第2の人生
こうして一つの人生が幕を閉じた。
遥か遠い世界である男が辿った二十九年間の軌跡、その記憶は、すべて克明にとは言わないまでも、
それがあたりまえだと幼いころは無邪気に信じていた。ところが、そうでもないらしい。前世について話すと、たいてい嘘つき呼ばわりされ、馬鹿にされた。母親にまで気味悪がられた。あんたは本当に自分の子かと罵られたり、叩かれたりもした。
誰も信じてくれないが、ラニィは嘘つきじゃない。
前世、わりと不遇な生涯を送った日本という国と、ラニィが生まれ育ったビヨールのポマ村とは、あまりにも違いすぎる。ここには高層ビルが林立する街並みも、自動車が行き交う道路もないし、電車の中でスマホをいじる人々もいない。電車。スマホ。SNS。信号機。SUV。それらは想像の産物なんかじゃない。ラニィは前世で実際にそれらを見て、使っていた。だから、その存在を知っているのだ。
暇があると、前世のことばかり考えている。日本での二十九年間は結果的に報われなかった。それでも、ポマ村での十八年よりはまだマシだった。
そもそも、この世界の連中はわかっていない。基本的人権とか。偏見や差別は悪いことだとか。そうした概念すらないのだ。理解できるわけもない。
「……母さん。僕はあなたを恨むよ」
寝床にしている藁の山の中で呟いてみた。もういない人を恨んだところで、どうにもならない。おかげで気軽に恨めてしまう。そういう部分もなくはない。
「ラニィ!」
突然、鋭く名を呼ぶ声がして、ラニィが寝室にしている納屋の戸が開いた。まただ。毎朝こうだ。やめて欲しい。ラニィは藁の中で極限まで体を丸めた。足音が近づいてくる。もうかなり近い。彼女はすぐそこまで迫っている。
「とっくに起きてるんでしょう、ラニィ!」
「ひいっ」
思わず悲鳴をあげてしまった。彼女が藁の山に蹴りを入れたのだ。
「さっさと出てきなさい」
「……す、すみません、お嬢様。ごめんなさい。本当に……」
ラニィは藁の山から這いだした。四つん這いで見上げると、開け放たれた戸から射しこむ朝日を背負って、
彼女の赤い巻き毛は稀少だ。透けそうなほど白い肌も、硝子玉のような青い瞳も、たいそうすばらしい。ポマ村で彼女を知らない者はいないだろう。小さな村だということもあるが、彼女はとにかく目立つ。あらゆる意味で。
「お嬢様なんて呼ぶなと、何度言ったら」
「……ご、ご、ご、ごめんなさい、ミシャ様、つ、つ、つ、つい……」
「様なんてつけないで」
「……は、は、はい、すみませんでした、ミシャ、……さん……」
「だいたい、なぜ……」
彼女は声を震わせた。
「なぜ服を着ていないの。裸なの」
「えっ。あっ」
ラニィは毛深い両手両足を駆使して、大事な部分をなんとか隠そうとした。ただ、隠すべき場所は何箇所かある。とても隠しきれない。
「……こ、これはその。……昨夜、暑かったので。それで……」
「早く何か着なさい!」
「き、着ます。大至急。あ、あと、仕事ですよね、朝の水汲みと、それから……」
「水汲みはいいから、バナーを散歩させて。私も行くから。それを言いに来たの」
「は、はい、お嬢様、ただ今!」
睨まれたので、ラニィは慌てて訂正した。
「――ミシャ様! じゃなかった、ミシャさん!」
ミシャは、この役立たずのグズが、と言わんばかりの眼差しでラニィを一刺しすると、ようやく納屋から出ていった。
「マジ、怖っ……」
ラニィは大急ぎで身支度をした。短かった尻尾が最近になってのびてきて、どうにかできないものかといつも思う。いっそ切ってしまおうか。大きな耳が、帽子に収めると窮屈で、毎度のことながら苛々する。
