後編

外は雨だった。

嫌な日はとことん嫌なことが狙いすましたように起こる。

やけになって雨の中に脚を踏み出そうとした有理子の背中に先ほどと同じ調子で声をかけられる。

「なにしてるの」

「…なにって、帰るところ」

確か、瑞穂って言ったっけ。少し熱の冷めてきた頭で有理子は思う。

「傘も持たないで?」

ううん、と有理子は眉根を寄せて空を見上げる。

「このまま帰ったら、水も滴るいい女みたいじゃない?」

「自分で言うの」

また瑞穂はクスッと笑う。

「もうそんな風に言ってくれる人いないしね」

「ねぇ、どこが最寄駅なの?」

有理子は少し顎を引いて、野良猫が道で出会った人間を見上げる時のような視線を向ける。

瑞穂はどこか祈るような視線を返してくる。

しばらくそうやって見つめ合った後、有理子は観念して駅名を告げた。

「私も同じとこ」

瑞穂は嬉しそうに微笑む。

本当かな、と小さく独り言を呟いて有理子は広げられた傘の中に小さくなって入り込んだ。


「ねぇ、名前教えてくれないの?」

瑞穂がなんてことない風に聞いてくる。有理子は微かに忍ばされた熱に気が付かない振りをして応える。

「さっき教えたでしょう。広瀬アリスだって」

「嘘ばっかり、さっきは広瀬すずって言ってたのに」

「そうだったかな…」

有理子は特に考えずにとぼけて見せる。

ぬかるみに付けられた足跡がこの間の手酷い失恋だとすると、この人はその窪みに溜まっていく雨水のようなものだ。有理子はそう言い聞かせてやり過ごそうとする。

「ボードレール、あなたは好きになれないのよね」

失くしたものを惜しむように瑞穂が呟く。有理子は無言で頷いた。

だって、地獄へ堕とされるんだもの。

そんなことを言う奴なんか好きになれない。

「ねぇ」

「なに」

「…またあなたに会ってみたい」

有理子は怒ったように瑞穂を睨んだ。

純度の高い雪の結晶みたいな光を自分に向けないで欲しいと思った。

「あなたって、気難しい天使みたい。私そういう人って好き。….あ、変な意味じゃなくて」

「ふうん。…ボードレール好きなの?」

「好き」

有理子は意地悪く笑って言葉を継いだ。

「あなたに『天使』と呼ばれると、わたし 怯えて震えるわ。…もしかして狙った?」

瑞穂は一瞬なんのことか分からない顔をしたけれど、有理子が「ボオドレエル」とわざとらしく発音したので笑った。

「それでも 自然と唇を あなたの方に差上げちゃうの」

瑞穂がすらすらと続けた。

「こういう使い方もあるのね」

有理子は柔らかく微笑んで瑞穂を見る。

「負けた。さすがに唇を差し出す訳にもいかないから、名前だけ差し出してあげる」

「ほんと?」

有理子は頷いてみせる。

「私は有理子っていうの」

「綺麗な名前ね」

「瑞穂って名前の方がいいじゃない」

有理子が呟くと、瑞穂は嬉しそうに笑う。

「今度はいつあの店に飲みに来るの?」

「さぁ、また行くかもしれないし、もう二度と行かないかもしれないなぁ」

有理子は横目で瑞穂の表情を窺う。

「今度もし会えたら、ボードレールを好きになって欲しいな」

「私、嫌いなものは一生そのままのタイプだから」

有理子は雨粒に向かって言い放った。

ようやく見えてきた駅の灯りが銀色の縞模様をアスファルトに投げている。


それからしばらく、有理子は誰にも会わなかった。時折、瑞穂のことを思い出したりはしたけれど出会った店に行くことはなかった。

有理子は冷たい夜と、虚しく明けていく朝のやり過ごし方を思い出し、慣れていった。

けれどやはり、瑞穂とは偶然また出会ってしまったのだ。


ようやくあの失恋の傷も塞がった所で、また有理子は独りきりで飲んでいた。たまに誰かに話しかけられたけれど無視していると誰も近寄らなくなった。

上機嫌で飲んでいると、隣りで不意に人の気配がしてあの声色で聞かれる。

「なにしてるの?」

ゆっくり振り向くと、瑞穂が立っていた。有理子は一瞬だけ目を見開いた。

「…隣りに座ってもいい?」

「ダメって言ってもどうせ座るんでしょ」

「そうね」

瑞穂は臆することなく頷いて、座る。

有理子は煙草を吸いかけて辞めた。

そしてふと気がつく。優しさや、気遣いの壁ができている。

ぼんやりしていると、瑞穂が焦ったそうに話しかけて来る。

「もうあそこの店には行かないの?」

「…そうね、お喋りな人がいるから」

そこで有理子は瑞穂を見る。

「あなたって捻くれてるって言われない?」

「そうね、そういう瑞穂は馴れ馴れしいって言われない?」

ごく自然に名前が舌の上に乗って、声が出る。瑞穂はじっと有理子の瞳を覗き込んだ。

