闇と怪物とクロスワードパズル

戸松秋茄子

本編

 お前は言葉を知っていた。


 色即是空。


 スリジャヤワルダナプラコッテ。


 ドップラー効果。


 ブランヴィリエ侯爵夫人。


 まだ、まだ見つからない。


 お前は本を読む。辞書を読む。インターネットの検索エンジンに言葉を打ち込む。


 ヴァルトプルグ城。


 エリ・エリ・ラマサバクタニ。


 螺髪。


 フリッツ・ラング。


 まだ、まだ……


 お前はメモを取る。


 ペントバルビタール。


 針の上で天使は何人踊れるか。


 レッド・ヘリング。


 世界の中心で愛を叫んだケモノ。


 まだ……


 お前は言葉を探す。自分の内側に巣食うモノを名状する言葉、俺の名前を探す。

 

   ※※※ ※※※


 お前は小学六年生で、とある海辺の街に住んでいた。お前の家は街を見下ろすような高台の頂上に建っていた。お前の部屋の窓からは海へと続く道を一望することができた。港に停まった船。海鳥の鳴き声。街路樹の緑。ほのかに鼻をくすぐる匂い。


 ――これは潮の匂い。


 母親が教えてくれた。だから、その言葉を知っている。


「■■ちゃん、あそぼ」


 窓の下、家の敷地のすぐ手前に彼女が来ていた。もう夏が近い。半そでになっていた。もうそんな季節か。お前は思う。気温の変化に疎いお前は、ときおり素っ頓狂な格好で外に出てしまうことがあった。


 ――半そで。半そでね。間違わないようにしないと。


 お前は半そでのパーカーを引っ張り出してシャツの上にはおって階段を駆け下りた。一分一秒が惜しい。せっかく塾が休みなのだ。私立中学を受験するお前にとって、友達と遊べる時間はとても貴重だった。


「ノート持ってきた?」


「うん」


 お前たちは坂道を下った。町に下りた。


 とある仲間の家に着くと、お前たちはノートを交換した。部屋に散らばった少女たちがそれぞれノートの最新のページを開く。


 仲間内で、クロスワードパズルを作るのが流行っていた。各々がノートに問題を作って、それをあてっこするのだ。同時にとき始めて最初に完成させた子が勝ち。そういうルールになっていた。


「じゃあ、針が『12』を回ったらスタートね」


 競争が始まった。


「うひゃー、■■の問題、今日のもむずすぎ。『仏様の髪型』って何それ」


 友人がさっそくスマートフォンに手を伸ばす。言葉を検索するのもあり。部屋の本を参照するのもありだった。


「もうちょっと簡単にすればいいのに」


「勉強になっていいじゃん。それよりカナミのは問題がふわっとしすぎ。『花の名前。たくさん咲いてると梅雨って感じ』って何?」


「え、そんなの――」


「ストップ。言わなくていいから。分かんなかったら他のところから埋めていくし」


 お前はノートとのにらめっこを再開した。


 人それぞれってこと。四字熟語。


 パス。


 なすとかピーマンの上の方についてる部分。


 パス。


「全然分かんない」


 お前は言葉を知っていた。しかし、言葉を知覚や経験と結びつけるのは苦手だった。言葉はどこまでもただ言葉だった。


 お前は自分の内側で膨らむモノを自覚する。


 分からない。分からないものはむしゃくしゃする。


 怒ってる状態。先生がえこひーきしたときとか、男子がふざけてるときにこうなる。


 分からない。教えてほしい。この感情は一体何なのか。


 お前は頭をかきむしる。お前は知っている。その挙動がすっかり癖になっているお前は知らない。お前がその挙動をする度、周囲の空気が緊張する。


 青い。近づくとしおのにおいがする。


「海だ」


 お前は正解を書き込んだ。部屋の空気が少しだけ和らぐ。


   ※※※ ※※※


 お前が生まれたばかりの頃、両親が離婚した。母親が出て行った。父親にしたたか殴られ、柱に頭をぶつけ、頭を五針縫う怪我を負ったのがきっかけと言えばきっかけだった。


「こっちにおいで」


 母親は娘に手を伸ばした。お前は反応しなかった。


 父親が言った。「この子は俺が育てる」


 母親は娘を諦めた。「ごめんなさい」


 お前は手のかからない子供だった。父親はよく自慢した。「ええ、しっかりしたいい子でね、幼稚園だって一人で通ってるんですよ」


 幼稚園の先生の評価はちょっと違う。「いつも友達の後ろでもじもじしてるんですよ。もうちょっと積極的になればいいんですけど」


 お前はいつも身を隠すための壁を探していた。友達は壁だった。だから、その後をついて回った。お前はとても小さかった。それは他人の攻撃を呼び寄せるのに十分な理由だった。