ラニィの母は
母は当時、村を出て町暮らしをしていた。父は母にとって行きずりの男でしかなかった。しかも、そういう相手は複数いたようだ。妊娠に気づいたときには手遅れで、しかたなく村に戻って出産した。生まれた子供の特徴からして、父親はあの男に違いない。ありあまる精力以外は何の取り柄もない、本物のろくでなしだったと、母は生前、息子に語り聞かせた。子供にそういうことを言わないで欲しい。仮にも実の父親なんだから。
納屋を出ると、ミシャとバナーが待ち構えていた。バナーは大型の狩猟犬だが、もうしばらく猟には行っていない。もっぱらミシャの護衛役を務めている。
ミシャがバナーの引き綱を差しだした。
「さあ」
「はい!」
ラニィは引き綱を受けとった。当然、弾みでミシャの手をさわってしまわないように、充分気をつけた。
「バ、バナー、行こう! 散歩だよ、好きだろ、散歩! 好き、……だよね?」
やたらと毛並みのいい狩猟犬は、舌を出してハアハア息をしている。ミシャの隣から動こうとしない。ミシャがため息をついた。
「犬を相手に下手に出る人間がどこにいるの。バナー、おいで」
ミシャが一声かけて歩を進めると、バナーはあっさり腰を上げた。
尻尾を振って飼い主を追いかける飼い犬のあとを、使用人がついてゆく。というか、ラニィはほとんどバナーに引きずられている。
情けない、とは正直あまり思わない。母は住みこみの使用人としてミシャの家で働いていた。物心がついたころにはラニィは使用人の息子で、母の手伝いをさせられた。母が病気で倒れて働けなくなると、代わりにラニィが働いた。
ミシャの父マッテオは村一番の地主で、親切な雇い主だった。母が死ぬまで面倒を見てくれたし、葬式まで出してくれた。使用人の息子は正式に使用人として雇われた。
ミシャの家は、丘の上に建つ何軒かのお屋敷の中でもひときわ大きい。丘から村の広場へと向かう坂道を下りてゆくときの眺めは、なかなかきれいだ。
まあ、田舎だけど。
丘の麓に村人たちの家々が身を寄せあっているほかは、畑と草っ原と森と数本の川しかない。ドがつく田舎の光景だ。
母のことは恨んでいるが、若い時分にこの村を飛びだした気持ちはちょっとわかる。ここで一生を終えるのって、どうなの、それ。微妙すぎない?
引き綱をフンフンと引っぱって前を行くバナーは、尻尾までしゅっとしている。この犬とラニィ、どちらの身分が上だろう。そりゃ自分でしょ、と断言できる自信はない。さっきミシャはラニィを
背筋をぴんと伸ばして鼻歌交じりに颯爽と歩くミシャと、ズボンの中でこすれる尻尾のむず痒さをこらえて猫背になっているラニィとは、そもそも違うのだ。
「ラニィ」
雇い主の令嬢が、振り返らずに使用人の名を呼んだ。
「……はい。何ですか、お嬢、――ミシャさん」
「子供のころのこと、覚えてる?」
「ええ、まあ。多少は」
「あなたはよく不思議な話をしていた。どうして突然やめてしまったの。私はあなたの話を聞くのが楽しみだったのに」
「……母に叱られたので。旦那様にも、それとなくですが、注意を受けましたし」
「もうぜんぶ忘れてしまった?」
「いえ。……ああ、でも、そうですね。覚えてません。詳しくは」
「そう」
ミシャはうつむいた。バナーがちらっと振り返る。ケッ、このミジンコが、という感じの一瞥だった。犬のくせに。所詮、犬にはわかるまい。
ラニィとミシャは同い年だが、お互いの間には埋めがたい隔たりがある。
子供のころのことを覚えているかって?
