食べて変身、腹ペコ・シェイプシフター

太陽ひかる

腹ペコ・シェイプシフター

 定食屋『はらぺこ』は、日本のとある地方都市にある小さな店だった。立地は場末もいいところで、店構えだってそんなに立派ではない。それでも地元では評判がよく、隠れた名店として足繁く通ってくれる人もいたが、それも先日までの話だ。

 今、はらぺこの表には、こんな貼り紙が出されていた。

 ――本店は九月三十日を以て閉店とさせていただきます。長いあいだ定食屋はらぺこをお引き立ていただき、誠にありがとうございました。亡き店主佐藤修也に代わって厚く御礼申し上げます。佐藤良太。

 このようにして二十余年の歴史に幕を下ろしたはらぺこの店内では、良太がカウンターの席に座り、ノートパソコンで香典返しのリストを作っていた。

 佐藤良太さとう・りょうたは二十五歳のハンサムな青年だ。長身ですらりとした体つきをしており、よく日焼けしていて、半袖のシャツにジーンズという格好である。

「こんなもんか」

 作業に一段落をつけた良太は店内の掛け時計を一瞥した。午後一時を回っている。昼食には少し遅いが、米はあらかじめ炊いてあった。店の冷蔵庫に残っている材料を思い浮かべながら、献立を考えつつカウンターの向こうの厨房に回ろうとしたとき、いきなり外から扉が開けられて男の声がした。

「ごめんよ」

 そのぞんざいな挨拶とともに現れた背広の男を見て、良太はやや眉宇を曇らせた。

「杵築さん……」

 杵築鉄斎きづき・てっさいは今年で四十八歳になる恰幅のいい男だった。この年齢になると生き方が顔に出るのか、悪辣な顔をしているが、さすがに親友が死んでまだ数日とあっては神妙な表情をしていた。

「やあ良太くん、お父さんの葬儀のときはどうも。改めてお悔やみ申し上げるよ。修也は……君のお父さんは、あんな死に方をしていい奴じゃなかった」

「はい」

 良太は相槌を打ち、それから天井の向こうの二階を指差した。

「線香、あげていきますか?」

「いや、今日はビジネスの話をしにきたんだ。率直に云おう。この店、私に譲らないか?」

「は?」

「表の貼り紙を見たよ。閉めるんだろう? だがはらぺこは評判がいい。潰すくらいならその看板を私に譲ってほしいんだ。私が推薦する料理人に切り盛りさせる」

 突然の申し出に面食らっていた良太だったが、話を理解するやはっきりと難色を示してかぶりを振った。

「お断りします。二階が自宅ですし、思い出もある。他人に譲る気はありません」

「金なら……」

「お金の問題じゃないんですよ」

 父がずっと働いてきた、そして自分が物心ついたときからずっと過ごしてきたこの店を、そう簡単に手放すことはできない。

 怒りを含んだ拒絶の視線に杵築は仏頂面をしたが、すぐに口だけで笑みを作った。

「そうだな。君は一人息子なのに店を継がずに安定の公務員になったんだ。金の心配はいらんだろうな」

 その嫌味な云い方に良太は奥歯を噛みしめたが、反論はできなかった。ただ拳をぎゅっと握って、強がるように笑ってみせる。

「すみませんね」

「ふん」

 杵築は鼻を鳴らすと、店内を軽く見回して、彼なりに思い出を数えているようだった。

「……私と修也は幼馴染でね、料理人になることをお互いに誓い合った仲だった」

「知ってますよ。親父から色々聞いているので」

 元より父と杵築は友人だったから、杵築はときどきこの店にやってきては食事をしていった。だが良太は彼にあまり良い印象がない。いつも父の悪口を云っていくからだ。

「料理の才能がなかった私ですら、事業を成功させていくつも店を持ち、手広く商売をしている。それなのに、私よりはるかに才能のあった修也は、こんなちっぽけな定食屋の店主で終わってしまった。馬鹿な話だとは思わんか?」

 良太はなにも答えなかった。代わりにいつだったか、父が杵築についてぼやいていたのを思い出す。

 ――あいつはお客さんに美味しいって云ってもらうことより、金儲けの方が好きになっちまったのさ。あんなに友達だったのに。

 道を違えた二人だったけれど、友情というやつは、どうも最後まで切れなかったらしい。

 良太は気を取り直すと笑って切り出した。

「杵築さん、もう一時過ぎですけど、昼飯は食べましたか? よかったらごちそうしますよ。親父のようには行かないでしょうけど」

「いや、結構。今日はこれでお暇するよ。さっきの話、よく考えておいてほしい」

「……そうですか」

 ふられたな、と思いつつ、良太は杵築が去るのを店の外まで見送ることにした。

 外に出るともう風は涼しく、秋の色を帯びてきていた。先日台風があってから急に気温が低くなったような気がする。良太は半袖の腕を撫でながら杵築に云った。

「杵築さんも気を付けてくださいね」

「例の、料理人連続殺人事件か……」

 そう、現在この日本では名のある料理人が次々と変死、怪死を遂げており、それがどうやらすべて他殺だというのだ。ほかならぬ良太の父も被害者の一人であり、しかも事件は未解決である。

「私は料理人としては凡だ、襲われることはないだろう。君こそ料理人にならなくてよかったな。君が料理の道に邁進していたら、父親を超えていただろうから」

「えっ?」

 良太には、そんなことはとても信じられなかった。ビジネスの話に付随するお世辞であろうかと思っていると、杵築がうっそりと云う。

「昔、君の料理を食べたときに、そう思っただけだ」

 その言葉を最後に、杵築は良太の前から歩み去っていった。

 それを声もなく見送った良太は、改めて自分の実家を、父がずっと切り盛りしてきた店を振り仰いで、ふとした感傷に浸った。

「はらぺこか……昔は、継ごうと思ってたんだけどな」

 良太は小学生のときに母親と死に別れ、その後は料理人だった父に男手一つで育てられた。店の手伝いのかたわら、父に料理を仕込まれ、小学生のときの『将来の夢』という作文では実家の店を継ぐと書いたはずなのに、大人になってみるとお役所勤めなどをしている。それでも父が定食屋を続けている限り、自分も休日は店を手伝うという日がずっと続くと思っていたのに、現実はこれだ。

