バルカンルート

上条歌己

第1話

夜の帳が世界をすっかり包み、月の光がさした。


ラフィアは、ふるりと身体を震わせた。

寒い。

少女が横になっているのは、土の上にシートと薄い布を敷き、汚れた毛布をかけただけの、あまりにも粗末なものだった。

背が痛み、土の冷たさが直に伝わる。

テントは、UNHCRから支給された、家族3人が横になればいっぱいの小さなものだった。隙間風が吹きこんでくる。

南欧の春も、夜は冷える。

それでもテントの中で眠れるだけましだった。


テントには、ラフィアの母親と弟が並んで眠っていた。

ラフィアは、毛布を身体にまといながら身を起こした。

母と弟を起こさないように、音を立てずに、枕元に置いてあるリュックを持つと、テントの垂れ幕をめくり、外に出た。


ラフィアは15歳の少女で、黒い髪はゆるやかにウェーブして肩まで垂れていた。

目鼻立ちのはっきりした、綺麗と言える貌は、数日の間洗っていないため、埃に薄汚れていた。

黒い瞳には、幼さやあどけなさと共に、怯えや悲しみが宿っていた。それでいながら、強い光があった。


見渡す限り、テントがひしめき合っていた。

ふいに強い風が吹き、テントは一斉にはためいてパタパタと音を立てる。


テントの中には、疲れ果てた人々が、少しでも身体をやすめ、体力を回復させようと、眠りについている。

つかの間の、まどろみ。

安息を約束されたような、穏やかな夜。


しかし、朝が来れば、彼らは歩き出さなければならない。破れた靴で、陽のある間、ひたすら歩く。


路の傍には、馥郁たる実の香るオリーブが広大に広がる果樹園があるだろう。

歩く人々は、そのオリーブの実を口にできたらと願い、飢えて血走った目を向ける。

今朝、皿一杯のトウモロコシの粉を水で溶いた朝食を摂ってから、何も食べていない痩せた女が、思わずオリーブの樹に近づこうとする。

すると、立派なジャケットを着た男が、女にライフルを向けて罵るだろう。


これは、このオリーブ畑の地主のものだ!

お前たちが盗まないように、俺たちは始終見張っていなきゃなんねえ。

このオリーブは、俺たちが長い間育ててきた俺たちのものだ!この土地は俺たちの国で、お前たちのものじゃない。

さあさっさと歩け…!


女が、惨めに打ちひしがれながら憤怒をたたえて男をじっと見つめる。男は、沸き上がる衝動からライフルのトリガーに指をかけて、とめどなく叫ぶ。

女は足早に、歩く人々の群れに戻る。

人々は黙々と歩く。


ラフィアは、何度も目にした光景を思い出しながらーーー空を仰いだ。


少女の家、少女の部屋。

こなごなになった。


空いっぱいに、星が煌めいていた。

ラフィアはテントのひしめく場所からすこし歩いて、やがて座るのにちょうどいい草村を見つけた。

ラフィアは草の上に座った。

そして、リュックから、一冊の本を取り出した。

バルカンルートを歩く時、持ち歩ける荷物は7つだけだ。そのひとつに、ラフィアは詩集を選んだ。

こなごなになった家から、瓦礫の中から、傷だらけになりながら探し出した本は、縒れて、乾いた血のあとがあったが、少女はそれをこの世にひとつだけの宝物のように愛おしそうに開いた。

月明かりに文字が浮かんだ。



レモンの木は花さきくらき林の中に

こがね色したる柑子は枝もたわわにみのり

青く晴れし空よりしづやかに風吹き

ミルテの木はしづかにラウレルの木は高く



少女は囁くように、詩を詠んだ。



くもにそびえて立てる国をしるやかなたへ

君とともにゆかまし



祈るように、少女はくりかえしくりかえし、歌った。



かなたへ君とともにゆかまし

かなたへ

かなたへ

君とともにゆかまし


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バルカンルート 上条歌己 @utamy

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