もちろん、覚えている。はっきりと。
前世の記憶も、現実も、夢物語も、あまり区別がついていなかった。ミシャがいわば雲の上の人だということも知らなかった。友だちだと思っていた。いや、それ以上だ。
実際、好きだった。
彼女みたいな美しい快活な少女が身近にいて、好きにならないほうがおかしい。
前世では社畜のシステムエンジニアだった。残業や休日出勤は日常茶飯事で、粉骨砕身働いたあげく、車に轢かれそうな子供を助けようとして二十九年の生涯を終えた。女性とふれあう機会には恵まれなかった。仕事が忙しかったせいだと言いたいところだが、学生時代も女性と交際したことがない。結局、童貞のまま死んだ。
幼稚園や小学校のころ、同年代の女の子に恋心らしきものを抱いたことはある。ただ、どの女の子もミシャほど近しい存在ではなかった。
ミシャを好きになったように誰かを好きになったことはない。
正真正銘、初恋だった。
「……僕は子供だったんです。じゃなきゃ、あんなたわごと、
「私も子供だった。あなたの法螺話を真に受けてたんだもの」
腰の後ろで手を組んで坂道を下りてゆく彼女の後ろ姿が、なんだか寂しげだった。
嘘じゃないんだ。前世の話はぜんぶ本当だし、きみへの想いだって。
言ったところでどうにもならないから、黙っているしかない。前世なんか証明できっこないし、彼女は遠からずどこかいい家の息子と結婚する。縁談は引きも切らず舞いこんでいるのだ。でも、彼女は一向に首を縦に振ろうとしない。どうしてなのか。
まだ日の出からさして時が経っていない。早起きの村人たちも朝餉の途中だろう。人の気配はするが、人影はない。
ミシャはこの時間帯の村を歩くのが好きだ。彼女は人目を引くし、話しかけられれば愛想よく応じる。とびきり器量がよくて、人柄もいい。彼女は村で評判の地主の娘だ。常にそうでなければいけない。ときどきそれが息苦しくなるのだろう。
「大丈夫ですよ、ミシャさん」
「何が?」
「いつも僕を足蹴にして起こすだなんて、誰にも言いませんから」
「あ、あなたを蹴ってるわけじゃ」
「今朝はたまたま当たらなかったけど、たまに直撃するし……」
「それは間違えただけで! むしろ、あなたには当たらないように気をつけて……」
顔を真っ赤にして怒るミシャが愛らしすぎて、胸が痛くなった。
少なくともミシャが嫁ぐまでは、使用人としてあの家で働こうとラニィは決めていた。彼女が幸せになるのを見届けたら、母のように村を出てもいい。けれども、今はまだ彼女から離れたくなかった。離れてしまえば、きっと二度と会えない。彼女と会えなくなるなんて考えたくもない。
「……だいたい、あなたが納屋なんかに寝ているから悪いんじゃない」
坂道を下りきった。もうすぐ広場だ。
急にバナーが足を止めた。ミシャも立ち止まり、顔を後ろに向けた。頬がかわいらしく膨らんでいた。
「余っている部屋がいくつもあるのに、納屋がいいだなんて」
「僕にはもったいないですよ」
「だけど、昔は母屋にいたでしょう」
「昔は昔です。あれは母が旦那様に貸していただいていた部屋ですし」
「あのころは楽しかったのに……」
小声だったので、はっきりとは聞きとれなかった。訊き返そうとしたら、バナーが唸り声を発しはじめた。
ミシャと顔を見あわせる。バナーは何かを警戒しているようだ。村に家畜以外の獣でも入りこんでいるのか。ままあることだし、もし野犬のたぐいなら、さっさと追い払ってしまうべきだ。バナーがいるので難しくない。ラニィたちは広場へ向かった。
「……誰かいる?」
ミシャの言うとおり、広場には人がいた。真っ黒い外套ですっぽりと全身を覆っている。女性だろうか。男性にしては背が低いし、華奢だ。朝空を見上げている。
バナーが激しく吠え、駆けだそうとしたので、ラニィは引き綱を必死に引いて抑えた。狩猟犬だから本性は勇猛だが、こんなに興奮するのはめずらしい。
「あの、……あなた、村の人じゃないありませんよね? ここで何を……?」