「親父、なんで死んじまったんだよ。四十八はまだ若すぎるだろ……」

 良太がそう途方に暮れてしまったときだった。

「はらぺこは暖簾を下ろしたのか」

 突然の声に良太は飛び上がりそうなほど驚いた。見ればいつの間にか音もなく気配もなく、良太の隣に一人の美少女が立っている。見たところ白人で、背が低く、年齢は中学生くらいに見えた。真っ白い髪を左右でまげにした、いわゆるツインテールで、まだ秋の入り口だというのに黒いロングコートを着込んでいる。そんな小柄な美少女が、ピンクの瞳ではらぺこの貼り紙をじっと見つめて云った。

「修也は死んだか……」

 ――子供? でもなんか妙な迫力がある。

 自分の半分くらいしか生きていなさそうな少女に、なぜか威圧感を覚えてしまった良太だが、それでも彼女の口から父の名前が出てきたこと、それが日本語であることに勢いを得て、声をかけた。

「お嬢ちゃん、親父の知り合いかい?」

「うむ。生前の御父上には世話になった。申し遅れたな、私は皿……いや、サラという。空ノ器からのうつわサラだ。それまで名無しだったので、修也がつけてくれた」

「親父が名付けた?」

 目を丸くした良太は、次の瞬間、ある可能性におののいて飛び退いた。

「まさか隠し子!」

「違う、断じて違う。私はこの世の誰とも血が繋がっていない。妙な勘違いをするな。愛人とかでもないぞ。彼氏いない暦年齢だからな。えっへん」

「いや、誰とも血が繋がってないって……」

 そんな人間がいるはずはない。そう思って良太が目を丸くしていると、サラがこんなことを訊ねてきた。

「ところで、もしや修也は殺されたのか」

「ああ……例の、料理人連続殺人事件は知ってるだろう? 親父はその被害者なんだ」

「そうか。一度倒した敵にやられるとは無念だな。だが私がいなければどうにもならんか。眠れ、修也。安らかに……」

 サラはそう云って、店に向かって合掌した。そんな彼女の横顔を見下ろす良太の心は、驟雨の降る水面の如しだ。

「えっ? なに? なんの話だ? 一度倒した敵って、なんだよ?」

 するとサラは良太を切りつけるような目で見て、質問には答えずこう云った。

「しかし困った。腕利きの料理人が必要なのだが……おまえ修也の息子か。よく似ておるな。料理の腕も父親譲りか」

「いや、俺は料理人じゃない」

「なに?」

 サラの柳眉がひそめられた。

「あの修也の息子が料理人ではない? そんなことは信じられん。それによく考えてみれば、なぜはらぺこは閉店なのだ? おまえが跡継ぎではないのか?」

「だから俺は違うんだって。俺はお役所勤めで、店は継がないことにしたんだよ。自営業ってのは大変なんだ。こんな小さな町の小さな店じゃ……」

 昔は店を継ごうと思っていた。だが偉大な父には遠く及ばぬ自分の料理の腕前に失望したことや、高校時代にクラスメイトの実家の小料理屋が潰れて、その友達が進学を断念するのを目の当たりにしたことがあり、やっていく自信がなくなってしまった。

「日本は少子化なんだ。こんな田舎じゃ、人はどんどん減っていく。だから俺は公務員になったのさ。親父に料理は仕込まれたけど、俺みたいなのが料理人なんて名乗ったら、本当の料理人に失礼ってもんだ」

「そうか……残念だなあ。ああ、残念だ、残念だ」

 そうわざとらしく繰り返されるので、良太は苦笑して店を指差した。

「でも腹が減ってるなら寄っていきなよ。ちょうど俺も昼飯にするところだったし、米も炊けてる。ただで食わせてやんよ。親父の話も聞きたいしな」

「うむ。ではそうしよう」

 こうして二人は店のなかに場所を移した。

 厨房に立った良太は、サラがカウンターの席に着くのを待って尋ねた。

「で、なにが食べたい?」

「勝負事に勝てるような料理を」

 普通のリクエストではなかった。良太は目を丸くしたが、しかし客の注文には力の限り応えるのが料理人である。料理の道を諦めたからといって、厨房に立った以上、手抜きは許されない。

「……つまり、勝負事のゲン担ぎか? たしかに食と吉凶を結び付ける風習は世界中どこにでもある。だがうちは定食屋だ。勝つって云ったら、アレしかねえな!」

 良太は顔を輝かせてそう云うと、さっそく調理にかかった。そんな良太の姿を、サラは頬杖をついてしばらく眺めていたが、やがて云った。

「手を止めずに聞け。おまえ、ファンタジーを信じるか?」

「ファンタジー?」

 もちろん良太だってファンタジー映画くらいは見たことがあったし、子供のころにはゲームもやったが、その手の御伽噺おとぎばなしはもう卒業している。

「神や悪魔といった、夢物語を信じるか?」

「え……」

 良太が内心戸惑って返事もできないでいると、サラは、それこそ桃太郎や浦島太郎といった、紙芝居の昔話を語るような口調で話し始めた。

「この世界には影があり、その影の世界からやってくる魔物がいる。それらは人の世でしばしば悪さをするのだ。悪さと云ってもしでかすことは魔物によって様々で、かわいい悪戯程度のこともあれば、看過できぬ災厄をもたらすものもいる。なかでも血道楽ちどうらくと云う鬼はとんでもないやつだった。あやつは人を殺し、その血を啜ることにたのしみを見出したのだ。それで私は修也と協力してそいつを影の世界に追い返した。今から三十年前のことだ」

