飴と傘

穂乃華 総持

きっと会えるね

 東京の人気スポット、吉祥寺に見付けた超破格の家賃のマンションに詩恵と同棲するようになって二年。

 タバコを咥えたとたん、まだ火も点けていないというのに、とうとうベランダに追い出された。


 そのほっそりとした均整のとれたプロポーションは付き合いはじめた頃と変わりなく見え、今もきれいなままの詩恵の怒りは、ただ単に煮え切らない俺に対する当て付けとしか思えない。

 だけど、こんなときの男は弱いもんだ。むっつりと黙って外に出る。


 生憎、六月も半ばになった夜空からは細かい雨粒が落ち始め、ベランダの前半分の色を変え、辺りの喧騒をすべて飲み込んでしまったかのように、静かに降りそそいでいた。


 腹立ち紛れに火を点けた最初の一服を大きく吸い込み、音を立て吐き出す。

 すると、おどおどした小さな声だった。

「あのね、おじさん……」

 まだ舌足らずの幼い声は、小学校にも入らない女の子のもの。ぺらぺらの殴れば壊れそうな仕切り板の向こうから聞こえてきていた。


 そうとうに心がささくれ立っていたらしい。

 ふと脳裏に浮かんだのは、子供なのをダシに言わせている、タバコの煙に憤慨する親の姿。

 唇の端から絞り出した声は、ことさら冷たかった。

「なにっ?」



 その返事の変わりに――

 仕切りの下から差し出されたのは、ピンク色の小さな傘。


 

 へぇっ!と固まって傘を見ていたら、

「これ……濡れちゃうよぉ」

 そう言いながら、傘の先端が左右に振られた。

 戸惑いで手を伸ばせないまま、

「――でも、君が濡れちゃうだろ」

 と聞き返す。

「ゆのはね、はじっこに座っているから大丈夫なの」

 可愛い声で、もう一度傘を左右に振った。


 小さな子に掛けられた優しさに、つい口元が綻んだ。

 「ありがとう」と言い、傘を受け取る。そして思い出し、「ちょっと待っててね」と断って部屋に戻った。

 こちらに背を向け、キッチンに立っている詩恵の背中が見えた。怒っているというよりは、何だか寂しそうだ。

 何も言えずにテーブルの灰皿を取り、詩恵が禁煙の口寂しさに買い置いてある飴の袋から一握り失敬してベランダに戻った。


 仕切りの下から飴玉を乗せた手を差し入れ、「これ、お礼だよ」と言って手を開いた。

 雨の日に、飴玉。

 まるで、おやじギャグだなっと笑ってしまう。

 おずおずとした小さな声が、「――いいの?」と訊いてきた。


「――いいんだよ」

 その声に応えて手を左右に揺らせば、一粒だけ手にする気配。「全部、いいよ」と言うと、手から飴玉が消え、やっと笑ってくれた。

「開けられるかい?」

 訊ねてみれば、うんっという元気な返事をして、「美味しい」と嬉しそうに応えてくれた。


 ニヤけそうな顔を誤魔化すために二本目のタバコに火を点け、借りた小さな傘を開く。すると名札に、男らしい角ばった字で上山結乃と書いてあった。

「結乃って書いて、ゆのって読むんだね」

 元気にうんっと応えてから、慌てたようすで、

「こしの ゆのです。よろしくおねがいします」

 と改めて自己紹介してくれた。

 苗字が名札と違うのは、いろいろ事情があるのだろう。

「野村 天智です。よろしく」


 ベランダの手すりに肘を付いて話してみると、ほんとうは元気でお喋りな子供らしい。

 ハキハキとした明るい声で滔々と話し出す。

 すでに暗くなった雨空のベランダで、何をしているの? と訊ねてみれば、

「お父さんを待っているの」と。

 その後に、「お父さんはね――」と二言も、三言も話がつづいた。


 どうやら結乃ちゃんは、保育園の途中までは田舎に住んでいたらしい。お父さんの話しに、お祖父ちゃんやお祖母ちゃん、山や田んぼのようすが多く混じる。

 ただお母さんのことになると、言葉を濁すように小声になり、逸らすのが気になった。

 こんな時間に、子供がベランダに一人で居るのを心配しないのだろうか?

 そうは思ったが、他人の家庭に勝手な口出しはできない。

 結乃ちゃんの元気な声に、明るく相槌を打つだけだ。


 五本目のタバコを吸い終わったころ、背後から詩恵に呼ばれた。夕飯ができたらしい。

 「また明日ね」と別れの言葉を口にすれば、子供のころ友達に「さよなら」を告げたときの切ないような、寂しさを思い出した。

 子供なんて大変だとばかり思っていたが、いつの間にか心から笑い、ふたりの会話を楽しんでいたようだ。


「今度は、外で一緒に遊ぼうね」


 自分でも、いい年した男が何を言っているのだろうと思った。

 こんな小さな女の子と一緒にいたら、ロリコンに間違われる。へたしたら、警察に通報だ。

 それでも、一年もすると……。


「ゆのがいてもいいの……?」


「いいよ。おじさんちの子になっちゃうかい?」

 明るく笑って言える、自分がそこにいた。

 ――嘘みたいだ。

 はしゃいだような、明るい声が「ありがとう」と。

 そして、何かが消えた。


 もう一度、背後から声を掛けられて「またね」と声を掛けて戻る。

 明るく片付いた部屋に、美味しそうな料理の匂い。狭いながらも、安心できる我が家だ。

 詩恵は沈んだような、暗い顔でテーブルの向こうに座っていた。

 自分のいつもの場所に座りながら、何でもないことのように声が出た。

「生まれるまえに、籍いれなきゃな」


 えっ! と顔を上げ、見開かれていた詩恵の目から涙が零れ落ちた。その顔を隠すように両手で覆ってしまう。

「なに泣いてんだよ」

 声を掛けても、嗚咽を漏らすばかりだった。

 隣に移動して長い髪に手をやれば、詩恵は俺の胸に飛び込むようにして泣いた。


 こんなにも悲しませてしまったのは、俺だ。

 そのまま料理が冷めるのもかまわず、泣きやむのを待った。だけど、泣きやんでも詩恵は、俺の胸に顔を埋めたまま離してくれなかった。

「ご飯、冷めちゃうぞ」

「だって、天ちゃんが……」

 そして、また泣いた。


 そんなことを何度か繰り返して、料理が冷め切ったころ。

 抱きしめた詩恵のお腹に手をやり、聞いてみる。

「この子、女の子かな?」

「もうちょっと大きくなったらわかるけど……どうして?」


 俺は恥ずかしそうに、鼻の頭をかいた。

「隣の結乃ちゃんみたいな子だったら、可愛いなと思ってね」

 詩恵がふいに顔を離して、いぶかしげに俺を見上げた

「お隣、ずっと空き部屋だよ」そして、眉根を寄せた。「契約するとき、不動産屋さんに言われたじゃない。――あんな可哀想な事件があったから、家賃が安いんだって」


 へぇっ! と顔を上げてベランダを見た。

 そういえば、俺、あのピンクの傘どうしたっけ? 畳んだ記憶もなければ、返した記憶もない。


 まぁ、いいさぁ。

 今度こそは、俺が守ってあげるからね。


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