つゆ消えず
風都
第1話 在りし日の
「お兄ちゃん!おかえりなさい!」
紫陽花の影から、黄色いレインコートと黄色い長靴を履いた少女が立ち上がった。立った勢いで黄色いフードが脱げて、少女の丸い頭に雨が当たる。地肌に雨が当たる感触に少女は高い声をあげて笑った。
「ただいま。こら、風邪引いちゃうよ」
お兄ちゃんと呼ばれた少年は、少女のフードをかぶせ直して素早く自分の傘の中に入れた。少女は少し不満げに口をすぼめた。
「あたしはこれ着てるから大丈夫!」
「だめだよ、だって寒いでしょう?」
「寒くないもん!」
少女はそっぽを向くや否や、ヘクチッと小さなくしゃみをした。おまけに体が寒さでぶるぶると震えた。子犬のようだと思わず少年は笑う。ますます少女はヘソを曲げた。
「みいちゃんが風邪を引いたら、僕はみいちゃんのお母さんに怒られちゃうなぁ」
「え、お兄ちゃん怒られちゃうの?」
「そうだよ、怒られるのは怖いなぁ」
少女は自分のお母さんに申し訳なさそうに頭を下げる少年を想像した。優しいお母さんなら少年を許してくれそうだと思うけれど……。
少女は男の子の悲しそうな顔を見、また少し考えたあと、少年にしがみついた。少女の背は少年の腰辺りしかない。
「じゃあ、お兄ちゃんの傘に入るー」
可愛らしい声に少年はもう一度笑った。少女のレインコートは雨でずぶ濡れだったので、少年の制服のズボンは水気を吸って冷たくなっていただろうに。少年は対して気にしていない様子で、パサリと脱げた少女のフードをまた整えた。雨に濡れてツヤツヤと光るレインコートを見つめ、ふぅと息を吐いた。
「さぁ、早く帰らないとご飯に間に合わないぞー!」
少年が声をかけると、少女はきゃっきゃっと笑いながら走る。少年は少女の歩幅に合わせて速足をした。なるべく少女が雨に当たらないように。何度も脱げるフードをかぶせながら。ぬかるむ道に何度も転びそうになっては、少女は背中に自分より大きな掌を感じた。少女は上を見上げる。視線に気付いて少年は笑顔で少女を見下ろした。
それにしても、お兄ちゃんは服は黒、傘も黒で真っ黒だなぁ、なんて思いながら。
私にとって、お兄ちゃんは家族と同じくらいに大切な人だった。つまり、お母さんとお父さんの次に頭に浮かぶ人だった。人生で初めて“結婚したい!”と思った相手でもあり、人生で初めて途轍もなく大きい悲しみを私に与えた人でもある。
お兄ちゃんが亡くなったのは、私が小学2年生の時の秋だった。
その頃の私はほぼ四六時中お兄ちゃんにべったりだった。
優しくてかっこよくて、頭も良いお隣のお兄ちゃん。
私の事を『みいちゃん』と優しい声で呼んでくれたお兄ちゃん。
私の両親は共働きで、看護師のお母さんが夜に病院に行くときはお隣に住むおばさんにお世話してもらっていたのだ。そのお隣のおばさんの長男が、お兄ちゃん。お兄ちゃんはその時高校生で、私より10歳も年上だった。
小さい女の子の遊びなんか、年頃の男の子にはつまらないものだったろうに、お兄ちゃんはいつも私と遊んでくれた。
おばさんは3歳の息子の翔太とも遊んでねと言っていたけれど、私はお兄ちゃんと遊ぶのが1番好きだった。お兄ちゃんの後を雛鳥のようについて回った。
お兄ちゃんが死んだのは、雨の日だった。その頃の私の日課は小学校と高校の分かれ道の交差点で、お兄ちゃんを待つ事。お兄ちゃんが帰ってくるまでずっと待っていた。
まるで渋谷駅のハチ公のように。以前は3時間もその場にしゃがみ込んでいて、帰ってきたお兄ちゃんに驚かれた事もあった。あの時のお兄ちゃんの顔はすごかった。何故かその後、私だけでなくお兄ちゃんもおばさんに怒られていた。
「じゃあ、約束しよっか。僕が四時になっても帰ってこなかったら、みいちゃんはお家に帰って待っててくれる?」
お兄ちゃんは、やけに真剣な眼差しで私に約束をお願いをした。お兄ちゃんと帰れないのは嫌だったけれど、私は渋々了承した。
今考えると、お兄ちゃんも遊びたい盛りな年頃だったのに、幼い近所の女の子にまとわりつかれてさぞ迷惑だった事だろう。でも、当時の私にはそんな事は思いつかなかった。
ただ、お兄ちゃんと一緒にいたい。その一心だった。
結局、お兄ちゃんは私と約束した日から滅多に遅く帰らなかった。友達と遊ぶ事も、部活動に入る事もなく、意味もなく教室で時間を潰す事もなく真っ直ぐに私の元に帰ってきた。それがすごく嬉しかった。お兄ちゃんの1番って感じがしたから。
ーーそんなお兄ちゃんの帰りが珍しく遅くなったあの日、私はよりによって言いつけを守ってしまった。
お兄ちゃんとの約束と言いながら、いつもの私は四時をすぎてもお兄ちゃんを待っていた。