 そこでサラは言葉を切り、良太をじっと見つめて、その反応を待っているようだった。良太は黙々と料理の工程を進めていたが、その視線に気づくと云った。

「それで?」

「……信じるのか?」

「いや、正直まだなんとも云えない。でも三十年前ってことは、おまえ幾つだよ?」

「私は神だから年齢など数えていない」

 さらりと云われたその言葉に、良太は驚くという反応すらできなかった。ただもう、これは話を最後まで聞かねば判断できないと思った。

「……続きを話してくれよ」

 いいとも、とサラは相槌を打って続けた。

「あれから三十年、血道楽が戻ってきた。そして料理人たちを殺し始めたのだ。修也に対しては、昔の恨みもあったろうがな」

「なぜ料理人を殺す?」

 良太は怒りとともに尋ねた。仮にここまでの話が本当だとして、人の生き血をすする鬼が料理人を目の仇にして殺しまわるのはなぜなのか。

「それはな、やつは料理のために敗れたからよ。だから将来の危険を取り除く意味で、凄腕の料理人たちを葬り始めたのだ。では料理のために敗れるとはどういうことか? それは、おまえの出した料理が美味ければ教えてやろう」

 正直なところ意味がわからなかった。だが自分の出す料理次第で答えがもらえるというのなら、それは単純に良太の血を滾らせてくれる。

「……上等じゃねえか! やってやるぜ!」

 そうして数分後、良太は渾身の一品をサラの前に並べた。

「おまちどう! 勝負事に勝つってことで、カツ丼だ!」

 カウンターの席に丼が置かれ、その蓋を開けたサラの目がきらきらと輝き出す。

「これは……見ただけでわかる。この丼に込められている情熱が……なにが料理人ではないだ。おまえ、毎日料理をしていただろう」

「それはただの習慣だよ。実家が店をやってるんだ、手伝いくらいするだろう……って、そんなことはどうでもいい。冷めないうちに食ってくれ!」

「うむ!」

 そうしてカツ丼を一口食べたサラは、熱いだろうに、そこから猛烈な勢いで丼の中身を掻き込み始めた。

 最後にお茶を飲んで、ほうと一息ついたサラは、空の丼を見下ろしてしみじみと云う。

「さっきも云ったが、私は人間ではない。神だ。神として世界の影からやってくる魔物たちから、この世界を守ってきた。ところで『腹が減っては戦はできぬ』という言葉は神にとっても同じでな、神たる私もまた食べることで力を得て、戦えるようになるのよ」

 そう云ってサラは立ち上がると、背が低いのに良太を見下ろすような目で見て云う。

「私という神は、食べた料理の種類に応じて、変身するのだ」

「へ、変身だと……?」

「そして変身後の力は、料理の美味さに比例する。おまえの父、修也をパートナーに選んだのはそういうわけだ。奴の作った料理で、私は多くの魔物を追い払うことができた。そして良太よ、おまえのカツ丼も、父のそれに負けず劣らず美味かったぞ」

「そんな――」

 良太は嘘だと思った。自分の料理が父に及ぶはずはないと信じていた。サラの話も、なにもかも嘘ではないかとすら思った。

 だがすべては真実であると告げるように、サラがにっと笑って云う。

「見るがよい!」

 次の瞬間、サラの体がかっと輝き、その姿が変身シェイプシフトを始めた。背が伸びていき、子供のようだった体型がどんどん大人びていく。乳房は張り、腰は稔り、逆に長かった髪は短くなって、金髪へと変貌した。顔も変わり服も変わり肌は褐色になり、そうして良太の目の前に、それまでとはまったく別の美女が現れた。

 その美女は琥珀色の瞳を見開くと、にやりと笑った。

「やるじゃねえか。カツ丼、美味かったぜ、ごちそうさん」

「ほ、本当に変身しやがった……」

 さすがの良太も唖然茫然、目の前で起きたのでなければ、とても信じられないことだ。逆に云えば、これを信じサラの言葉をすべて信じるのだとすると、この世界には影があり、そこからやってくる魔物がいて、父はそれに殺されたということになる。

「サラ、おまえは……」

「サラじゃない。俺はカツ丼が神に食われることで擬人化した存在……カッツェだ!」

「カ、カッツェ?」

 こう驚いてばかりでは心が疲れてしまうと思ったけれど、それでも良太はまたぞろ驚かざるをえない。

「急に、なにを、姿形が変わったわけじゃないのか?」

「いや、それが性格も変わってんだ。体だけじゃなく心も変身するんだよ」

「……役者の人に、その役になり切って演技するタイプがいるっていうけど、そういうのじゃなく?」

「人格からして別物だよ。サラは変身って云ってたけど、降霊術に近いんじゃないかと俺は思ってる。記憶は共有してるがな」

「降霊術……」

「だから俺とサラは、同一人物でもあり、別人でもある。こんな風に、サラは料理を食べることで、その料理の属性に応じた別神べつじんに、身も心も変身する。その力を使うために料理人とコンビを組み、邪悪な魔物を追い払っていた。三十年前には修也の料理の力で、血道楽も追い返した。だがこの世に舞い戻ってきた血道楽は……」

 そこまで話を聞けば、もう良太にもわかる。

「サラの力を無効化するために、凄腕の料理人を殺してまわってるってことか?」

「そういうことさ。さ、台所片づけて、出かける準備しな」

 そう云われて目を丸くする良太に、カッツェは笑顔を浮かべてねじこむように云った。

「親父の仇を討つところ、見たいだろ? 腹ペコになったら変身解除タイムリミットでサラに戻っちまうから早くしてくれよな」


        ◇


 数分後、良太はカッツェに負ぶわれて建物の屋根から屋根を飛び移っていた。カッツェが血道楽の許へ向かうと聞いたとき、良太は車を出そうかと思ったのだが、走った方が早いという。どうするつもりかと思ったらこれだ。良太を背負ったカッツェは地を蹴り、空中高く舞い上がり、家々の屋根やビルの屋上を次々足場として、凄い勢いで飛んでいく。

「こんなの人間じゃない!」

「神様だ、つってんだろ! カツ丼の女神さまだよ。でもここまで動けるのは、おまえのカツ丼が美味かったからだぜ!」

 そう、料理を食べて変身したサラの力は、料理の美味さに比例するという。サラ改めカッツェが仙人さながらの動きを発揮できるのは、ひとえに良太の出したカツ丼が美味かったからだ。良太は嬉しかったが、しかし素直には己惚れられない。自分の料理は父親に遠く及ばないという想いが胸に強く根付いていた。