 他人からの攻撃を受けるとき、お前の中にはいわく言いがたい感情が生まれる。お前が「闇」と呼ぶ感情だ。お前はそれを恐れていた。その感情が何を意味するのか、自分でも分からないからだ。


   ※※※ ※※※


 闇はふとしたときに表に現われる。男の子にちょっかいをかけられたとき、友達がお前のおもちゃに傷をつけたとき、先生から理不尽な理由で叱れらたとき。


 闇はお前の身体をのっとり、突き動かす。一度、闇に身を預けたら、自分ではもうどうにもできない。すべてが終わった後になって、自分がもたらした惨状に呆然とするしかできない。頬を真っ赤に晴らして泣き叫ぶ友達、じんじんと痛む拳、口の中に広がる血の味、砂に埋もれた帽子。その場にいる誰よりも、お前が困惑していた。


「どうしてこんなことをしたの」


 幼稚園の先生が問いかけた。お前の肩を揺さぶった。お前は答えられなかった。


 ――わたしだって分かんないよ。


 そう思った。お前は言葉を探していた。友達と喧嘩になった理由を説明する言葉を。そのときはじめて内なる闇を意識した。それは霧のように実体がない。だから言葉にできない。


 お前はすぐに泣いた。それしか言葉を知らなかったからだ。


  ※※※ ※※※



 お前の部屋には、母親が買い与えたぬいぐるみがいまでも残っていた。お前はその中から狼のぬいぐるみを選ぶと、照明に向かって抱え上げた。


「あなたは怪物なの。悪い子なの。悪い子は閉じ込めておかないといけないの」


 お前は狼の目をじっと見つめる。狼の目は磨き上げられた黒い石のようで、丸みを帯びた表面にお前の顔が映りこんでいた。


「ごめんね。でも、あなたが暴れるから」


 最後にぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、ベッドの下に放り込んだ。


   ※※※ ※※※


 お前は父親の母――祖母の腕に抱かれて育った。よくしりとりをして遊んだ。お前は見る見るうちに言葉を覚えていった。


「あの子は天才かもしれんねえ。わたしの言うこと、何でも覚えよるんよ」


 お前は目覚しい勢いで知識を吸収していった。買い与えられた子供向けの辞書を熟読した。闇の名前は書かれていなかった。


 お前は誰よりも早く計算ができた。誰よりも早く九九を覚えた。漢字テストはいつも満点だった。学芸会で発表するお芝居の脚本も一読しただけでほとんど覚えてしまった。


 それでも、お前にはまだ不足だった。闇の名前を知りたかった。


 お前は闇を怪物として自分から切り離した。ベッドの下に封印した。けれど、それは完璧ではなかった。お前はたびたび内なる闇を自覚した。そのたびに堪え、家に帰って怪物を取り出して切り離しの儀式を行う。そうるすことでお前はお前でいられた。人あたりよくにこにこ笑っているお前でいられた。


   ※※※ ※※※


 離婚から間もなくして、お前の父親はお土産屋で働く女性と再婚していた。その間に男の子が生まれた。お前の弟だ。そのときの写真もたくさん残っている。アルバムの写真はそれからの数年間が一番充実している。


