堕ちる前に
三津凛
前編
「地獄に堕ちる前に、結婚するの」
こうやって、有理子(ゆりこ)が愛する人たちが誰よりも手酷く有理子を傷付けていく。
いつかこうなることは分かっていたはずなのに、有理子は性懲りもなく同じことを繰り返す。
「じゃあ私は間違いなく地獄に堕ちるわね」
地獄に堕ちた女、ボードレールの詩みたいじゃない、と有理子は思う。
「だって、私は死ぬまで結婚なんかできそうにないもの。女が好きだから」
優しさや気遣いの壁が取っ払われて、有理子は煙草に火を点ける。
そして、その煙をせめてもの復讐として、去って行く恋人に向けて淡くぶつけた。
「お幸せに」
有理子はもう目の前の女は見ずに言った。
いい女はみんな男が獲っていく。
有理子はまた独りきりで過ごすことになる夜と、虚しく明けていく無数の朝を思った。
その隙間をなにで埋めようか頭を抱える。結局、飲めば分厚く膨れることのできるアルコールが一番だと思った。
「結婚て、なによ」
有理子はぼやきながら、アルコールを流し込む。
もう絶対女なんて好きになるもんか。
でもまた好きにならずにはいられなくなる。
馬鹿みたい。一番馬鹿なのはこの私だと有理子は思った。
「なにしてるの?」
有理子は赤くなった目を向ける。
白い靄がかかったような視界の中に女が見える。
「一人で楽しい?」
「…楽しいから飲んでるんじゃない」
「そうは見えないけど」
馴れ馴れしい人だな、と有理子は思わず舌打ちしそうになる。
その人は隣に腰掛けると当たり前のようにアルコールを注文してして飲みだす。
「あなたはどんな人なの?」
有理子は俯いて、汗をかき始めたグラスを指で撫でる。
ビアンバーに来て何を聞くんだと言ってやりたくなる。
どうせ誰もこの虚しさを分かってくれる人なんていない。
有理子は顔を上げて、わざと相手の耳のそばで言ってやる。
「かくも愛らしき おとめらにささぐ
わがこころ ゆめ変わるまじ」
ぼやけた視界の中で、相手の目が微かに揺れたのが分かった。
有理子は席を立とうとつま先に力を込める。
「サッフォーね」
俯いた鼻先にはっきりと声をかけられて、有理子の方が驚く。
「じゃあ、あなたはレズビアン」
「そういうこと…」
「はげしくも人を恋い、狂おしく焦がれるわたし……」
有理子は瞬きをする。
「すごい、知ってるの?」
沈んだ気持ちが、遥か遠い詩人の熱情と共に上向いて来るのを有理子は感じた。
「…あなたが、言い始めたんじゃない」
「そうだけど…」
有理子はつま先に込めた力を抜く。
「帰るんじゃないの?」
見透かしていたように言われる。
「はげしくも人を恋い、狂おしく焦がれるわたし……だから」
「それはあなたが?サッフォーが?」
「両方」
有理子は笑いながら、氷が溶けて少し薄くなったアルコールを舐める。
「女たらし。そうやっていつも誘うの?サッフォーを出すなんて狡いことするのね」
有理子はまじまじと横に座る女を見た。
桃のように色づいた頰と、洗われた小石のような瞳がとても綺麗だった。
「だってサッフォーが一番好きなんだもの」
「じゃあ、一番嫌いなのは?」
「ボードレール。地獄へ堕ちろ」
「どうして?」
くすくす笑いながら聞かれる。まるで少女のように笑う人だなと有理子は思った。
「今日、ボードレールの詩を思い出すようなこと言われて振られたから」
「あら」
気付かずに相手の患部に手を触れた人のように、その人は口に手を当てる。
「地獄へ堕ちる前に結婚するんだって」
「そういう詩があるの?」
「地獄に堕ちた女たちってレズビアンの詩があるの。私は女しか好きになれないから地獄へ堕ちるのは確定ね」
その人は黙ってグラスを傾けた。
彫られたようにはっきり光と陰が刻まれた横顔に、有理子は魅入る。
「綺麗な横顔してるのね」
「…誘ってるの?」
「まさか」
有理子は自嘲気味に口の端を切り上げる。
「でも名前は教えて。記念に憶えておくから」
「なんの記念?」
「さぁ、なんだろう…」
人差し指でこめかみを掻きながら、有理子は上目遣いに相手を見やる。
「…瑞穂よ。あなたの名前も教えてくれる?」
「広瀬すず」
クスッとその人が笑う。
「嘘ばっかり」
有理子も笑う。
「教えてくれないの?」
「うん」
「私は教えたのに」
「教訓になったでしょ」
「え?」
栗鼠のようにその人は瞳を転がす。
可愛い人だと有理子は思った。
「酔っ払いに絡んではいけない。気安く名前を教えてはいけない。平安時代なら呪いをかけられてたかもよ。名前には霊力が宿るんだから」
「あなたはそんな悪い人に見えないけど」
有理子は口を歪める。
「どうだか。悪人ほど善人ぶるの知らないの?」
「でも、シェイクスピアのリチャード三世みたいにわざと悪人のフリをする人もいるんじゃないかしら」
有理子は改めて目の前の人を見つめる。
打てば響く、投げたボールを倍にして還してくる。
「今日は酔ってるから運が良かったわね。どうせ明日になったら忘れてるもの」
「…酔ってるの?」
有理子は応えずに今度こそ立ち上がった。泣く前のように、瞳の表に厚い涙の膜が張る。
誰かの温もりを一度知ってしまうと、もうあの冷たい夜には耐えられなくなる。
馬鹿な女だ。
神に誓いを立てたそばから、その十字架に唾を吐くような真似をしようとする。
有理子は振り返らずに店を出た。
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