「……しかしカッツェ、俺も色んなことにびっくりしていたから、云われるまま飛び出してきてしまったけれど、おまえ、血道楽がどこにいるのかわかっているのか?」

「ああ、サラには魔物の気配を感知する能力が備わっている。この体はサラの体でもあるから当然、俺にもその能力がある。やつはもう近いぜ!」

 カッツェがビル壁を強く蹴り、飛翔の勢いがぐんと増した。良太は町中を駆け巡るジェットコースターに乗っているような気分で、カッツェに思い切りしがみつき、早くどこかに落ち着いてほしいと祈っていた。

 動が静に転じる瞬間は唐突に訪れた。どこかの屋敷の庭に、カッツェが鮮やかに着地を決めたのだ。

「下りなよ」

 カッツェにそう促され、良太は恐る恐る地面に足をつけ、大地の感触を確かめるとやっと安堵した。そうして辺りを見回せば、日本庭園にも和洋折衷の建物にも見覚えがあり、良太は目を丸くした。

「あれ、ここは、親父と何度か来たことがある……杵築さんのやってる料亭だ!」

「杵築って、杵築鉄斎? こんなでかい店を構えるとは、あいつ出世したなあ」

 そうしみじみ云ったカッツェに、良太は驚きの目を向けた。

「し、知ってるのか?」

「修也とは十年近くコンビを組んでたからな。鉄斎は修也の一番の友達だったし、隠し通す方が無理さ。あいつはサラのことや血道楽のことも知ってるよ。だが血道楽が戻ってきたとは夢にも思わないか。そしてここに血道楽がいるって云うなら……」

「つ、次の標的は、杵築さんか!」

 良太が愕然と叫んだまさにそのとき、勝手口の扉が開いて、当の杵築が姿を現した。

 良太と杵築はともに目を丸くしたが、やがて良太は安心して云った。

「杵築さん、無事だったんですね!」

「いや、話し声がするから見に来てみたら、良太くんではないか。無事だったとはなんの話だ? それにそっちの派手な女は……」

 カッツェを見て不思議そうに小首を傾げた杵築に、カッツェは片手をあげて気さくに挨拶をした。 

「よお、久しぶり。血道楽を退治したのは三十年前だけど修也とコンビを組んでたのは二十五年前までだから、四半世紀ぶりか。おっさんになったなあ。カツ丼で変身してるのは初めてだからわからないだろうけど……」

 だがそんな話を聞かされれば自ずと見える答えもあろう。杵築は口をぽかんと開けながら、ぶるぶると震える手でカッツェを指差して叫んだ。

「まさか、おまえ、サラか! 腹ペコ・シェイプシフターの!」

「おう、とりあえず横に跳びな。出ないと死ぬぜ?」

 良太だったら硬直してしまっていただろうが、杵築は反応が早かった。慌てて横っ飛びした杵築の立っていたところに、屋根の上から飛び降りてくる異形の影がある。

 それは黒塗りの異形だった。おおよそ人型をしていたが、その大きさも、面貌も、爪牙も、身に着けているものも、鬼と呼ぶのに相応しい姿だった。

 腰を抜かしたように尻餅をついている杵築が、悪夢を見るような面持ちで云う。

「そんな、こいつは……」

 だが異形は杵築には一瞥もくれず、炯々と燃える目でサラをじっと睨んでいる。

「この気配、貴様は……」

「三十年ぶりだな。相変わらず臭いじゃないか、血道楽」

「初顔だな……だがわかるぞ。一度皿に乗った料理の記憶はすべて共有しているな。忌々しき光りの守護者、我らが大敵、シェイプシフター!」

 その異形、血道楽は巨大な鉤爪を振りかざして襲い掛かってきた。それを間近で目撃した良太は一瞬で気を呑まれてしまい、逃れられぬ圧倒的な死を感じた。だがカッツェはそれに対し、真正面から拳をふりかぶって向かっていく。

「――カッツェ」

「ここまで大急ぎで駆けつけてくるのに結構力使っちまったからな。悪いが一発で決めさせてもらうぜ!」

 そうして、カッツェの拳と血道楽の鉤爪がまともにぶっつかって、鉤爪の方が砕け散った。のみならず、血道楽の拳が割れ、腕が裂けていき、黒い血のようななにかが噴き出す。

 カッツェがにやりと笑ったが、血道楽もまた異形の面貌で笑ったようだった。

「ぬうん!」

 青黒いオーラが血道楽の全身から溢れ、それはたちまち右手に集まって、裂けた腕を修復し、のみならずカッツェを押し始める。

 そうして力の押し合いを始めた二人を見上げて、杵築が青ざめながら云った。

「な、なぜ、今になってこいつが……いや、まさか、修也を殺したのは!」

「そう、俺よ! 昔の恨みと、にっくき腹ペコ・シェイプシフターの力を削ぐのと、一挙両得であるからな! そして貴様も、俺の標的だぞ?」

「な、なに……」

「貴様は料理人としては低能だが、ずいぶん店を繁盛させているようじゃないか。そういうやつを放っておくと、新たな料理人が育ってしまうからな。消えてもらおう」

「消えるのは……」

 と、カッツェが目をぎらぎらさせながら血道楽を押し返し始める。

「おまえだあっ!」

「甘いわあ!」

 カッツェと血道楽、二人が同時に渾身の力を爆発させ、そして敗れたのはカッツェの方だった。彼女は血道楽の腕が振り抜かれると、その勢いを利用して大きく後ろへ跳び、仕切り直しながらぼやく。

「ちっ、なんて力だ。腕も再生しやがるし!」

 そう、一度は砕いたと思った血道楽の右腕は、今や青黒いオーラとともに完全な再生を果たしていた。

「クカカッ、料理人の腕前が悪かったな」

 そこで初めて血道楽の目が良太を射抜いた。

「この小僧が、おまえの今の相棒か」

 異形の怪物に見られ、情けない話だが良太は足元から震えあがった。正真正銘の化け物なのだとわかってしまう。本能が逃げろと叫んでいる。

 ――こいつ、こいつが、こんな化け物が、本当にいるのか! 昔の親父はこんなのと戦ってたっていうのか!