 両親は弟に付きっきりになった。弟の成長を喜んだ。写真に収めて記録した。弟がはじめて立った。はじめて歩いた。はじめて言葉を口にした――


 だが、ある時期からアルバムの写真は時間が飛び飛びになる。


 両親は弟がなかなか言葉を覚えないことを気にしていた。「ママ」、「パパ」とは口にするものの、二歳、三歳になっても他の言葉を覚えないことを気にしていた。


 知的障害。


 そのことがはっきりしたのは弟が四歳のときだった。両親はいっそう弟の世話にかかりっきりになった。お前は居間で一人、本のページをめくる。


   ※※※ ※※※


 弟は火がついたように泣き喚き、要求した。


「どうしたいの。何がほしいの」


 母親は弟を抱きながら言う。弟は答えるかわりに、泣き続けた。


 ――うるさいな。


 小学校に上がったころ、お前は自分の部屋をもらった。弟が泣き始めると、お前はその穴倉に引っ込んだ。本を開くが、集中できない。弟の泣き声は壁を隔ててもなお弱まることを知らなかった。音は振動だ。壁が揺れ、床が揺れ、部屋全体が弟の泣き声によって震えているようだった。


 お前は本を閉じて想像する。


 言葉がない世界とはどのような世界だろう。弟が見ている世界とはどんな世界だろう。わたしでさえ手を焼いている闇を、弟はどのように飼いならしているのだろう。いや、きっと飼いならせてなどいない。だからああやって暴れる。泣き喚く。言葉を知らないからだ。だから闇が増長する。


   ※※※ ※※※


 弟のことは全校に知れ渡っていた。■■君のお姉ちゃん。そのように呼ばれることが幾度となくあった。


 ある日、同級生の女の子が話しかけてきた。


「うちもお兄ちゃんがそうなの」


 ――だから何なのだろう。


 それがお前の本音だった。要領を得ないでいるお前をよそに、女の子は自分の兄のことを話した。最近、声変わりしたこと。言葉が出ないまま身体ばかりが大きくなって、たまに怒ると家族総出で止めにかからねばならずとても大変なこと。


「障害を持った家族の子たちで集まってるの。よかったら、■■さんも一度顔を出してみない?」


「でも、わたしはわたしだし」


 お前は思うままのことを言うと、女の子はぎょっと目を見開いた。


「どういうこと?」


「よく言うでしょ。人は人って。それと一緒。弟は弟。わたしはわたし。だから弟が障害者でもわたしには関係ない」


「でも家族でしょ?」


「家族なんてただ一緒に暮らしてるだけじゃん」


「違うよ。家族って言うのはね、たとえ一緒に暮らしてなくても心のどこかで繋がってるの。そういうものなの」


 女の子はお前の目を覗き込んできた。お前は射すくめられたようにして、うつむいてしまった。苦手な野菜を無理に食べるようにして女の子の言葉をかみ締め、考える。


「ごめん。よく分かんない」


 お前が言うと、女の子はどこか軽蔑するような、あるいは同情するような目でお前を見た。


「そう、■■さんは寂しい人なんだね」


「寂しい?」


「そうだよ。家族のこと関係ないなんて。動物だって自分の家族のことは大事にするのに」


   ※※※ ※※※


 家族。


 家族ってなんだろう。夕食のハンバーグを口に運びながら考えた。食卓に会話らしい会話はない。母親が弟に話しかける声が聞こえるばかりだ。弟はときどきそれに笑って答えながら、一口大に切られたハンバーグにフォークを差し、口に運んでいた。父親と祖母、お前は黙々と箸を動かしていた。


 お前の父親は市役所に勤めていた。いつも夕方には帰って来ていた。テレビも会話もない食卓は父親の方針だった。


 部屋に引き上げる。お前は辞書を引いた。


 家族。


 寂しい。


 だが、お前がすでに知っている以上の意味は載っていなかった。


 分からない言葉といえば他にもある。たとえば、親友というのがそれだ。


 親友。


 どういう意味だろうと思った。ただの友達とはどう違うのか。分からなかった。友達はみんな同じだ。その中で誰が一番とか特別かなんてお前には判断がつかなかった。


「親友。親友……」


 口にしてみる。書いてみる。分からない。


 たとえば――とお前は思う。あの子がそうなのだろうか。


   ※※※ ※※※


 彼女とはクラブ活動ではじめて一緒になった。お前の学校では高学年からクラブ活動が始まる。お前はパソコン部に入部した。


 お前は検索する。表示されたページからまた新しい言葉を拾い上げる。また検索。発見。繰り返し。お前はメモ帳を開いて言葉を書き留めていった。


 ふと、視線を感じた。振り向くと彼女がいた。


「あ、ごめん。見る気はなかったんだけど何書いてるのかなって気になって……って、アレやっぱり見たかったのかな、これ」


 一人で考え始める。


「ただ気になった言葉を書きとめてるだけ」


「言葉って?」


「色々」


「見てもいい?」


 お前は許可した。彼女は自分が知らない言葉に首をかしげ、言葉の連なりをおもしろがった。あるいはそれは、お前に話しかけるための足がかりにすぎなかったのかもしれない。いずれにせよ、お前は彼女と出会い友達になった。


