第1話-3


 父がアパートの部屋に帰ってきたのは午後七時少し前だった。帰宅途中でスーパーに寄ってきたのかほどほどに膨らんだエコバックを腕に引っ掛けていた。

「お父さん、お帰り。洗濯物たたんで、お風呂洗っておいたから」

「ただいま真璃。ありがとう、ご飯すぐに作るよ」

 父は食卓椅子の背もたれにかけてあった自分のエプロンを着ると夕食の支度を始めた。洗濯物と風呂掃除はいつからか忘れたが真璃の役割であった。

 確か高橋君が来るのは午後八時頃だ。安野家の夕食が大体そのくらいの時間だから父はそう伝えたのだろう。色々と聞けるのは今じゃないだろうか。

「……お父さん、何か手伝おうか?」

 真璃は父が夕食の支度をしている間、大抵は自室にいる。台所に手伝いに来ることは稀であった。だからだろうか、父は目を丸くして真璃の方を見た。

「えっ?珍しいね。宿題とか大丈夫?」

「大丈夫だよ!っていうか、宿題って小学生じゃないんだから」

「そうか?じゃあ、お願いしようかな」

 料理が苦手な真璃が自分から夕飯の手伝いを申し出たからだろうか、父は少し嬉しそうだった。とりあえず夕食で使う食器の用意をお願いされた。やはり三人分だ。

「今朝のお隣さん、夕食も食べに来るの?」

「あ、そうそう。今朝は真璃に何も伝えなくてすまなかったね。びっくりしただろう?」

「本当だよ!知らない人が家に来て一緒にご飯食べるとか今までなかったから……」

 父があまりにもすんなりと自然に今朝の事を謝るものだから真璃はびっくりして気づいた時には思っていたことが口から飛び出していた。そんな真璃を見て父はまたもや目を丸くしていた。しかし、すぐに吹きだして笑っていた。

「ごめんごめん。昨日の夜、高橋君を部屋に運んだ時に色々とお話しをしてね。心が弱ってるみたいなんだ。一人にしておくのも心配だからうちにご飯食べに来ないかって誘っちゃったんだ」

 手際よく野菜を切り、鍋をかき混ぜながらも父は話を続けた。

「お節介かと思ったけど、ちゃんと今朝来てくれたし。高橋君はいい子だから大丈夫だよ。真璃も今朝みたいに緊張しなくて大丈夫だからね」

 父はそう言うと小さく笑った。

「私、緊張してた?」

「うん。なんかいつもと違って面白かった」

 そう言うと、また父は笑った。父が笑っているところなんて久しぶりに見た気がする。ほっとする笑顔だと真璃は思い、つられて笑いそうになるのをこらえて頬を膨らませた。

「何が面白いのか全然わからないよ。もう」

「ごめんごめん」

 何気ない会話が続くなかでも、父は手際よく夕食の準備を進めていく。父がかき混ぜている鍋の方から食欲をそそるようなスパイスの香りが漂ってきた。夕食はカレーのようだ。真璃は食器棚からカレー皿を取り出し、父は付け合わせのサラダを作り始めていた。相変わらず手際が良い。その時だった。


――――ピンポーン


 今朝と同じく箸とスプーンを用意しようと思っていた時、呼び鈴が鳴った。トマトを切っていた父が玄関に向かおうとしていた。時計は丁度八時を指していた。

「お父さん、私が出るよ」

「えっ、多分高橋君だろうけど大丈夫?」

「大丈夫!てか、大丈夫じゃなかったら一緒にご飯食べるのも反対してるよ!」

 父が少し申し訳なさそうに心配しているのは、独断で高橋君を安藤家の食卓に招いたことに罪悪感があるからだと真璃は思った。

 真璃自身、最初は意味が分からなかったが父に事の経緯を聞いたらちゃんと納得したからまったく気にしていない。高橋君に関してはまだ分からない事だらけだから何とも言えないが。むしろ久しぶりに共通の話題で父と話が出来たこと、赤の他人を心配するくらいお人好しな事が真璃にとっては嬉しかった。

 真璃は廊下に出て、玄関まで行くとドアをそっと開ける。そこには今朝と同じくヒョロヒョロでボサボサの金髪が恥ずかしそうに手をもじもじと胸の前で弄んでいた。朝と違うのはきらきらと光る金髪の光源が太陽ではなく月ということだけだった。

「あっ、こ、こんばんは」

 真璃が出てきたことに驚いたのか、高橋君は何度も頭を下げながら挨拶をした。

「高橋さん、こんばんは。もうすぐ夕食の準備できるので上がってください」

 真璃は頭を下げる度にきらきらと光る高橋君の髪の毛に目を奪われながらも、高橋君を怯えさせないようにできるだけ柔らかく玄関の方に招いた。

「お、お邪魔します……」

 ドアが閉まらないように真璃が支えている目の前をやはり頭をぺこぺこと何度も下げながら高橋君は玄関へと入っていった。高橋君が真璃の前を通り過ぎる瞬間、ふわりといい匂いが真璃の鼻をくすぐった。どうやら高橋君から発せられた匂いらしい。お風呂上りなんだろうか、と考えながら自分も玄関に入ってドアを閉めた。

 台所に戻ろうとしたら、高橋君が律義にも廊下の途中で真璃の事を待っていた。その様子を見ていて真璃の頭の中にはウサギやハムスターなどの小動物が浮かんだ。そして、不覚にも笑いが込み上げてきてぷっと吹いてしまった。

「……えっ……?大丈夫ですか?」

 いきなり吹いた真璃を心配した高橋君が近づいてきたが、真璃は手で制した。

「大丈夫です!先に台所に行っててください。父が待ってます……ぶふっ」

 はやく平常心に戻らなければと思いつつも高橋君=小動物のイメージがなかなか消え去ってくれなくて、なかなか笑いが収まらなかった。

「……?は、はい。では、お先に……」

 高橋君は先に台所へと入っていった。

 あんなに身長が高いのに小動物みたいな生態というギャップが真璃にとってツボだったようだ。笑いのツボはそこまで浅くないと自負している真璃だったが、きっと今日は疲れているんだろうと解釈して平常心を取り戻すために大きく深呼吸した。台所から漏れてきたのだろう、カレーの匂いを胸いっぱいに吸い込んだらお腹が空いてきた。丁度良く笑いの発作も収まったところで、真璃も台所へと向かった。


 

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