 膝を屈しかけた良太に、しかしカッツェが云う。

「しっかりしろ、良太。父の仇だぞ」

 その言葉で、気圧されていた良太のなかでなにかのスイッチが切り替わった。

「そうだ……おまえが、親父を、殺したのか!」

「ふん、そうか、息子がいたのか。たしかに顔は似ている……だが料理の腕までは似なかったようだな」

「ほざきやがれ……!」

 いつのころからか、良太は父親には叶わないと諦めるようになっていた。だが今は違う。久しぶりに悔しい。

 ――いつぶりだろう、こんなに血がざわめくのは。いったい俺はいつから、親父には叶わないって諦めていたんだろう。

「ちくしょう……すまない、カッツェ。俺の料理がもっと美味けりゃ、今の一撃でこいつを粉砕できていたのかなあ」

 変身したサラの力は、料理の味に比例する。自分がもっと料理に打ち込んでいればと良太が初めて自分の人生を悔いたとき、カッツェが笑いながら云った。

「んなこたねえよ、美味かったよ。三十年前の、十八のガキだった修也の料理よりはよっぽどいい出来だったさ」

「え……?」

「ふん、なに驚いてやがる。おまえにとっちゃ修也は永遠に高くそびえる壁だったのかもしれないが、あいつにだって未熟な少年時代はあったんだぜ? なあ、鉄斎」

「……そうだな」

 杵築はだんだん落ち着きを取り戻してきたのか、立ち上がって、血道楽から慎重に距離を取りながら云った。

「あいつは天才だったが、それでも十八のときは失敗の方が多かった」

「そんな……でも、じゃあどうして、カッツェはやつを倒せない?」

「昔より力が増している。あんな再生能力もなかった。修也が戦ったときより、強くなっているのだ」

「一度やられたのでな。修行はし直してくるに決まっているだろう!」

 そうして血道楽は良太に襲い掛かってきたが、カッツェがそれに割り込んで回し蹴りを放った。そこからたちまち嵐の攻防に突入し、庭中を転がり回る二人を見て、良太はすっかり肝をつぶされてしまっていた。

「す、すげえ……」

 人間の立ち入れる戦いではなかった。自分など拳の風圧だけで潰されてしまいそうだ。一方、杵築は勝手口から自分の料亭の厨房へ飛び込んで、そこで働く料理人たちを外へ逃がしてから、また庭へ戻ってきた。

「決着はついたか!」

「いや、まだです」

 良太が緊迫した声でそう答えるまでもなく、杵築は烈しい攻防を繰り広げるカッツェと血道楽を見て露骨に顔をしかめた。

「……まずいな」

「と云うと?」

「サラから腹ペコ・シェイプシフターの仕組みは聞いたか? あれにタイムリミットがあることは?」

「ああ、たしか空腹になると、変身が解除されるって……」

「そうだ。サラには戦闘力がない。食べた料理に応じて変身することで初めて戦えるようになる。その力は料理の味に比例し、そして空腹になると変身が解けてもとのサラに戻ってしまう」

「でも、さっき食べたばかりですよ?」

 と、そのとき血道楽の蹴りで吹き飛ばされたカッツェが良太たちのところへ転がってきた。カッツェは猫のような動きですぐさま身を起こしたが、そのとき『ぐきゅるるう』と世にも間抜けな音が響き渡った。

 最初、良太にはそれがなんの音かわからなかったが、カッツェの気まずそうな横顔を見て、腹の虫が鳴ったのだと理解した。

「えっ、カッツェ、おまえ今の……」

「腹が減ってきた」

「ええっ、もう?」

 サラがカツ丼の擬人化であるカッツェに変身してからここまで、わずか十分足らずの出来事である。

「マジで云ってんのかおまえ? どんぶり一杯平らげておいて……」

「相変わらず燃費の悪い奴だ!」

 そう吐き捨てた杵築をカッツェが恨めしげに睨んだとき、血道楽が突っ込んできた。それに応戦しながらカッツェが云う。

「激しい戦闘をすれば消耗も早いのは仕方ないだろうが! なんとかしろ!」

「なんとかって……」

 戸惑う良太に、傍から杵築が云う。

「おかわりだ」

「えっ?」

「こっちへ来い!」

 良太は杵築に腕を掴まれ、勝手口から料亭の厨房へと引っ張り込まれた。そこは料亭という和風の印象に反して、最新の設備が揃った真新しい厨房だった。杵築の店は夕方からだが、ここで働く料理人たちがついさきほどまで仕込みをしていたらしく、出汁のいい香りが漂っている。

 その厨房を指差して杵築が云った。

「サラは空腹になったら変身が解除される。料理に擬人化していない状態のサラは無力なものだ。そうなる前に次の料理を作って出すというのが、修也のやっていたことだった」

「それが、おかわり……?」

「そうだ。しかもただ美味い料理を作るだけでは駄目なのだ。敵の特性を見抜き、限られた時間と材料を駆使して、敵に対して相性のいい擬人に変身できる料理を出さねばならん。もちろんそれにはサラがどんな料理でどんな能力を獲得するのかを知り尽くしている必要がある。サラと出会ったばかりの今の君では、出来ない芸当だろう」

「だったら……」

 良太は必死の目をして杵築に詰め寄った。

「杵築さん、やってくださいよ! サラの相棒は親父だったけど、杵築さんだってあいつのことは知ってるんでしょう? 俺よりずっと詳しいはずだ。だから……」

 良太の声が途中で小さくなって途切れた。杵築の目を見て、杵築が口にしなかった答えがわかってしまった。

 果たせるかな、杵築はどことなく寂しげに云った。

「昔、修也が戦いに間に合わなくて、私の料理でサラを変身させたことがある。だが負けた。私と修也では、料理の腕が違ったのだ。あれから三十年……私はもう料理の研鑽をしておらん。そんな私の腕前で血道楽に勝てる料理を作れるとは思えん。君しかいない!」

