紫陽花の庭
真夜中 緒
第1話
紫陽花は毒だからね。
それは祖母の口癖だった。
祖母の家は七階建てのマンションの一階で、小さな専用庭がついていた。
ぽっこりしたにおいが面白いカミツレ。
花は可愛いけど触ると手に匂いがつくドクダミ。
糸くずを丸めたみたいなカラスウリの花。
絶対にちぎっちゃいけないヘクソカズラ。
隅っこですぐに伸びて、しょっちゅう刈らなきゃいけない蓬。
鄙びた匂いの赤紫蘇に、大きな葉っぱのツワブキ。
日陰を埋めるユキノシタ。
あのうちのどれだけが祖母が植えたものだったのかわからないけれど、雑然とした祖母の庭が私は好きだった。なんだか野原の隅っこを切り取ったみたいに思えたからだ。
祖母の庭はマンションの裏の小さな公園に面していた。公園と言ってもちゃんとした滑り台なんかのある公園ではなくて、たぶん防災用か何かの空き地に草木を植え、いくつかベンチを置いたというだけの場所だ。まわりは他マンションや建売に囲まれており、六軒だかの建売の私道からしか入る事ができない。
公園を縁取るようにぐるりに紫陽花が植えられていたので、そこは紫陽花公園と呼ばれていた。
紫陽花は毒だからね。
祖母はそう言って、庭から紫陽花の植え込みをくぐって公園に入ろうとする事を許さなかった。
考えて見ると、祖母が教えてくれた毒草はたくさんあったから、祖母が特にその言葉を口癖としていたわけではなかったのかもしれない。でも、その言葉は幼い私に強い印象を残した。
鮮やかに揺れる大きな花。
青く、赤く、白く。
群れ咲く紫陽花はとても綺麗で、祖母の庭までひときわ華やいで見えた。
雨、か。
湿ったような、夏を思わせる匂いに鼻をうごめかしていると、ぽつりと最初の一滴が落ちた。
ふたつ、みっつ、無数の雨がたちまち地面を叩き始める。急いでさした折りたたみ傘の上でも雨はぱたぱたとせわしなく歌った。
ああ、ここだ。
雨の中、いっそうおぼろに感じられる記憶をたどり、左右に三軒ずつ、六軒の建売の並ぶ短い私道を抜ける。
そこに紫陽花公園はあった。
覚えているよりももっと狭く、縁取りの紫陽花がみっしりと花をつけてちょっとやりすぎではないかと思えるほどだ。紫陽花の他には何の木なのか三本の細い木と、手作りかと思える古い木のベンチ。公園にあるのはそれでほとんど全部だった。足元も土のままなので、ヒールのかかとが僅かに沈む。
そして紫陽花の向こうにはあまり大きくないマンションの一階の、二軒分の専用庭。
向かって右が祖母の庭。
違う、祖母の庭だった庭だ。
祖母は三年前に入院し、そのまま自宅に戻ることなく亡くなった。祖母の死後マンションは売られ、すでに別の家族が住んでいる。だから祖母の庭だった庭を見るために、私は紫陽花公園に来るしかなかったのだ。
庭はすっきりしていた。
隅の蓬は刈り取られ、フェンスに絡んだ蔓草もほとんどない。
それでもフェンスの目立たないところにか細く絡んだカラスウリが、糸くずを丸めたような白い糸状花を咲かせている。雨に濡れたカラスウリは、たちまちうなだれたように雫を滴らせた。
「久しぶりに紫陽花公園に行って来たよ。」
帰宅すると母にそう声をかけた。
「あら、今の季節ならよく咲いてたでしょ。きれいだった?」
紫陽花は母の好きな花だ。
自宅の庭にも紫陽花が植えられている。
八重咲きの額紫陽花
小ぶりで鮮やかな色のもの。
白く房のような形に咲くのもある。
全て祖母が死んでから植えたものだ。
毒草を子供の遊び場に植えるなんて。
祖母がそう言うので、生前は植える事ができなかったのだ。私が植え込みの下をくぐるような幼い子供だったのは、ずいぶんと昔の事なのに。
だから紫陽花の咲く季節に祖母の家に行くと、母はよく庭を眺めていた。祖母の庭越しにとりどりの紫陽花がよく見えた。
「あのさ、お母さん。」
夕飯のための食卓の準備を手伝いながら声をかける。
「昨日、プロポーズされたよ。」
母の慌ただしい動きが止まった。
「受けようと思うの。」
相手は学生時代からの付き合いだ。両親とも会わせた事がある。私も彼の両親と時々食事をする。
そして私と彼の母親は、たぶん合わない。
それは傍から見ればきっと些細で、でもおそらくは決定的なものだ。
例えば私の好きな花に毒性があれば、それを言い立てて庭に植える事を許さないような。
そのことに不安はあるけれど、でもきっとなんとかやって行ける。なんとかやって行こうと思う。
きっと彼以上に合う人とは、会えないだろうと思うから。
「おめでとう。お父さんにもきちんと話なさいよ。」
話ながら母の視線が庭に流れる。
雨に濡れる窓ガラス越しに、紫陽花が揺れている。
紫陽花の庭 真夜中 緒 @mayonaka-hajime
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