ミシャが問いかけると、黒外套の女はこちらに向きなおった。バナーの吠え声を聞きつけたのだろう。広場近くの家々から村人たちが出てきて、ラニィはそっちに気をとられた。そのせいで、引き綱をつかむ手の力が緩んだのか。そうでなくても、バナーを止めることはできなかったかもしれない。
バナーはものすごい勢いで黒外套の女に飛びかかった。
しまった、と思う間もなかった。
きゃん、と仔犬みたいにバナーが鳴いた。
黒外套の女が手刀でバナーの頭を一撃したのだ。
その拍子に外套のフードが外れた。
やっぱり女だ。かなり若い。短い頭髪は身にまとう外套より黒く、瞳が異様な色の輝きを宿している。赤い。いや、赤というよりショッキングピンクだ。
バナーは叩きつけられるように地面に倒れ伏した。
女のまだ成熟していない顔には、表情らしきものが一切浮かんでいない。女は平然とバナーの頭を踏み潰した。
「……バナー!」
愛犬に走り寄ろうとするミシャを、ラニィはとっさに抱きとどめた。何がなんだかさっぱりわからない。でも、あれはやばい。とにかくやばい。とんでもなくやばいやつだ。
「だめです、お嬢様、逃げないと」
「逃げるって、だけど、バナーが――」
「おいおいおい! 朝っぱらから、いってえ何事だ!」
暴れん坊のサムが、腕をぶんぶん回しながら広場に駆けこんできた。血の気が多すぎて、事あるごとに誰彼構わず喧嘩をふっかける厄介な男だが、こんなときは頼もしい。ラニィは安堵した。助かった。大間違いだった。
「ああ!? なんで犬が死んでやがるっ――」
サムが言い終える前に、黒外套の女が猫のような身のこなしで躍りかかった。サムの頭頂あたりと顎を左右の手でつかみ、ねじるというより回転させる。硬いものが砕ける音がして、村一番の巨漢は首だけ真後ろを向いた。
「……ミシャ!」
ラニィはミシャを抱えるようにして走った。ミシャはもう抗わなかった。とてつもなく恐ろしいものを目撃して、頭の中が真っ白になっているのかもしれない。ラニィにしても、何かはっきりした考えがあって逃げだしたわけではなかった。ただ、ミシャが一緒だったから、迷わず行動できたのだとは思う。自分のことより、ミシャを守らないと。ミシャを危険から遠ざけないといけない。
黒外套の女が追いかけてくるんじゃないか。振り向いて確認したい。するべきなのかもしれないが、怖くてできない。
ラニィたちは広場を出て坂道を少し上った。そのころには村じゅうが大変な騒ぎになっていた。村の男たち、女たちが、子供たちも、老人たちも、わめきながら、泣き叫びながら、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしている。黒外套の女が暴れているのか。そこまではわからない。犬が吠え、鶏が鳴いている。何年か前、朝方にパン屋の家で火事が起きた。あのときよりもよっぽどひどい。
丘の上のお屋敷からマッテオが出てきた。寝間着の上に外套を羽織っている。
「ミシャ!」
「お父さん!」
ミシャは父親の胸に飛びこんだ。マッテオは娘を抱きすくめながら、髭を整えていない起きがけの顔をこわばらせてラニィを見た。
「ラニィ、これは何の騒ぎだ」
「はい、旦那様、それが、僕にも何がなんだか……」
「お父さん、バナーが、バナーが殺されてしまったの」
「殺された? 誰がそんなことを」
「それは、広場に女が、……女の子が……」
ラニィは口ごもって丘の下に広がるポマ村に目を転じた。はっとした。
「旦那様、西のほうで何か」
「馬鹿な――」
マッテオは絶句した。
村人の半分以上は丘の麓に住んでいる。もっとも、畑や放牧地の中にも家が点在しているし、村の西端には鍛冶屋や宿屋がある。
その鍛冶屋や宿屋の一帯から煙が上がっていた。
ラニィは目を凝らした。人だろうか。複数の影がうごめいている。
ミシャはマッテオにしがみついた。
「……何なの」
「トレアンで戦いがあったらしい」
マッテオは頭を振った。
「……だが、まさか」
「戦い……」
ラニィは呟いた。何だ、それ。知らない。戦いなんて初耳だ。
「旦那様、戦いって、……何のことですか」
「俺も昨日、風の便りに聞いただけで、よくわからんのだ。ビヨール王の軍隊が勝ったとか、負けたとか。しかし……」