 ハンマーで頭を殴られたような衝撃が良太を襲った。そんな良太の肩を揺さぶって、杵築がなおも云う。

「この厨房のものは好きに使って構わない。補助もしよう、助言もしよう。だが君の料理で勝負するのだ! 父親を……あの馬鹿を超える皿を出してやれ!」

「親父を、超える? 俺が……?」

 そんなことは無理だと思った。絶対に叶わないと思った壁なのだ。しかし、だとしたら、体の底から湧き上がってくるこの熱はなんなのか。

 ――もう一度、二十五にしてもう一度。

「やってみたいと思ってるのか、俺は……」

 良太は服の上から自分の胸を掴み、その奥の心臓を感じて、厨房に魅入られるようにして足を踏み出していった。

 そんな良太のあとに杵築が続く。良太は初めて使う厨房の設備を確かめながら尋ねた。

「で、なにを作ればいいと思いますか?」

「……血道楽は最初の一撃を喰らったとき、たしかに右腕にダメージを負った。にもかかわらず再生した。ということは、カツ丼以上に破壊力のある料理で戦わねばならん。私の知っている限り、そしてこの厨房ですぐに出来るもので、もっとも破壊的な料理の擬人と云えば……」

「云えば?」

 時間がない。急いで答えを聞きたくて良太が踏み込むように尋ねると、杵築はかっと目を見開いて叫んだ。

「うな重!」


        ◇


 記憶にあるより、血道楽の強さは遙かに増していた。何度目かの応酬の末、吹き飛ばされて転がったカッツェが素早く立ち上がったところへ、なにかいい匂いが漂ってきた。

「この匂いは……」

 たちまち食欲が刺激されて、カッツェは比喩でなく目が回り始めた。

 ――くそ、なんて美味そうな匂いなんだ。戦いの真っ最中だって云うのにっ!

 口のなかに唾が溜まり始めたそのとき、血道楽が咆哮をあげながら突っ込んできた。びりびりと震える空気に鳥肌を立てながら、カッツェは血道楽を迎え撃った。

 血道楽の鉤爪が旋風となって襲い掛かってくる。その鉤爪を、カツ丼のオーラを込めた拳で殴って叩き壊してやっても、すぐに再生するのだ。

 ククッ、と血道楽が嗤う。

「無駄だ。貴様の貧弱な力で俺を倒すことはできん」

「云ってくれるぜ」

 カツ丼の化身である自分はパワーとスタミナに優れ、かつスピードも具えている。前衛としては理想的な配分であった。それでもなお力負けするのだ。

 ――ほかの部分が犠牲になってもいい! もっと破壊力のある奴にバトンタッチしないと……良太、まだか!

 そのカッツェの心の声に応えるように、このとき勝手口の扉からお盆を手にした良太が姿を見せた。

「カッツェ!」

 たちまちカッツェの口元が笑みのかたちに緩む。それはやっと料理にありつけるという、原始的な喜びの笑みだった。

 一方、血道楽もまた良太を見た。

「この香り……おかわりか! させんぞ!」

 血道楽がカッツェを無視して良太に向かっていったが、しかし。

「それこそ、させねえよ!」

 カッツェは最後の力を振り絞り、雷霆の速度で良太と血道楽のあいだに割り込むと軽い連続パンチを放ち、相手が仰け反ったところでアッパーカットの体勢に入った。

「おかわりが来たんだ。もう遠慮はいらねえ! 残った力、全力全開でぶつけてやる!」

 その右手がカツ丼の卵と玉ねぎのような、黄金の輝きを帯びる。

「ヴィクトリー・インパクト!」

 次の瞬間、物凄い音がして血道楽の体が宙に浮かされたかと思うと、そのまま一気に蒼穹にまで突き抜けていった。これがアニメだったら、きらりと星になる演出が加わったであろう。


        ◇


 カッツェ渾身のアッパーカットで血道楽が大空へ吹き飛ばされるのを見た良太は、さすがに我が目を疑った。

「た、倒した?」

「いや、相手を打ち砕く手応えはなかった。真上に吹き飛ばしただけだ。しばらくすれば落ちてくる。だから、その前に……」

 精も根も尽き果てたといった様子のカッツェが、ゾンビもかくやといった足取りで良太に迫ってくる。

「は、早く食わせろ! もう腹が減って腹が減って……って、味わうのは俺じゃなくてサラなんだけどな……」

「カッツェ」

 良太は茫然と呟いた。カッツェの体から金色をした光りの粒子が泡のように生まれては宙に浮かび、はじけて消えていく。まるでその体がほどけていくかのようだ。

「へへ、力を全部使っちまった。もう本当に腹ペコだ。短いあいだだったが楽しかったぜ。よかったらまたサラにカツ丼を食わせてやってくれ。そうすれば、会えるから……」

 その言葉を最後に、カッツェの体が粒子に呑み込まれて消える。無数の花びらで目がくらんだような一瞬のあと、そこにはサラが立っていた。白い髪をツインテールにしたあの小柄な少女が、餓えた目をして良太に手を差し出してくる。

「なにを作った?」

「うな重」

「よし、食わせてみろ」

 良太はそれに一つ頷き、お盆をサラに渡した。サラはその場に座り込み、背中を丸めてさっそく重箱を手に取り、目を輝かす。

「おお、これは……」

「漫画みたいな解説はいらんぞ、早く食え。奴が来る前に!」

 そう杵築に促され、サラは箸を手にし、しかし眉をひそめた。

「よく味わって食べたいのだがなあ」

「早くしろおっ!」

 杵築がそう大声を落としたので、サラはまず一口食べた。するとたちまち福々しい笑みを浮かべて箸を止めるのだ。そんな顔を見て、良太は思わず料理人の性に駆られて尋ねていた。

「美味いか?」

「美味い!」

 そのたった一言の、なんと嬉しいことだろう。料理人は皆、このために料理をしているのだ。そしてその料理人の原始的な喜びが、自分のなかに絶えることなく息づいていたことが、良太にとっては嬉しくも驚きであった。