   ※※※ ※※※

 

 お前たちは言葉を交わすようになった。面と向かって、交換日記を通じて。


 どちらともなくしりとりを始めることがあった。


「継母」


「あ、また? ■■ちゃんって、まが出たら絶対継母って言うよね。普通にママでいいのに」


「そうだっけ。なんでだろ。うちのお母さんがそうだからかな」


「そうなんだ。わたしのお母さんももういないんだ。は、母親」


「いないって?」


「死んだの。■■ちゃん家は?」


「分からない。うちはわたしが小さいときに別れたきりだから。や、夜想曲」


「くぎ。会ったことはないの?」


「義肢。うん、もうどんな顔かも覚えてない」


「そっか。じゃあ一緒だね、わたしたち。親友」


 心臓が跳ね上がった。


「嘘」


 彼女は答えた。


「相思相愛」


   ※※※ ※※※


 親友――そうなのかもしれない。お前は思った。


「お母さんのことは覚えてないけど、お父さんが色々話してくれるの」


「そうなんだ」


「お母さんね、音楽の先生だったんだ。ピアノが得意でわたしを身ごもってるときもよく弾いてたんだって。それにアジサイの花が好きだった。■■ちゃんのところは?」


「うちはもう新しい人がいるから……」


「新しい人って、いまのお母さん?」


「そう」


「お母さんって呼ばないんだ」


「うん。あんまり話さないし」


「■■君のこともあるもんね」


「それだけじゃない」


「え」


「話すことなんて何もないもん」


「お父さんとはどう?」


「あっちから色々言ってくるだけ」お前はそこで思い出したように、腕時計を見た。「もう門限だ。帰らないとまたうるさく言われちゃう」


「あ、うん。じゃあ、また明日」


「うん。バイバイ」


 ――つっけんどんすぎたかな。


 お前はさっきまでの会話を反芻しながら思った。最近はいつもそうだ。彼女と話すたび、何かおかしなことを言わなかっただろうかと考え込んでしまう。


 お前は坂を上っていく。彼女のことを考えながら。


   ※※※ ※※※


「今日は遅かったな」


 玄関のドアを開けると、父親が待ち構えていた。


「少しだけだよ」


 言ってから、しまったと思った。


「少し? 門限は一分でも遅れたらだめなんだ」


「ごめんなさい」


 母親が言った。「ねえ、お父さん。今日くらいいいじゃない」それからあなたの方を向いて、「■■も許してあげてね。お父さん、プレゼントを用意してたのよ」


 およそ父らしくないことだと思った。父親はスポーツ観戦に出かけるのが趣味だった。お前の誕生日にも頓着せず、地元の野球チームの試合を観戦しに行ったこともあった。家族でケーキを囲むよりも外野スタンドでメガホンを叩くことを選ぶ男なのだ。


「今年は特別だぞ」


 父のプレゼントは腕時計だった。


「ありがとう」


「それだけじゃないのよ。自転車も買ってくれるって」


「本当?」


「ええ、明日にでも見に行きましょう」


「うん」お前は友達が乗っている三段変速の自転車を頭に浮かべた。


「ありがとう」


「時間は守れって言うことだ。なにせ、来週からは塾に行ってもらうんだからな」


「え」お前は聞き返す。


「お父さんの知り合いが経営してる塾だ。入塾の手続きも済ませてある」


「前から言ってたでしょ?」母親がとりなすように言う。「中学校は私立を受験させるって。せっかく勉強ができるんだから、それを活かさない手はないわ」


「そういうわけだから、門限はしっかり守るように」


 父親が厳しい顔で言った。まるで裁判官だ。被告人ヲ塾通イノ刑ニ処ス。


「はい」

 