戦争の話は何度か耳にした。どれも遠い異国の出来事だった。でも、トレアンとは聞き捨てならない。死んだ母はラニィを産む前、そのトレアンで暮らしていた。ポマ村から馬で何日もかかるらしいが、それでも二番目か三番目に近い町だ。
呆然と視線をさまよわせていると、西の鍛冶屋や宿屋のあたりだけではなくて、畑の間をのびる道や農家でも人か何かが動いていることに気づいた。その中の一部は人にしては大きい。馬に乗っているのか。きっと騎兵だ。トレアンの町で王の軍を打ち負かしたどこぞの軍隊が、このポマ村にまで攻めてきたのだ。
「どうすれば。……旦那様、どうしたらいいんでしょう」
「俺にわかるわけが!」
マッテオは声を荒らげかけて、がっくりとうなだれた。娘を抱いているというより、娘に支えられているかのようだった。
「……逃げるしかない。避難するんだ。おまえは先に行きなさい、ミシャ。お父さんは、お母さんや他の者たちを連れて追いかける」
「でもお父さん、行くって、どこに……」
「ラニィ」
「はい、旦那様」
「森だ」
父親はそう言うと娘を使用人のほうへ押しやった。
「行け。森に逃げこめ。ミシャを頼んだぞ!」
ラニィは返事もそこそこにミシャの手を引いてお屋敷をあとにした。
森。だけど森って、どこの森だろう。村の周りは森ばかりだ。だいたい、どうして自分は坂道を駆け下りているのか。まずい。このまま進んだら、広場に戻ってしまう。
村はもうひどい。人が大勢倒れている。死んでいるのか。あの黒外套の女がやったのだろうか。違う。あの女だけじゃない。あちこちで旗がひるがえっている。真ん中がショッキングピンクのような赤で、左右が黒の二色旗だ。武装した兵隊がそこにも、あそこにもいる。騎兵まで。なんでこんなことに。
「ごめん!」
ラニィは謝りながら踵を返した。ミシャは文句一つ言わずついてきてくれた。
森。森だ。森に逃げこまないと。森。あの森だ。丘を越えて、さらに北へ向かうと、ティモ山がそびえている。その山裾に広がる森が一番深い。きっと兵隊も、あの森までは追ってこないだろう。
ふたたびお屋敷の近くを通りかかったが、マッテオたちの姿はなかった。もう逃げたのかもしれない。まだお屋敷の中にいるのかもしれない。別行動をとったのはまずかったか。一瞬そう思った。後の祭りだ。今さらどうしようもない。
丘を越えて避難する村人はラニィたちの他にもいた。村人の大半は
少し余裕が出てきたのか、ラニィはふと数年前の出来事を思いだした。ビヨールの隣国ネクタリがエヴァラスティアという国と戦争をして、何人死んだとか、どこだかの何々砦が攻め落とされたとか。物騒な報せがもたらされるたびに、辺鄙で静かなポマ村がざわついた。あのとき村人たちは、怖がりながらも新しい報告を日々待ち望んでいた。それはラニィも一緒だった。
まさかこんなことが起こるなんて、夢にも思わなかったからだ。戦争という災難が自分たちの身にまで降りかかってくる。そんなことは想像だにしなかった。
村人たちは、薪拾いに行くときに使う山道を伝って山裾の森に入ってゆく。彼らについていったほうがいいのか。迷ったが、ラニィは山道を避けて森に分け入ることにした。
ミシャが息を切らしてだいぶ苦しそうだ。いったん木陰で座らせた。
「ちょっと休みましょう」
「……私のせいで」
ミシャが切れ切れの声で言った。ラニィは首を振ってみせ、木陰から顔を出して様子をうかがった。
山裾の森に逃げこむ村人たちのほとんどは、山道を目指している。ラニィもそうしかけたが、やめて正解だった。
兵隊だ。村人たちを追いかけている。
「ラニィ」
ミシャに呼ばれた。
「静かに」
ラニィはそれだけ言って、息を殺した。
兵隊はこっちのほうには来ない。ここは安全だ。今のところは。
悲鳴があがった。山裾の森の手前で村人が一人、兵隊につかまったのだ。
あれはたぶんシーサだ。ラニィやミシャより三つ上で、とっくに結婚している。
別の村人が、この野郎とか何とか叫びながら兵隊に飛びかかろうとした。夫のベレンだろう。
兵隊は腰に帯びていた剣のような武器を抜き、ベレンに斬りつけた。