「そうか、もっと食え」

「ん」

 そうしてサラがはふはふと熱い米と戦いながらうな重を掻き込み始めたときだ。ごうと風が唸ったかと思うと雷の落ちたような音がし、血道楽が戻ってきた。

 良太は凍りついて血道楽を見た。血道楽もこちらの状況を見ていた。

「は、早く食え!」

「現実的に考えてこの量を秒で掻き込むのは無理だ」

 と云っているあいだにも血道楽はサラに向かって突進してくる。良太にはそれをどうすることもできない。次の瞬間にも食事中のサラが蹴散らされるのかと思ったそのとき、杵築が雄叫びをあげながら血道楽に突進していく。

「杵築さん!」

「邪魔だ!」

 一瞬であっけなく、血道楽の爪が杵築の腹を刺し貫いた。

「杵築さん!」

「ぐあああ……!」

 悶絶する杵築を、血道楽が邪魔くさそうに振り払った。倒れ伏した杵築に駆け寄った良太は、その悲惨な姿に目を覆いたくなりたながらも声をかけた。

「杵築さん、なんで、なんでですかっ」

「なぜ? なぜだろうな……こういうときは、もう無我夢中で……私には料理の才能がなかった。修也は野心を持たなかった。君は……どうだ……?」

 その言葉を最後に杵築は目を閉じ、動かなくなった。凍りつく良太を見下ろし、血道楽は鉤爪にしたたる血を舐め、極上の美酒を味わったかのような陶酔の顔をして云う。

「……ふん。元々はそいつを殺すつもりだった。順番が元に戻っただけだな」

「て、てめえ……」

 怒りによるものか、怖れによるものか、良太はぶるぶると震えながらも血道楽を睨みつける。

 そんな良太に血道楽は嗤笑ししょうを浴びせた。

「そんな目をしたところで、おまえはなにも出来ずに殺される。この俺の手で――」

 その言葉が途中で掻き消えた。黒い巨大なひれのような手が、血道楽の横っ面を張り飛ばし、その体を転倒させたのだ。

「ウナのこと忘れてもらっちゃ困るウナ」

 そう云って良太を守るように立ったのは、実に奇妙な少女だった。小柄な体躯に鰻の着ぐるみを身に着けている。その着ぐるみの首のところに顔があり、したがって鰻の顔をした山高の帽子をかぶっているような感じでもあり、そして鰭付きの手足を出していた。

「え、なにそれ、鰻の仮装……?」

 そう呟いた良太を振り返って、着ぐるみから顔を出しているとしか思えない姿の少女が笑う。

「ウナはうな重の擬人、ウーナウナ!」

「うなうな?」

「ウーナ! それが名前ウナ!」

 そう云ったウーナは、どうやらサラが変身した擬人らしい。

「おまえ、本当に?」

「ごちそうさまウナ。うな重、美味しかったウナ」

「貴様……!」

 忌々しげに立ち上がった血道楽に、ウーナは軽侮の視線をあてる。

「力は増したようウナが、人の血を見るとその血に酔って物事の順序を見失う弱点は変わっていないようウナね。まずそれを克服すべきだったウナ」

「おのれ!」

 逆上した血道楽が鉤爪を振りかざしてウーナに襲い掛かるが、そんな血道楽にウーナはつばきを吐いた。いや、唾というにはあまりにも量が多い。まるで口に含んでいた液体を吐きかけたかのようだ。

 そしてそれが血道楽の鉤爪に降りかかるや、鉤爪がしゅうしゅうと音を立てて溶け出した。

「なっ!」

「鰻の血は毒ウナ。それを応用した毒液ウナ」

 それを聞いて良太は、料理人としては少し心外だった。

「ちゃ、ちゃんと加熱すれば鰻の毒は消えるはず……」

「それはそれ、これはこれウナ。それよりいい加減、こいつの顔は見飽きたウナ。急がないと鉄斎が失血死するし、次の一撃で決めるウナ」

 良太の頭は二つの衝撃に揺さぶられた。一つは杵築がまだ生きていること、もう一つは、ウーナが勝負をつけるつもりでいることだ。

 良太が呆気に取られる一方、血道楽が憤怒と屈辱に燃える。

「勝てる気でいるのか!」

「こっちの科白せりふウナよ」

 そうしてウーナと血道楽、二人がお互いを目掛けて飛びかかった。血道楽の爪による攻撃を、頭を低くしてやり過ごしたウーナが、全身を捻り、お尻を振るような動きを見せた。そして巨大な鰻の尾が――。

「ウナテイル・クラッシュ!」

 巨大鰻の尾が血道楽を一撃し、すべての勝敗を決めた。それはカッツェの攻撃よりもはるかに重く、分厚く、破壊的な一撃であった。

 ……。

 仰向けに倒れた血道楽を、良太とウーナが覗き込んでいた。血道楽の体は影が消えるように透けていく。

「……ウーナ、こいつはこれで死ぬのか?」

 それにウーナはかぶりを振った。

「魔物は死なないウナ。影の世界に追い払うことしか出来ないウナよ」

「やっぱり、そうなのか……」

 三十年前、一度父とサラによって討伐された血道楽が戻ってきたという話を聞いたとき、良太は頭の片隅で思った。

 人殺しに快楽を見出すような危険な魔物なら、どうしてきちんととどめを刺しておかなかったのか。それは魔物という存在が、生物とは根本的に違っていて、死ぬということがないからではないか。

 果たせるかな、血道楽は良太の心を読んだかのように嗤う。

「ククク……そうだ。魔物は死なぬ。光りに駆逐され、存在が希薄になっても、影のなかに潜んで力を増し、やがてこちらの世界に相を結ぶ。そういうものだ……だから俺は戻ってくるぞ。必ず戻ってくる。何十年かかろうと、ふたたび戻ってきて、血の道楽に耽ってくれるわ!」

「ウナ!」

 それ以上は聞くに及ばぬというように、ウーナが血道楽の頭を踏みつけた。

 頭部がひしゃげるのと同時に、血道楽の体は幻のように消えてしまった。影の世界に戻ったのだ。

 それを見届けると、ウーナの方でも気が抜けたのか、彼女はその場に座り込んでしまった。

「もっと良太とお喋りしたかったウナ……でも、もう、お腹ぺこぺこ……」

「今、食ったばかりじゃん!」

 そんなツッコミも間に合わない速度でウナの姿がほどけて、そこには白い髪をツインテールにしたサラがいた。

「必殺技を使うと一気にお腹が減るのだ。それより鉄斎……」

 それで良太ははっと息を呑みながら倒れている杵築に駆けつけ、その傍で片膝をつきながら携帯電話を取り出した。

 ――杵築さん、くそ、あんた厭なやつだけど、こんなところで死なれたら困るぜ! 親父、頼む!

