公妃エレオノーラの屍衣【挿絵あり】

 エレオノーラ・ディ・トレドはスペイン貴族の娘として生まれ、イタリアの名門メディチ家の出身でフィレンツェ公爵であるコジモ1世に嫁いだ。1562年12月17日、エレオノーラは40歳で死去した。記録では11月20日に次男のジョヴァンニ、翌月6日にはその弟ガルツィアもそれぞれ19歳と15歳で死んでいる。


 わずか1カ月ほどの間に母親と息子ふたりが相次いで死去したことになる。


 公文書上はマラリアで死んだことになっている。しかし年代記は別の話を伝えている。狩猟をしていた兄弟が喧嘩をはじめ、ジョヴァンニがガルツィアを殴った。ガルツィアは怒って兄に斬りつけた。ジョヴァンニは死に、許しを請うガルツィアを、駆けつけた父親のコジモが憤激に駆られて斬り殺した。エレオノーラはこの惨劇に心を痛め、床に伏して死んでしまったのだという。


 1945年、医学者が率いるグループがメディチ家の墓所の発掘調査を行った。一族の他のメンバーとともに、エレオノーラの棺も開けられ、遺体が着ていたドレスの残骸が研究所に送られて専門家に分析された。その様子を詳しく記した論文が 『フィレンツェ・シエナ公爵夫人エレオノーラ・ディ・トレドの文化世界』(The Cultural World of Eleonora di Toledo: Duchess of Florence and Siena)と題された論文集に掲載されている。


 それによると、エレオノーラは上半身にbustoブストを着ていた。ブストは15世紀に登場した腰までの長さの胴着で、ウエストの細さを強調するために紐できつく締めつける。


 こうした窮屈な衣服は女性の体に大きな負担を与えるものだった。ブストは尖った先端が腹部に食い込むので胎児に悪影響を及ぼすとされ、ヴェネツィアでは1547年に法令で禁止された。とはいえ、極端にウエストを締めつけるコルセットがその後のヨーロッパで大流行するのはご存じの通りである。


 エレオノーラは滑らかなサテン地と暗赤色のビロード地の2枚のブストを重ね着していた。脇は絹の紐で締め、紐は銅のリングで補強された穴に通っていた。リネンの裏地は、縫い目の下のわずかな断片を残してぼろぼろに腐っていた。シュミーズのような肌着をつけていたのは確かだと思われるものの、それらしいものは跡形も見つからなかった。植物繊維の衣類は分解が早く、発見される例が少ないそうで、そのため女性がパンツをはいていたかどうかも確たる証拠はないらしい。パンツをはいた女性の細密画はいくつか残っているけれど、男装をしていたのだとか、生理中だけ使っていたのだとか、研究者の間で意見の一致をみていないのが現状のようだ。


 ゆったりしたワンピースが主流だった中世とは対照的に、16世紀ではウエストを締め、スカートは下へ行くほど広がる形になった。さらにボリュームを出すために麻くずや綿を詰める。


 しわくちゃのサテン生地と刺繍の山と化していたスカートも修復され、次第に細部が明らかになった。全体の形は円形ではなく、腰の後ろに襞がたくさんあり、前側は地面に届く長さで、後ろは引きずるほど長かった。ブストの胸にあるV字型のブレードは、スカートの前面中央に縦に縫い付けられた同様の飾り帯とつながっていたことが判明した。


 飾り帯は乾燥した体液に覆われ、折り畳まれていたので保存状態が比較的良好だった。濃いブラウンのビロード製で、金銀の糸で刺繍され、端に真珠が縫い込まれていた。他のドレスから取り外して縫い付けたことが推測されるそうで、当時はこうしたパーツのリサイクルが一般的に行われていたらしい。


 ブストの布地にタフタの切れ端が紛れ込んでいた。それは内ポケットの残骸であることが判明した。さらにスカートにも脇ポケットがついていた。


 実は、メディチ家の墓所が調査されるのはこれが初めてではなかった。1857年にも政府によって発掘され、その時の記述はエレオノーラの棺が開けられた時の様子をこう伝えている。


「非常に保存状態の悪い、損壊した棺の中に、防腐処置を施されていない女性の遺体が横たわっていた。誰であるかを示唆する品は何もなかったが、骨の医学的な検査から得られた推定年齢は、遺体が公妃エレオノーラ・ディ・トレドであることを示している」