   ※※※ ※※※


 塾通いがはじまると同時に、お前は孤立しはじめた。


 門限が早くなった。友達が見ているテレビ番組を見ることができなかった。遊びに誘われても、「ごめん、塾があるから」と断らなければならなかった。


「■■ちゃん、私立に行くんだ」


 ある日の放課後、彼女が言った。


「うん、たぶん」


「成績いいもんねー。お父さんによく■■ちゃんを見習えなんて言われる。せめて大学は出てほしいってさ」


 ――違う。そんな言葉がほしいんじゃない。


 お前は思った。けれど、本当はどんな言葉がほしいのか、彼女からどんな言葉をかけてほしいのか、自分でも分からなかった。


「どうしたの?」


「なんでもない」お前は強い口調で言った。それから、腕時計を見る。最近ではすっかり癖になった動作だ。「塾の宿題あるから、わたし急ぐね」


「あ、うん。じゃあね。バイバイ」


「うん。バイバイ」


 お前は坂道を全速力で駆け上がって行った。まるで宿題にとりかかるのが待ち遠しいとでも言うように。


   ※※※ ※※※

 

 朝起きて学校に向かう。帰ってきてからは学校と塾の宿題に取り掛かり、そこから塾へ。帰ってくる頃にはもう夜で、ご飯を食べて入浴、そしてベッドに横たわる。


 お前は毎日のように怪物と相対した。その日に背負った負の感情をごっそり受け渡した。その度に、自分が空っぽになったような感覚を覚える。


「僕は君だよ」


 ある日、怪物が言った。お前はぎょっとして、怪物の目を見つめた。


 磨き上げた石のような黒い瞳。丸みを帯びた表面に、お前の顔が少し歪んで映りこんでいた。


   ※※※ ※※※


 お前は些細なことで神経を尖らせるようになった。お前にとっては同級生の何気ない言葉、その一つ一つが自分に向けて投げられた石だった。そのヒステリックさがますます友達を遠ざけていく。


「弟はあんなにおとなしいのにね」


 訳知り顔でそんなことを言う同級生たちが許せなかった。彼女らは家の弟を知らない。言葉を知らない弟が、その代わりにどのような方法で自分の感情を表現するかを。


   ※※※ ※※※


「ねえ、■■さん」


 いつかお前を誘ってきた女の子が話しかけてきた。彼女とは塾が同じだった。


「何?」


「そんな睨みつけるように見ないで」


「睨んでなんか……」


「みんな、■■さんが怖いって言ってるわよ」


「みんなって誰?」


「みんなはみんな。男の子も女の子も」それから、空いていた席に腰を下ろす。「ストレスが溜まってるんじゃない? 分かるわ。下校したらすぐに塾だもん。それまでに学校と塾の宿題も済ませておかないといけないし。そうなると、友達と遊ぶ時間もろくにとれないものね」


「言ってる割にはなんか楽しそう」


「え? わたし?」


「そう」


「そうね。■■さんほどはストレスを感じてないのかも。わたし、勉強って好きだし、将来のためってのもあるから」


「将来?」


「そう、わたし、お医者さんになりたいんだ。看護婦さんじゃなくて女医さんね。本当はわたしもみんなと同じ学校に行きたかったけど、お父さんが本気で夢を追うなら、いまからがんばらなきゃだめだって」


「そんなこと言われていやじゃないの?」


「そりゃいらっとはするけど……でも、わたしのためだもん」


 ――厳しくするのもそのためよ。


 母親の言葉が脳裏によみがえった。


 ――わたしのため? それってどういうことだろう。だったらなんでお父さんはいつもあんな怖い顔をするの?


