないと思っていたそこに、黒い学ランを着た少年がいた。

 制服から同じ学校の人だとわかった。

 黒い髪は雨に濡れて、前髪は額に張り付いていた。肌は信じられないくらいに白く、まるで黒曜石のような丸くて黒い瞳には何も映っていないかのように空虚だった。

 何より、こんな雨の日に傘をさしていないことが変だ。

 私は思わずその少年を見つめた。どうしても視線がいってしまう容姿をしている。ずっと見ていても少年は私の視線には気が付かない。それをいい事に堂々と真正面から少年を観察した。こんなに綺麗な少年は見たことがないかもしれない。テレビの若い俳優とは違う格好良さだ。少なくとも同じ高校にはいないだろう。

 信号が青になると、私は少年の元に走り出した。私らしからぬ行動力に驚きながらも、止まる事はできない。

 すぐに少年の目の前に立った。そして、少年に傘を傾ける。

「こんな所で傘をささずに立っていたら、風邪をひいちゃうよ!」

 ずぶ濡れの少年の肌が白すぎることが、私は心配だったのだ。少年はびっくりしたように目を見開いた。初めて少年の瞳に光が灯る。ぼんやり弱い光を放つ街灯だ。そこには街灯の他に緊張のせいか表情が硬い私がくっきりと写り込んでいた。

 中途半端に開いた口から、掠れたような声が出た。

「あ、ありがとう……ございます………」

 少年はようやく声を絞り出すと、私から視線を外した。気まずい雰囲気に耐えられなくなって私は傘を押し付けてその場を走り去ろうとした。走って帰れば、たぶんそんなに濡れないだろう。

「ま、待って!」

 5歩くらい歩いた後に、さっきよりも大きい声が聞こえた。振り返ると、少年はずんずん歩いてきて私に傘をさしかけた。

「君の方こそ、風邪をひいてしまうよ」

 真っ直ぐな瞳に、少し低めの声がどことなく落ち着く感じがした。と同時に胸がグンと跳ねた。

 私は少年の真っ直ぐさにどぎまぎしながら、傘の柄を握った。今度は少年が回れ右しようとしていた。

「待って!それじゃあ君が濡れちゃいますよ!」

「僕は男なので大丈夫です。それより女の子は体を冷やしてはいけません!」

「ちょっと、大丈夫じゃないですよ!ほら、こんなに冷たいじゃないですか!せめて濡れないように」

 少年の頬に手を当てて言った。初対面の子の頰をいきなり触るのは不躾すぎると気付いた頃には、少年は真っ赤になっていた。慌てて手を引っ込めて謝る。

「それでも雨に濡れて風邪を引くのはかわいそうです。どうか使ってください」

「いや、君が風邪を引く方が可哀想だ。君が濡れないように」

「あなたの方こそ」

 傘を相手に傾けあいながら、私たちはしばらく相手の体を心配しあった。そろそろ収拾がつかなくなる頃に、少年は強い口調で「じゃあ」と言った。

「じゃあ、君を家まで僕が送ります。そして送り届け終わったら、良かったらこの傘を明日まで僕に貸してくれませんか?使い終わったら絶対に返します。あの交差点の紫陽花に立て掛けておけば、わかるでしょう?……もし、君が良ければの、話ですが……」

 最後は少し詰まらせながら、少年は言った。私は当然問題ない。少年が雨に濡れなければ良いだけだから。

「そうしましょう!」

 力強く頷いた。それが生まれて初めての相合傘になる事にしばらく気付かなかった。やがて、少年の頰が赤くなっているのを見て、ようやく気付いた頃には2人で黄色の中にいた。

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