シーサが夫の名を呼んだ。
ベレンが倒れた。周りの村人たちは、助けに行くどころか、むしろ足を速めた。
ラニィは顔を引っこめた。心臓が早鐘を打っている。口から出てきそうだ。耳鳴りがする。帽子がない。いつ脱げたのか。尻が痛い。さわると、硬くなった尻尾がズボンを突き破りそうだった。
ミシャは全身汗びっしょりになって震えている。どこを見ているのか。目が泳いでいる。放心しているのかもしれない。
「行きましょう」
そう声をかけると、ミシャはゆっくりとラニィのほうに顔を向けた。汗で額や頬に赤毛が張りついている。
「……でも」
「ここから離れないと。旦那様と奥様はあとから来ます。それか、もう遠くまで逃げて、このあたりにはいないかもしれないし」
「やさしいのね、ラニィ。……私、殺されちゃったかもって、考えてた。お父さんも、お母さんも、みんな。……あなたはずっと、やさしかった。……私と違って」
「何を、……言ってるんです。お嬢様。……ミシャさん」
「私、あなたの醜いところが嫌いなの。だって、あなたは人間じゃないでしょ」
その傷はいつもラニィの胸の奥に口をあけていた。だけれど、こんなにも深くその傷口を抉られたことはない。
そうだ。――僕は醜い。前世の僕も醜かった。だから人に好かれなかった。友だちさえ少なかった。生まれ変わったら、その醜さがわかりやすい形で明確になっていた。
僕は人間じゃない。人間ですらない。
そんなことは知っている。とっくに受け容れていた。今さら何を言われたって平気だ。そう思っていたのに。
「……ええ。そのとおりです。僕は人間じゃないから。……お嬢様とは違います」
「幼いころ、私、あなたが好きだった。あなたの不思議な話を聞くのが、大好きだった」
ミシャは右手をのばした。
その指先が、ラニィの頬にふれた。
「なのに、だんだんあなたを醜いと感じるようになった。あなたが人間じゃないから」
「すみませんでした。……せめて、僕もお嬢様と同じ、人間だったらよかったのに」
「謝らないで」
ミシャは一瞬で泣き顔になった。彼女は静かに泣いた。汗よりも遥かに大量の涙がとめどなくあふれた。彼女の右手がラニィの頬から離れて、こぼれるように落ちた。
「あなたを醜いと感じるたびに、私は私がいやになる。だから、私はあなたが嫌いなの。あなたはいつだってやさしいのに。本当は、あなたは醜くなんかない。醜いのは私なの」
「行きましょう」
ラニィはミシャを無理やり立たせて歩きはじめた。これ以上、彼女の告白を聞いていたら、こっちまで泣きたくなってしまう。
ラニィはともかく、ミシャはふだん森の中を歩いたりしない。ちょっとした斜面でも大変そうだ。でも、泣き言は言わない。ラニィに迷惑をかけまいと、懸命に我慢しているのだろう。
兵隊は二人以上が組になって山狩りをしているようだ。犬を連れた兵隊もいる。派手に動いていると見つかってしまいそうだ。だったら、じっとしていればいいのか。
どうするのが最善なのか、見当もつかないまま、二人は兵隊に怯えながら移動した。
兵隊の気配を感じると、茂みに隠れた。
息を殺して、兵隊が茂みの近くを通りすぎるのを待った。
どこかで犬が吠えるたびに、心臓が縮んだ。
一度、あの黒外套の女が森の中をうろついている姿を遠目に見かけた。血の雨に降られたように体じゅうが赤黒く濡れ、変わり果てていたが、間違いなくあの女だった。
黒外套の女は兵隊や犬たちのように獲物を探しているというより、ぼんやりとほっつき歩いているかのようだった。ラニィより若そうなあの少女が、猟犬を叩き殺してサムをひとひねりにした。あの様子だと、それ以後もたくさん手にかけたのだろう。ちょっと信じられないが、事実なのだ。
またどこかで犬が吠えている。兵隊の声も聞こえる。女性の金切り声が響いた。そう遠くない。きっと村の女が兵隊につかまったのだ。
あいつらはなんでこんなことをしているのだろう。いったい何のために? 現在進行形で繰り広げられている野蛮で残虐な行為に、どんな意味があるのか? そっと歩いたほうがいいのか? 全力疾走するべきか? それとも、下手に動かないほうがいい?