 1945年の調査では「30歳を超えているが、年老いてはいない」と推定された。事実、エレオノーラは40歳で死亡している。


「豪華な屍衣は16世紀なかばの流行に沿ったもので、赤みがかった豊かな金髪は金のヘアネットに包まれている」


「着衣は損傷が激しい。滑らかな白い生地で、地面に届く長さがあり、胸の飾り帯とスカートと裾は豪華に刺繍されている」


 19世紀の蝋燭の明かりによる調査では白に見えたらしい衣服は、実際は黄色みの強い金色だった。なお、この時に画家ブロンズィーノによる有名な肖像画に描かれた衣装に似ている、と記述されたせいで、その後150年以上にわたって、エレオノーラは肖像画のドレスをまとって埋葬されたと誤って信じられることになった。



 *



 赤い色をした絹の編み物の靴下は、片方が裏返しにはかされていた。さらに絹の紐が二重に巻きついていた。最初は靴下留めだと考えられたが、それは埋葬時に両手首と両足首を結わえていた紐だった。


 興味深いのは服のサイズに関する考察だ。ブストは襞が寄せられ、ウエストを絞っていて、体のサイズより大きかった。エレオノーラは病を患って痩せていた。さらに、スカートの裾が2.5センチ折り返されていた。急激に痩せてしまった体型に合わせて丈を短くする目的で折ったと仮定すると、彼女の身長はおよそ170センチとなり、同時代の女性にしてはかなり背が高かったことになる。一方、折り目が装飾として最初からあったならドレスの丈は140センチで、身長は168センチ。ところが、フィレンツェ大学付属の考古学研究所が骨の分析を行ったところ、身長は158センチだったと判明した。したがって、スカートの丈は厚底の靴をはいたときの身長を含んでいる可能性が高いという。


 スカートの後ろの襞も理由は判明しなかったが、これはスペインの女性の肖像画によく見られるデザインだそうで、エレオノーラが結婚後もスペインの習慣にこだわったという話を裏付けている。彼女の心はいつもスペインにあり、召使いに対してはにこりともせず、言葉をかけることもなかった。当然、フィレンツェでの評判は悪かった。常に人々から距離をおいていたせいか、庶民には高慢な女とみなされ、「スペインの野蛮人」で「フィレンツェ人の敵」と年代記に書かれているほどである。一方で夫婦の仲はとてもよく、ほとんど片時も離れなかった。短気な夫が怒りを爆発させた時、なだめることができたのはエレオノーラだけだった。コジモは家臣には厳格だったが妻に対しては甘く、彼女がギャンブルにふけっても文句ひとつ言わなかったと伝えられる。

 

 エレオノーラの棺からは指輪も見つかった。1543年の別の肖像画で指にはめているのと同じ指輪で、夫のコジモが彼女に贈ったものであるという。





 近年、〈メディチ・プロジェクト〉と称する大がかりな研究プロジェクトが立ち上げられ、メディチ家のメンバー49人の墓が新たに発掘調査された。遺骨の分析により、エレオノーラの死因は肺結核とマラリアの発作と断定された。ジョヴァンニとガルツィアも、マラリアで死亡していたことが確認された。


 1562年10月、コジモとエレオノーラはジョヴァンニとガルツィア、もうひとりの息子フェルディナンドを伴い、海辺の温暖な空気を求めてピサに向かった。ところが、公妃と3人の息子がそろって熱を出した。ジョヴァンニは11月20日にリヴォルノで、ガルツィアは12月6日にピサで死んだ。もともと肺結核で苦しんでいたエレオノーラも、夫と聴罪司祭にみとられて17日に死んだ。相次ぐ死の真相を巡ってさまざまな憶測が流れた。年代記に書かれた説はその1つだろう。


 エレオノーラの遺体はフィレンツェに運ばれ、ただちに葬儀の準備がされた。ブストの紐は複数の穴を飛ばして雑に結ばれ、靴下の片方は裏返しだった。病気の感染を恐れ、遺体は防腐処置が施されないまま埋葬されたらしい。皮肉なことに、そのおかげで体液が堆積し、衣装の腐敗を部分的に防いだのだが。


 ドレスの残骸は修復され、フィレンツェのピッティ宮殿内の服飾博物館で展示されている。



【挿絵】エレオノーラ・ディ・トレド

https://kakuyomu.jp/users/KH_/news/16816700428820855465

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