「迷惑だった?」

あんなに馴れ馴れしく絡んできたのに、少し突いただけで不安げな表情になる。まるで好きな人の顔色を窺う少女みたいじゃない、と有理子はおかしくなる。

無言でその微かに揺れるひとみを見据えてやる。

「そんな目つきで見ないでよ ねぇあなた…」

瑞穂が少し目を逸らして俯く。

「ボードレール?…その先ってなんだったけ」

有理子の機先を制するように、瑞穂は滑らかにその先を言う。

「たとえ あなたが仕組まれた陥穴であったとしても それが わたしを地獄に堕す基であろうと わたしの選んだお姉さま、わたし お姉さまに恋するわ」

有理子はこの上もなく澄んだ瞳にぶつかって、その純度に当てられないように毒づいた。

「やっぱり、ボードレールは好きになれないみたい」

「じゃあ、あなたが…有理子さんが好きなのは?」

有理子はしばらく考えてから、瑞穂に向きなおる。

「来てくれたのね、うれしいこと……

狂おしくそなたに焦がれていた、このわたし、そなたは、恋の欲望(ねがい)に火と燃えるこのこころを

しずめてくれた……」

「サッフォー?」

「そう」

しばらく黙り込んでお互いアルコールを飲む。身体が温まってきたところで、瑞穂が不意に聞いて来る。

「さっきのって、あなたが?それともサッフォーが焦がれてたの?どっち…」

「サッフォーだよ」

被せるように言って有理子は貧乏ゆすりをした。

「…そう」

露骨に落ち込んだ横顔を見つけて、有理子はほんの少しだけ胸が疼いた。

「そなたは私の心を燃え立たせる」

心の襞を撫でるように、一音ずつ瑞穂は丁寧に発音する。

有理子は頬杖をついて聞く。もう瞳だけで好きだと言われているのに、その熱情に飛び込んで行くほど飢えていると思われたくなかった。

「それは瑞穂が?それともサッフォー?」

「…私。本当は分かってるくせに」

有理子は視線をかわすためにそれから黙って飲んだ。

私は地獄へ堕ちる女。もう誰のことも好きにならないって誓ったのに。

そして薄々破ってしまうと予感していた誓いをわざわざ立てた自分に腹が立つ。

「私は地獄へ堕ちる女なの。付き合ったらどこまでもあなたを堕としてしまうよ」

「何も聞いてなかったの」

瑞穂が想いの膨らみきった瞳を向ける。そんな目を向けられたら、溢れる恋慕で溺死してしまうと有理子は思った。

「たとえ あなたが仕組まれた陥穴であったとしても それが わたしを地獄に堕す基であろうと わたしの選んだお姉さま、わたし お姉さまに恋するわ」

「…恋する、ね。勝手にすれば、私は知らないから」

一緒に地獄へ堕ちる、なんて信じられるものか。そうやって、最後の最後で手酷く裏切られてきた。

「…私のこと、嫌いなら嫌いって言って」

硬い声で瑞穂が呟く。

まだ一緒に堕ちるには早すぎる。

でもこのまま一生独りきりでいるのもまだ早すぎる。

神よ、私に不惑の心を授けてください。

「ボードレール、あなたとサッフォーの次くらいに好きになったかも」

瑞穂が顔をあげる。


神よ、私に不惑の心を授けてください。

…ただし、今すぐにではなく。





作中引用

27 恋

はげしくも人を恋い、

狂おしく焦がれるわたし……


28 愛する女の訪い

来てくれたのね、うれしいこと……

狂おしくそなたに焦がれていた、このわたし、

そなたは、恋の欲望(ねがい)に火と燃えるこのこころを

しずめてくれた……


30 わがこころ

かくも愛らしき

おとめらにささぐ

わがこころ

ゆめ変わるまじ


33 恋

そなたはわたしの心を燃え立たせる


47 傷つけられて

…しばしば……

わたしの愛するひとたちが

わたしを誰よりも手ひどく傷つけ…

………

それはわたしもとくと心得たこと…

沓掛良彦「サッフォー 詩と生涯」抜粋



あなたに「天使」と呼ばれると、わたし 怯えて震へるわ、

それでも 自然と唇を あなたの方に差上げちゃうの。


そんな目つきで見ないでよ、ねえあなた、わたしの恋びと、

たとえへ あなたが仕組まれた陥穴であったとしても

それが わたしを地獄に堕す基であらうと、

わたしの選んだお姉さま、わたし お姉さま恋するわ

「地獄に堕ちた女たち」『悪の華』(鈴木信太郎訳/岩波文庫)抜粋

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堕ちる前に 三津凛 @mitsurin12

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