 良太は天の父に祈りながら、急いで救急車を呼んだ。


        ◇


 それから数日後、良太は大きな総合病院の入院病棟にいた。六階の個室で、ベッドにはだいぶやつれた杵築が横たわっており、点滴の管が繋いであった。手術は成功し、もう命に別状はないと云う。

「よかったですね、助かって」

「ふん、急所を逸れていたのだ。やはり私は運がいい」

「食えます?」

 良太はサイドボードに置いた果物の籠を指差して云った。見舞いの品として持ってきたものだ。

「そのうちいただくとしよう。ところで、サラはどうした?」

「さあ。気づいたらいなくなってて……」

 あのあと、救急車を呼んだりして騒ぎが大きくなっているあいだに、サラはいつの間にか姿を消していた。

「ふん。まあ、あいつは昔からそんな感じだ。修也もずいぶん振り回されていた」

 杵築はそう云うとしばらくぼんやりしていた。きっと思い出を振り返っているのだろう。それがいきなり良太に視線を戻して云った。

「ところで、君の店を買いたいという話だがな……」

「ああ、そのことなら、もう決めました」

 良太はにやりと笑って、自分の答えをはっきりと告げた。


 病院を出ると風はもう冷たかった。それでいて陽射しは温かく、良太はいい気分で町を歩き、自宅の前まで戻ってきて、そこで足を止めた。店の前にサラが立っていた。

「サラ!」

 良太はそう一声叫んで、サラに駆け寄っていった。そんな良太を見上げてサラは云う。

「先日は、勝手にいなくなってすまなかったな。今日はちゃんとお別れを云いに来たぞ」

「お別れ?」

「うむ。血道楽は去ったし、私も去るべきかと思ってな」

 そんなサラをじっと見下ろしていた良太は、やがて秋風の冷たさに追い立てられるようにして店の鍵を開けた。

「とりあえず入れよ。色々と聞きたいこともあるんだ」

 そうして店の明かりを点けた良太はサラをカウンターの席に座らせると、自分はその向こうの厨房に立って手早く珈琲を淹れた。

「ほらよっ」

 良太がサラの前にカップを出し、自分のカップを調理台に置くと、サラがカップのなかを覗き込んで意外そうに云う。

「最近の定食屋は珈琲コーヒーも出すのか」

「食後のサービスってことで始めたんだ。結構評判よかったんだぜ? やる以上はちゃんと自家製だしな。で、ミルクと砂糖は?」

「ブラックでよい」

 サラはそう云うと珈琲を一口すすり、機嫌の好さそうに笑って良太を見上げた。

「して、話とは?」

「……魔物って、世界にどれくらいいるんだ?」

「たくさんいる。だが血道楽ほど兇悪なのは滅多にいない。魔物の大半がやらかすのは悪戯であって、災厄クラスのものはごく稀だ」

「でもゼロじゃない」

「そうだな。で、なにが云いたい?」

「……血道楽はまた戻ってくると云ってた。それがいつになるかわからないが、そのときにはまた美味い料理がいるはずだ。それを、俺に作らせてくれないか」

 サラが目を丸くする。

「料理人は諦めたのだろう?」

「そうだ、諦めた。親父には勝てないし、町は寂れていくし、友達の親がやってた店も潰れちまうし……だから弱気になって諦めてしまった。でも、今は後悔している」

「おまえ……」

 じっとサラに見つめられるのが気恥ずかしくて、良太は声を大にして勢いよく云った。

「親父の手伝いとかじゃなく、久しぶりに本気で料理をして、おまえに美味いって云ってもらえて、嬉しかったよ。俺が本当にやりたいのはこれなんだって思った。この店だって、本当は潰したくない。だからサラ、俺は料理人に戻る。そして俺をおまえの相棒にしてくれないか。放っておけない魔物がいたら、おまえと一緒に世界中どこへだって行くよ。そして俺の料理でおまえを勝たせてみせる。どうだ?」

 するとサラはにんまりと笑って、

「実のところ、その言葉を待っていた」

 そう云ってサラはブラックコーヒーを一気に飲み干してしまった。すると見よ、その体が光りに包まれて変身シェイプシフトする。

 現れたのは黒髪を長く伸ばし、濃い茶褐色の目をした長身の美女だ。それが黒い下着と見まごうばかりの煽情的な恰好をしている。

 彼女は妖艶な笑みとともに云った。

「ブラックコーヒーの擬人、ブラ様だ」

「いやいや、いちいち変身しなくていいから」

「褒美を与えてやろうと思ったのだがなあ」

「どんな褒美だよ!」

 良太が顔を赧くして叫ぶと、ブラはくつくつと笑い、脚を高く組んで店内を見回した。

「さしあたってはこの店の新装開店の準備をせねばな。やるんだろう?」

「ああ。掃除して材料を仕入れて宣伝して、お役所に辞表を出して……そうしたら!」

 定職を捨てて世間の荒波に漕ぎ出そうというのに、良太の顔には一点の曇りもない。挑戦もせずに諦めてしまった夢へ踏み出していくのだ。

「定食屋はらぺこ、営業再開だ!」

 青年の希望に満ちた声が、未来へ向かって放たれた。

                                     (了)

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食べて変身、腹ペコ・シェイプシフター 太陽ひかる @SunLightNovel

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