飴と傘

黒中光

第1話 飴と傘

 夜、人通りの少なくなった道。雨が弱く、ただし途切れることなく降り続ける中、私と将司は相合い傘をしながら歩いていた。会社から駅までわずか10分の短い距離をゆっくりと歩く。傘は赤と白のチェックといった珍しい柄で、見ているだけで目を楽しませる。私はこの傘をくるくる回して、小学生の時に遊んだコマみたいな模様を見るのが大好きだった。


 寄り添いあって歩く二人。仕事帰りだけど髪型をばっちり整えた背の高いイケメン将司と、ヒールを履きこなして赤い大人な口紅が似合う美女(そう、私のことだよ、私)の組み合わせは美男美女のお似合いのカップル。


 だと思っていた。つい5分前まで。


「俺さ、好きな娘できたんだ。だからさ、俺たち別れないか。そんで、友達に戻る」


 寄り添いあって睦言を話していた中に、当然のようにスルリと入り込んできた言葉。あんまりに自然に入ってきたから脳が認識しなかったのだろう。


「うん。そうだね――ええええぇ! なあんでぇ!」


 甘い声でノリツッコミしてしまった。(読んでいて、クスリとでも笑ったやつ。一度同じ目を味わってみるがいい。二度と笑ったりできないぞ。クスン)


 大慌てで事情を聞いてみると、相手の女はこともあろうに私の大学時代の友達。先週、会って紹介したばっかりだ。その時に、一目ぼれして後で2日かけて口説き落としたらしい。


 あんまりの展開と、それを悪びれずむしろ軽く誇らしげに語る将司にもう何といえばいいか分からなかった。一応、私との関係を維持する気はないのかと訊くと、「ないな。悪いけど」という言葉があっさり返ってきた。全然、悪く思ってる感じがしない。もう、「ああ、そう」としか言えない。


 そして現在、一つ同じ傘の下で、仕事帰りだけど髪型をばっちり整えた背の高いイケメン(中身は最低のゴミクズ)将司と、ヒールを履きこなして赤い大人な口紅が似合う、表情の抜け落ちた美女(そうだよ、私のことだよ、私)は黙って駅へと続く道を歩いていたのだった。


 そして、黙ったまま駅に到着する。駅からせり出したひさしには、折り畳み傘を組んだり迎えを呼ぶ人たちがちらほら立っていた。


「じゃあな、真希。その傘、お前にやるよ。確か、駅からお前の家までちょっと歩かないとダメだっただろう」


 そう言って、こともあろうに笑みを浮かべて将司は立ち去った。何事も問題ないかのように平然と。数分前までの恋人の神経が分からず、私はただ茫然と見送った。


 私は傘に視線を落とす。赤と白のガーリーな傘。二か月ほど前に私が面白半分に選んで彼に買ってもらって置き傘にしていたものだった。普段使いには恥ずかしいと言ってデートの時にだけ使われた思い出の傘。


 当時は甘く、今は一刻も早く流し去りたい思い出の象徴。


 だが、いくら流し去りたいとは言っても、この雨が思い出を流し去るなんてそんな小説の中でしか成立しないようなことには期待できない。


 どうしようか、と思っているとあるものが目に入った。駅の入り口に置かれた傘立てだ。


 言っておくが、ただの傘立てではない。ここに差された傘は、駅の善意で置かれたもので、急に雨に降られた人が自由に借りていけるシステムになっている。


 ここに紛れ込ませよう。そう思った。そうすれば、いい厄介払いだ。最寄駅から家まで濡れることになるが、あんな奴の親切で身を守るくらいならばずぶ濡れになった方がマシというもの。


 私はハイヒールをタイルに打ち付けながらカツカツと傘立てに近づき、ストライプの傘を突き刺す。


 同時に、足に何かがカサリと当たる。なんだろうと思って見ると、チラシだった。黄色で裏に何か鉛筆で書かれている。拾い上げると、電話番号だった。


「ああ、えらいおおきに。助かったわ」


 関西弁で話しかけてきたのは、小さなおばあちゃんだった。くすんだ赤い色の服を着ていて、私がヒールなせいもあるが、目線が20センチほども低い。


「いや~、これに息子の携帯の番号書いといたんやけどな。風で飛んでどないしよか思てたんや」


 そうして、チラシを受け取ると、もう一度「おおきに」と白いものの混じった頭を下げてきた。初対面だが、なんとなく見ていてほっこりする人だ。そう和んでいた時、


「姉ちゃん、あの傘ってここから借りたん?」

「え?」

「姉ちゃんがさっき刺した傘、なんや新しそうやったけど」


 この言葉に焦った。まさか見ている人がいるなんて思ってなかったから。一瞬、言葉に詰まる。そして、それは十分な間だった。


「なんえ。まだキレイやないの。持って帰ったらええやん」

「……いいんです」


 そう言って立ち去ろうとしたが、おばあちゃんは顔をのぞき込んでくる。


「なんや、嫌な思い出でもあるんか」


 図星だ。まさか、会ったばかりの人に気づかれるとは。これが年の功というやつなのか。ちょっと怖い。


「でもなあ、姉ちゃん。なんぼ嫌なことがあっても、物に罪はあらへんで」


 そう言って、私に傘を手渡してきた。嫌だが、受け取るしかない。


「人もそやけど、物との出会いもなんかの縁や。大事にして、うまいこと付きおうていかなあかへんで、それがあんたの人生をつくるんやさかい」


 そう言われて、私は何も言えなかった。そんな私の表情を見て、おばあちゃんが鞄を漁る。


「そや、あたしなあ、ちょっと旅行行った帰りなんやけど、これお土産の飴ちゃん。1個あげるわ」


 そう言って、私の手に黒い包装紙に包まれた飴玉を乗せた。味噌飴と印刷されている。


 しょんぼりしている若者を元気づけてくれようとしたのだろう。その目論見は当たり、私は思わず笑ってしまった。関西のおばちゃんが飴を配るというのは本当らしい。


 おばあちゃんの息子が車で迎えに来たのを見届けてから、私は味噌飴を口に含む。最初は何故か苦みがあったが、じょじょに飴玉らしい優しい甘さが口に広がる。まるで、嫌なこともいつかは楽しいものに変わると言われているみたいだった。


 飴を口に含んだまま、私は傘を広げる。つらい思い出が詰まった傘。それでも、クルリと回してみると、私の好きな、ピンクの濃淡で描かれた丸が積み重なった、まるでコマみたいな模様を見せる。


 何故か、涙がにじむ。そして心が、快く柔らかく揺り動かされる。

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