幸福な指紋

@forestar

幸福な指紋

「ねえ、指紋貸して?」

 ねだるような甘い声がして、ふと読みかけの本から章成は顔を上げた。

「この前の旅行の写真が見たいの」


 明らかに知己ではない声の出どころを探そうと周囲を見回したが、くいいるように本の文字を追っていたためか、一瞬、くらりと焦点が合わない。度数の合わなくなってきた老眼鏡のせいで、いつも以上に肩と声が凝っていた。

 それはもちろん章成にかけられた声ではなく、客の少ないコーヒー店のなかで、少し離れた席に向かい合って座る少年と少女の会話だった。

 指紋を貸す?

 聞きなれない言葉を反芻しているあいまに、高校生と思しき同じ制服同士の二人は、それぞれのスマートフォンを操作しながら、指の貸借りをおこなっていた。

 なるほど、指紋認証か。


「ねえ、あなたが私を好きになれば、私たちは両想いになれる。それってとても幸せなことじゃない?」

 目尻の下がった、何か含みのあるほほえみをつくりながら、こちらを覗き込む彼女が目の奥に浮かんだ。とうに昔の記憶だ。

 自分から言い寄ってきたのに、勝手なやつだった。

 ひるみなく迷いなく章成を説き伏せ、あっというまに気持ちを寄り添わせて、彼のなかの、まるで初めから用意されていたような心の一角に居を据えた。

 そのうえ、彼女は約束を迫った。章成が結婚を申し込んだときだ。その約束なしでは、頑として婚姻に同意しなかった。

「ぜったいに、ぜったいに私より先に死なないで。それが約束」

 素朴な見目ながらにすっきりと身ぎれいでいて、人当たりがよい彼女。やわらかな物腰もあって、知人から見れば、どんな場にもすんなりとなじむ快い女性であったろうが、一方で、ゆるぎない苛烈ともいえる芯の強さを、章成にはむき出しに見せていた。

 死ぬなと言われても、寿命ばかりはどうにもならない、と章成は思った。すでに彼は四十になろうとしているところで、彼女は六歳も若く、ついでに言えば、女性が長寿と言われる長野県の生まれだった。


 店内にひっそり流れていた音楽がビートルズの〈Yesterday〉に変わり、聞き覚えのある曲に我に返る。飲みかけのコーヒーを思い出し、読みかけの本を思い出す。

 なぜあいつのことを今考えたんだ││そうだ、あの子たちだ。指紋を交換とか言ってたな。だから思い出したんだ、俺たちの指紋のことを。

 だが、あの娘が言うように、指紋てのはそんなに安易に扱うものになったのか。いつだったか、恐ろしい事件が外国であった。ずっと前のことだ。クレジットカードの指紋認証が始まったばかりのころ、その現金を引き出すために、男が強盗に指を切り落とされたっていうニュースだった。ソファで寄り添いながら目にしたテレビのニュースに、「まるでホラーね」と彼女はぶるっと体を震わせていた。


 証文を書きましょう、と彼女は言った。

「どうせ私の約束に、あなたは本気じゃないんでしょう。だから証文を書いて。ほら、婚前契約っていうやつよ。あなたは必ず、私より長く生きて、そして私のことを思い出しながらも、続く命をまっとうに、まっすぐに、のびのびと生きるの」

 インターネットで検索したり、婚前契約やら遺言やら、そういったことに詳しい知人に相談して、彼女は書状を二通、つくってきた。

「ひとつ、あなたは必ず私よりも長く生きる。その約束を以て、私はこの婚姻を承諾する」

「ひとつ、私はいつかそのときが来たら、あなたを必ず迎えに行く。私が死んでから、それまでのあいだに、この関係は解消しても構わない。その場合、この約束は消滅する」


 夕焼けのようなオレンジ色をしたハロゲンランプが、適度な影をつくりながら、店内を照らしていた。こういった場所では、自然とあらゆる物音は、すべてがバックミュージックのように、空間になじみ吸い込まれていく。

 あの若いカップルは次の会話に移ったようだ。くすぐったいほどの若々しい声も、耳に届きはするが内容の理解にはいたらない。

 章成の暗証番号もかかっていない二つ折りの携帯電話は、指紋認証どころか、多少強めに押さないと通話ボタンすら反応しなくなっている。年季の入った電話だ。滅多に開くこともないが、ピンボケレベルに粗い彼女の写真も、アルバムには数枚入っていて、それを眺めることはほとんどない。

 彼女の声も姿もふるまいすらも、記憶にあざやかすぎるのだ。


 拇印がいいと彼女は言った。

 どこにでも売っている認印みたいな押印なんていやだと。

「私とあなただけの、無二の証明よ。これは譲れない」

 こんなの時代劇や二時間サスペンスみたいなドラマでしか見たことない。一歩も引く気のない眼差しに、おとなしく承諾しながらも、彼女のはる意地と、証文への期待値の高さがおかしく、愛らしくもあった。

 今となって、時折思う。彼女のことをずるいと、なにも伝えずひどいやつだと、責めてもよかったのかもしれないと。

 けれど彼女に悪気などなく、確かに出会ったころの章成は不惑の歳を迎えつつも、日々にうら寂しく飽いていて、彼女の「幸せになれる宣言」は事実に違いなかったのだ。

 章成のどこに興味を覚え、どこに愛情を感じたのか、それもわからないままだったが、ひたむきさは彼女の美徳で、章成はそれを大切にしたかった。


 冷え切った苦いコーヒーを飲み干し、これ以上長居も悪いかと辺りを見回すが、客はまばらで、今一度ソファに身をしずめる。向かいの鏡張りの壁面に、新緑のセーターを着た自分の姿を見つける。老けた男だ。年相応であろうとも思うが、彼女といたころとは比べるべくもない。また少し、痩せている。

 痩せると彼女は怒った。ふつう逆だろう、といつも章成は思っていた。職場では、奥さんにダイエット弁当を持たされている同僚もいたし、ビールを控えさせられたと嘆いているやつもいた。

「背広を新調しなくていいんだから、いいじゃないか。ボタンが止まらなくなっちまっていいのか」

「太れって言ってるんじゃないのよ。そのままのあなたで、あなたらしく、満ちていてほしいの」


 章成の親指は先太りで平べったい。その親指を朱に染めて、力強く拇印の押された証文を持って、彼女は行った。

 ずっと手放すつもりはないと言っていたし、その通りに実行したのだった。彼女は彼女の人生を、思いどおりとはいかずとも思うように歩んでいったが、いつからその道を決めていたのか、章成は知らない。

 あれは彼女の人生だった。

 そして今この日暮れどきに、閉店前のコーヒー店で、こうしているのが章成の人生だ。彼もまた証文を持っていた。約束の消滅していない、彼女の親指の跡が付いた証文を。

 あいつはきっちりしたやつだった。適当でおおらかでいながら、自分のルールは曲げなかった。あいつは約束を守るだろう。また俺に会いに来るだろう。

 俺のこの手は、この指は、あいつとの約束のしるし。

 平べったくかさついたこの指先に、細く複雑なとぐろを巻いているこの指紋が、またあいつと俺を引き合わせる。

 その時まで俺は俺なりの努力で、おまえの言っていたように、まっとうに、まっすぐ、のびのびと生きるよ。少し痩せるのくらいは、勘弁してくれ。


「あ、ねえ、またロックかかっちゃった。もう一回、お願い」

 はつらつと高い声が、また恋人の指紋をねだっている。

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