 お前は女の子の喉元につかみかかった。


 喉を締め上げ、爪を食い込ませた。そのまま窓まで移動し、突き落とそうとした。背中から羽交い絞めにされなければきっとそうしていた。


   ※※※ ※※※


「すみませんでした」


 父親の手がお前の頭を押さえつけた。幼い頃、何度かお前の頭をなでることもあった手。あの頃はずいぶんと大きく感じた。それがいまはひどく頼りなく感じる。役所でペンを握るくらいしか使い道がないから縮んじゃったのかな。それとも、自分が大きくなっただけ? お前はそんなことを思った。帰り道で父親に小突かれた頭の方がよっぽど痛んだ。


   ※※※ ※※※


 塾から帰って来た後、改めて説教を受けた。ついでに拳骨を三発。たっぷり絞られてから二階に上がる。ドアを開けると、学習机の上に怪物が鎮座していた。


「お母さん!」お前は反射的に叫んでいた。「掃除は自分でするって言ったでしょ!」


 階下から訝しげな声。「掃除? してないわよ」


「嘘。だって部屋に」


「何? どこか変わったところでもあった?」


「……弟じゃないよね」


「さあ、二階には行ってないと思うけど」


「何の騒ぎだ」


 父親の声が聞こえると、お前はあわてて答えた。


「なんでもない。勘違い」


「騒いでないで早く寝なさい」


「うん」


 お前はドアを閉めて、怪物と相対した。


「ねえ、どうしておとなしくしててくれないの。あなたのせいで、わたしの生活めちゃくちゃなんだから」


 いつもどおり、お前の声が答える。「僕はただ君に認めてほしいだけなんだ」


「わたしに? どういうこと?」


「君は僕を怪物だと言う。自分の中の嫌な感情を全部僕に押し付けてる」


「しょうがないでしょ。そうしないとわーってなっちゃうんだもん」


「『わーっ』か」怪物が侮蔑するように言う。「もうちょっと言い方があるだろうにね」


「馬鹿にしないで。ぬいぐるみのくせに」


「ああ、そうだ。ぬいぐるみだ。でも、それに人格を与えたのは他ならぬ君だよ」


「そうだけど……」


「ねえ、もうこういうことはやめにしないかい」


「こういうことって?」


「だから、そうやって嫌な感情を自分から切り離すこと」


「できないよ。いまよりもっと嫌われちゃう」


「自分の感情とちゃんと向き合うんだ。そして言葉にすればいい。そうすればきっと制御できる」


「それができたら苦労しないよ」


「僕が言葉を教えてあげる」


「あなたが?」


「そうさ。僕だって言葉を知ってるんだ。だからね、僕をいつもそばにおいてほしい。もうベッドの下の暗闇にはうんざりなんだ」


   ※※※ ※※※


 お前は怪物を枕元に置いて眠るようになった。怪物をモデルにして小さなぬいぐるみを作り、それを筆箱に下げて登校した。


「ねえ、あの子、また君の答案を見てるよ」怪物がささやく。


「そんなことない」


「想像してごらんよ。あの子の首をスパッと切りつけてさ。ぴゅーって血が噴出すところを」


「やめて」


「やめてと言われてもね。僕は君の気持ちを言葉にしてあげてるだよ」


「嘘」


「嘘じゃないよ。これが君の探してきた言葉なんだ」


「わたし、そんな悪い子じゃない」


「誰も悪いなんて言ってないだろ? いいかい、誰しもこのくらいのことは考えるんだ。実際に殺すわけじゃないんだ。ちょっと想像してみたくらいでいったい何を恥じる必要がある?」


「でも……」


「さあ、言ってごらん。死んじゃえ」


「……死んじゃえ」


「そう」


「殺す」


「そうだ。やればできるじゃないか」


   ※※※ ※※※


『一番の親友』


 お前は空欄の数を数えた――自分の名前がぴったり入る。


 お前は彼女を見た。自分のじゃない、他の誰かのノートに相対している。お前は少し迷ってから自分の名前を書き入れた。気分が高揚する。でも、不快じゃない。次の問題に相対する。


 しかし、空欄を埋めていくうちに気づく。

 

 おかしい。


 これじゃ、さっきの問題の答えと食い違う。でも、以外の答えは見つからない。


 わたしじゃない。わたしじゃないんだ。


 お前は空ろな気持ちで問題を解き進める。最終的に浮かび上がった名前は、お前の名前じゃなかった。

 

