おまけ6 生産性のない人間には価値がないのか
2016年7月26日、神奈川県相模原市の障碍者施設「津久井やまゆり園」で入所者が次々に刺殺される事件が起きました。死者19名。負傷者27名。
逮捕・起訴されたのは施設の元職員の植松聖という、28歳の青年でした。
彼はインタビュアーに、口頭で、または手紙で語ります。
「意思疎通がとれない人間は『心失者』で、人の幸せを奪い不幸をばら撒く存在だ」と。
「おおまかな幸せとは”お金”と”時間”であり、人生は全てに金が必要だし、人間の命は時間であり、命には限りがある。重度・重複障碍者を養うことは、莫大なお金と時間が奪われる」と。
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重度の自閉症の息子さんを持つ神戸金史さんという方がいます。神戸さんが獄中にいる彼にこう尋ねたそうです。
「あなたは、”役に立つ人”と”役に立たない人”との間に線を引いて、人間を分けて考えているようですね。もしかするとあなたは自分は役に立たない人間だと思っていたのではないですか」
植松被告はそれに「大して存在価値がない人間だと思っています」と答えました。
さらに神戸さんは
「もしかすると、あなたは事件を起こしたことで、自分が役に立つ人間の側になったと考えているのではないですか」と尋ねました。
すると植松被告は少し微笑んで、「少しは、役に立つ人間になったと思います」と答えたのです。
「この国の不寛容の果てにー相模原事件と私たちの時代(1)神戸金史×雨宮処凛」
https://note.com/otsukishoten/n/nbfb294da20bf
より
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人間が社会の歯車だとしたならば、「壊れた歯車」に価値はないのか。
私自身、今、ごくわずかしか仕事をしていません。頂いている額は、月によってばらつきはあるものの、五千円~二万円といったところです。
実家の助けと公的扶助(障害年金)によって何とか食べていけてはいますが、自活には程遠い状況です。
昔、公務員をしていた頃は残業代を含めれば手取りでヒラでも、月三十万円ぐらいもらっていました。(まあ、でも認められない土日出勤もしてるぐらいで、実働の残業時間には程遠い額しかもらえなかったですが)さらにボーナスを頂いていたのも考えると今現在の自分の「経済的な」価値は随分下がったなあと思います。公務員だったころは人事規定を読むと、公務中(通勤中も含む)での事故・事件・災害によって命を落とすと高額のお金がもらえるなんてことが書いてあり、事故に見せかけて自殺するのなら今しかないのかなあ、なんてことも働いている当時ぼんやり考えたような記憶があります。
そして、障碍者が事故で亡くなった場合、賠償金の算出の元になる逸失利益というのが、0円になるケースが結構あるそうです。
多分、今の私が事件や事故で死んでも、賠償金は雀の涙ほどでしょう。
そんな自分を「壊れた歯車」と称するのは簡単、なんですけどね。
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私は、私以上に生産性のない人々に、会ったことがあります。
有償ボランティア、という制度を使って、障碍者施設に通う方々にパソコンの操作を教えていたのです。時給は1000円以上でしたが、ただでさえ実働時間も短い上に、セットアップ(準備)や片付けの時間はサービス残業だし、交通費は出ないしで……。だから、まあ、収入は微々たるものでした。
彼らは車いすだったり、介護者がいなければ、騒ぎを起こしてしまう存在だったり……しました。一人ではお手洗いも行けない人がほとんどでした。
パソコンを教えてもタイピングすらままならない、先週教えたことを次の週にはまっさらに忘れている。そんなこともざらにありました。
パソコン教室の休憩時間。彼らから、表にある自動販売機の缶コーヒーを買いに行ってくれないかと小銭を渡されて、よくせがまれたものでした。
渡される小銭をじっと見ながら私は思いました。たとえ、お金があったとしても、この人たちは、介助をする人無しでは生きられない。
生れたばかりの赤ん坊もそう。
そういった人たちは、働くことが出来る――社会に貢献することのできる人間のリソース(お金・時間)を確実に奪うことになる。
と、彼らに実際に関わるまでは、私は何となくそんなことを思っていました。
でも、どうでしょう? 介助無しでは生きていけない彼らが人手を必要とすることで、少なくとも私は有償ボランティアとしてお金をもらい、手と足と頭を動かして、社会に貢献できている。
また、将来、確実に来る老齢人口の伸びに備えて様々なビジネスチャンスが生まれていることも確かです。力のない人でも楽々と重たい物を持ち上げるパワード・スーツは農業や物流業などの分野でも役に立っているようです。また、重たくないコードレスの掃除機、はては自動掃除ロボットは主婦の高齢化を見込んで開発されたとか。でも、今は幅広い世帯層に必要とされています。
何もかも満たされた問題のない社会なら、そこには雇用もビジネスチャンスも新たなサービスも何も生まれません。
欠落があるからこそ、問題があるからこそ、人々はそれを解決するために動くのです。
奪うものと奪われるもの。生み出すものと消費するもの。社会はそんな二元論とういか、単純な構図では出来ていない。
誰かが誰かを必要とする、そこから、すばらしいものが生まれる。
生産性のない人間は価値がないのか?
むしろ、逆に生産性がないからこそ、価値が生まれるのかもしれない。
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さて、いろいろ理屈をこねましたが、下記の章にも書いたとおり、障碍者、と呼ばれる人たちと触れ合うことで、私は植松被告とは全く逆の結論を、得た人間です。ただ、これは感情論なので、共感されにくいかもしれない、とも思います。
精神科閉鎖病棟任意入院日記第50話 前書きのような、或いは後書きようなもの
https://kakuyomu.jp/works/1177354054882101528/episodes/1177354054887257119
具体的に言うと、私は生産性のまるでない、障碍者の人たちを有償ボランティアを通して、愛しいと思いました。
勿論困らせられることもあったし、困惑することも沢山、ありました。
でも、それ以上に彼ら(私も障碍者なので自分も含めて)がいない世界はなんというか、モノクロの、寂しい風景だろうと肌で感じたのです。
そんな気持ちの一片を詩にもしてみました。
Noir-黒の章- 第3話 私が死んだら
https://kakuyomu.jp/works/1177354054893124797/episodes/1177354054893409231
私が彼らを、いなくなってはいけない人たちだと感じたのは、彼らを取り巻く人たち(それは彼・彼女たちの家族で会ったり、あるいは施設のスタッフであったり)が、私以上に彼らを慈しみ、愛し、大事にしていたからかもしれません。
私は彼らを手助けをするとき、しばしば注意されました。
手助けをし過ぎてはいけない。さじ加減が大事。
甘やかさないで、自分で出来ることは自分でやらせてね。それが本人のためになるから。
効率を考えるなら、私含め、職員さんや家族さんたちがやったほうがはるかに速いことでも、我慢強く付き合うようにと教えられました。
どんなに障害が重くても、一人の人間として彼らを尊重すること。
障碍者と介助者は対等であるという認識を持つこと。
そのことを折に触れ、繰り返し、教えられました。
貴重な体験だったと思います。
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最後に、この章を書いているとき、ネットでタレントの東ちづるさんが非常に共感する発言をしていたので、ここに転載します。
何度でも言う。私たちは、「社会の役に立つ」ために生まれ生きてるわけじゃない。社会の役に立たなければ生きる価値がないなんて流れをつくっちゃいけない。誰もハッピーにしない。全ての人の不安を煽るだけ。「生きてるだけで価値がある社会」がいい。自分や他者を大切にしながら生きるほうがラクだし
本当にそう思います。
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