後で2人ともおばさんに怒られるのはわかっていたけれど、帰ってきた時のお兄ちゃんの顔がたまらなく大好きだったから。
私を見た瞬間、嬉しそうにふわっと微笑むのが、たまらなく大好きだった。
私がいなかったら、お兄ちゃんは一体どんな顔をするのだろう。お兄ちゃんの泣き顔を見た事はない。けれど悲しい顔をするのかな、とお兄ちゃんの泣き顔を想像したら私まで泣きそうになるのだった。だから、おばさんに怒られる事承知でお兄ちゃんを待ち続けていた。
でも、あの雨の日は違った。
おばさんが車で買い物をした帰りに交差点にいた私を見つけたのだった。
黄色いレインコートを着た、三つ編みの少女。よく目立つ事この上ない。
「みぃちゃん、まだ哲也を待っているの?」
哲也はお兄ちゃんの名前だ。
「うん!」
「あれぇ?今何時だっけねぇ?」
「えぇっと、あ、16時20分」
「約束は覚えているわね?」
お兄ちゃんの優しさはおばさん譲りだなと思う。生まれた時からとても優しく私を見守ってくれた。そんなおばさんだけれど、怒ると怖い。怒鳴らないのに、迫力がある。
「さあ、帰ろうね」
「はぁい」
「哲也ももうじき帰るから、家で待ってましょうね」
有無を言わさぬ圧力を受けて、私はすごすごとおばさんの車に乗った。
雨の音、水しぶきの音、車のランプの音。
おばさん家に着いた私は、3歳の翔太と新聞紙でチャンバラごっこをしながらお兄ちゃんを待っていたのだった。
それから、お兄ちゃんは二度と私に笑いかけてこなかった。
いよいよ暗くなって流石に心配になったおばさんは、大きな赤い傘をさして外へ出た。
一時間後、おばさんは真っ青な顔をして帰ってきた。私はドアが閉まる音を聞くや否や玄関へ走った。お兄ちゃんがいると思っていたのに、おばさんが1人だけ玄関に立っていた。
「お兄ちゃんは?」
お兄ちゃんに早く会いたいな、とそわそわしながらおばさんを見上げる。おばさんの目に涙が盛り上がったと思うと、おばさんは顔を手で覆ってがっくりと膝をついたのだった。おばさんの悲痛な嗚咽に、まだ小さかった私でも何があったのか予想がついた。
お兄ちゃんは交差点を少し過ぎた所で倒れていたらしい。おばさんが見つけた時にはもう息は無かったそうだ。全身のどこにも傷がなかったので、帰宅途中に心不全を起こして亡くなったのだろうとお医者様は言ったらしい。道路脇の草の上に丁度頭が当たったので顔も綺麗なままだった。
すぐに駆けつけた病院の片隅で、顔に白い布をかけられた何かを私は冷静に見ていた。やがて、おばさんが白い布をそっと取ると、いつもより顔や唇が白いお兄ちゃんが現れた。冷たい亡骸の上におばさんは額をつけて泣いた。
私はそっとお兄ちゃんの頬を触ってみた。秋雨で濡れていただろう頬はひんやりしていて、幼い熱を奪った。
その日の夜は何を食べてどうやって寝たのか覚えていない。ただ、昨夜お兄ちゃんを見ても泣かなかった私が急にお葬式でまるで火がついたように泣き叫んだのは覚えている。お母さんに連れられて外へ行っても泣き止まなかったし、煙になったお兄ちゃんを見ても、骨が入っているという小さな箱を目の前にしてもお兄ちゃんがいないとは信じたくはなかった。
果ては、涙が枯れて頭が痛くなるまで泣いた。いつもお仕事に行っているお母さんは、私の頭をずっと撫でてくれた。普段ならとても嬉しいはずなのに。
嬉しさを打ち消すほどの悲しみだった。
あの頃は後悔ばかりしていた。初めは、こんなに悲しいのは自分1人だけだと思っていた。だけど、何年か経つと1番悲しいのはお兄ちゃんの両親であるおばさんとおじさんなのだと気付いた。その頃から押し潰すような後悔や悲しみが、お兄ちゃんへの穏やかな感謝に変わっていった。
お兄ちゃんがいない世界を認め、交差点でお兄ちゃんを待つ習慣を辞めてから、私の心は一気にお兄ちゃんを思い出の人に変化させていった。実はおばさんには内緒で、何年もずっと4時までは交差点に黙って立っていて、4時になったら帰るのを繰り返していた。誰も来るはずがない事は分かっていた。それでもどこか期待していたのだ。……幽霊なんて怖いくせに。
前までは、どことなくお兄ちゃんに似ている翔太を見るのがつらくて、自分勝手に翔太を避けたりした。そんな事もなくなって、だんだんと一緒にテレビゲームもするようになった。今ではしつこいとか言われて、私が避けられている。立場逆転だ。
お兄ちゃんの笑顔もだんだんとぼやけて、今では何かきっかけがないとお兄ちゃんの事を思い出せなくなってしまった。その事に気付いてはいたが、時が経つ以上仕方のない事だと諦めていたのだった。
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