   ※※※ ※※※


 坂道を登る。蝉時雨を浴びながら、重いペダルを漕ぐ。


「死んじゃえ」


 お前は言った。蝉に対抗するようにして何度も何度も。


「死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ……」


   ※※※ ※※※


 驚くほど静かな朝だった。


 その日は台風が接近していたという。ひどい土砂降りだった。からっからに乾いた大地が大口を開けて雨を受け止めていた。暴風警報が出れば学校が休みになっていたはずだ。だが、そうはならなかった。


 汗ばんだ体。放り出されたタオルケット。水色のカーテンをすかして差し込んでくる朝日。雨と目覚ましの音。


 しかし、お前の中には何もなかった。まるで底が抜けたコップのようだ。感じたはずのものすべてが素通りしていく。ただ、声だけがあった。


 ――あの子を切ろう。カッターで切ろう。


 お前は部屋のどこからかカッターを取り出して、それをポケットに忍ばせた。


 ――あの子を切ろう。カッターで切ろう。


 お前はその言葉を繰り返した。学校に着くまでずっと。


   ※※※ ※※※


 お前は小学六年生で、とある海辺の町に住んでいた。お前の学校は街の中心にある。六年生の教室からは港の景色を一望することができた。港に停まった船。海の上を回遊する鳥。


「ねえ、話って?」


 お前は彼女を踊り場に誘い出した。


「前々から気になってたの」


「何?」


 お前はそこで言葉に詰まる。


「アジサイってどんな花?」


「知らないの?」


「うん」


「うちの花壇に咲いてる花だよ? 覚えてない?」


「うん」


「じゃあ今度見せてあげる」


「今度って?」


「今日でもいいけど」


「今日は無理……多分」


「塾の宿題?」


「そうじゃないけど」


 二人の横を同級生たちが横切っていく。


「親友って何?」


「また突然だなあ。今度は何?」


「この前、エミのこと親友って言ってたから」


「親友って言うのはね、そうだなあ。何でも話せる相手かな」


「何でも? エミがそうなの?」


「うん。家族のこととか、■■のこととか……」


「わたし?」


「そう。エミだけじゃないよ。みんなと話してたんだ。最近、■■が疲れてるみたいだって」


「話した? わたしのいないところで?」


 お前は混乱した。イッタイ何ヲ話シテタノ?


「うん、■■ももっと自分のこと話してくれればいいのにって」


「別に話すようなことなんて何もないし」


「そう? でも、やっぱり最近変だよ?」


「変?」


 お前は泣き出したくなっていた。


「ねえ、■■、聞かせてほしいな。あなたのこと」


 お前はうつむいた。


「ずっと……いたの。怪物が。闇が。わたしの中に。それが喚き出すと、わたしにはもうどうしようもできない」


「それはどうしたら静かになるの?」


「きっと、こうしたら」


 お前は答えると同時に、彼女の喉をカッターで切りつけた。


   ※※※ ※※※


 故郷の空港から飛行機に乗り、降りたところでバスに乗った。バスは次第に舗装されていないでこぼこした道に入っていった。お前は身体を揺られながら、窓の外をぼーっと眺めていた。あの木、鳥の名前はなんだろう。


 茂みを抜け、柵の前で降り、お前は付き添いの大人たちとともに門をくぐった。 


 あれから三ヶ月が経つ。


 お前はまだ同じ施設にいた。これから何年の間、ここにいることになるのか、大人たちにも分かっていなかった。


 娯楽室の図書コーナー。


 お前は言葉を探していた。植物図鑑。索引からアジサイを引いて探す。ページを開くと、そこに花があった。小さい花が集まってドーム球場のようにこんもりとしている。かけて花をつけると書いてあった。


 見覚えがある。あの子の家の庭に咲いていた。


 ――こんなものの名前も知らないなんて。


 お前は言葉を知っていた。


 いまでも思い出せる。お芝居の脚本。ことわざ。小説の台詞――


 お前は花の名前を知っている。だが、運動場に生える草木の名前を知らない。お前は言葉を知っている。だが、自分の感情を知らない。


 お前は今度は辞書のページをめくる。


 怒り。


 恨み。


 憎しみ。


 嫉妬。


 寂しさ。


 嗜虐心。


 プライド。


 殺意。


 ――ねえ、あなたの名前はどれ?


 お前は問いかける。


 闇は何も答えない。お前はまだ俺の名前を知らない。

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