ミシャが何かに足をとられて転倒した。すぐに立たせて進もうとしたら、ミシャはつんのめりそうになった。転んだときに、足を痛めたらしい。
「ラニィ、私、走れない、どうしたら……」
「乗って」
ラニィはミシャに背を向けてしゃがんだ。ミシャを背負って足を動かした。重くなんかなかった。使用人として、水汲み、給仕、野良仕事、草刈り、家畜の世話、薪拾い、何でもした。それなりに鍛えられている。ミシャはラニィにとりすがって繰り返し謝罪した。謝らなくていいのに。どうか謝らないで欲しい。ミシャが謝る必要はない。
なんとなく助かりそうな気がしていた。日本で生きた二十九年間とポマ村での十八年間を合わせても、ここまで必死になったことはない。こんなにもがんばっているのだ。報われないわけがない。
「あっちにいるぞ!」
兵隊の声に犬の吠え声が重なって、ラニィはもちろん慌てた。恐ろしくてたまらなかったが、望みを失いはしなかった。逃げきれる。そう信じていた。大丈夫だ。このへんの地面はわりと走りやすい。ミシャをおぶっていても、体がすいすい進む。何かに導かれているような感覚があった。行く手がまばゆいほどに明るい。あそこまで行けば、きっと助かる。もうすぐだ。ほら。見ろ。どうだ。ここは――。
「下ろして」
ミシャが言った。
ラニィの足は微動だにしなかった。
動けない。
あと一歩、いや半歩でも踏みだしたら、とんでもないことになる。
ミシャはラニィの背中から下りた。片脚を引きずりながら、ラニィの隣に進みでる。吹き上がる風で、彼女の赤い巻き毛がなびいた。
畑や放牧地、家々、銀色に輝く川、水車小屋、二人が生まれ育った村のほとんどすべてが見渡せる。うごめく人馬は虫のようだ。ここから見るポマ村は、そこかしこから立ちのぼる煙をのぞけば、平和だったころとほぼ変わらない。
切り立った崖の縁に二人は立っていた。
犬が吠えている。兵隊が叫ぶ。足音が迫ってくる。
ミシャはラニィの手をとり、痛いほどきつく握った。
「私、馬鹿じゃないから」
突然、何を言いだすのだろう。ラニィはミシャの横顔を見つめた。こんなときでも彼女はきれいだった。涙や土や枯れ枝でどんなに汚れていても、彼女の美しさと可憐さが損なわれることはない。
「あいつらにつかまったらどうなるか、私、ちゃんとわかってる。あなただって想像がつくでしょ?」
うなずくしかなかった。ミシャに嘘をつきたくはない。
ミシャは一度歯を食いしばってから、「それは、いや」と言いきった。
「それだけは、絶対にいやなの」
言うまでもなく、ラニィだっていやだ。ミシャが
「あなたを醜いと感じない自分だったらよかったのに」
「……お嬢様」
「そんなふうに呼ばないで、ラニィ。昔みたいに呼んで」
「ミシャ」
「私、怖いの」
彼女は全身をぶるぶると震わせていた。ラニィのほうに顔を向ける。見たことがないほどくしゃくしゃだった。それでも彼女は愛らしい。いや、違う。愛らしいんじゃない。
「どうしたらいいかはわかってる。それなのに、前に進めないの。怖くてたまらないの。やるべきことは決まってるのに、私、勇気が出ないの」
「きみが好きだ、ミシャ」
ラニィは笑いかけた。滑稽なほど不細工な笑顔だろう。承知の上だ。僕は醜い。それがどうした。
「ずっと好きだった。僕はきみを愛してる」
「本当だから、信じてね」
ミシャは笑った。
「私もなの」
彼女がそう言ってくれた瞬間、吹っきれた。
二人はどちらからともなく手をつないだ。そして、同時に崖から身を躍らせた。兵隊や犬の声はもう聞こえなかった。太陽がやけにまぶしかった。ミシャはすでに目をつぶっていた。最後に抱きしめればよかった。口づけくらい、しておけばよかった。手遅れだ。あとどれくらいだろう。下を見る。思ったより近い。地面が――……。
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