ドゼの婆
ドゼの婆の話を聞いたのはわたしが子ども頃のことだった。
わたしが済んでいた町、といっても人口は1000人程度の村に近いところなのだが、そこではたまに噂になる要注意人物だった。
なぜ「ドゼ」と呼ばれているのかはわかっていない。
名字もなまえも、一切関連つけられるものはない。
ただ昔からそこの家の人は「ドゼ」と呼ばれているらしかった。
わたしはその「ドゼ」という言葉の響きと、そのお婆さんが話題にのぼったときの、大人の嘲笑したような口ぶりに、なんとも言えない嫌な感情を覚えた。
田舎町なのも手伝ってか、わたしはここに住む大人たちはあまり好きではない。
あるときわたしが近所に済む祖父母の家へお裾分のきゅうりを持って行くときのことだ。
「ドゼの婆に引っかからんようにせんと」と母がいうのだ。
「なんでや。こないな小さい村なんよ。会うてまうやもしらん」
わたしがなにも気にしていないという風に応えると、母は声かけられても無視するようにととにかく言う。
年配のひとばかりでなく、母までそのようなことを言ったものだから、祖父母の家まで道すがら、どこか府に落ちない気持ちでいた。
手に持ったきゅうりの青臭さが不満な気持ちを駆り立てる。
ふと耳元で声がした。
「◯◯◯ちゃんかい? 大きいなったねぇ」
庭先にたくさんの紫陽花が咲く、古い木造の平屋の前で見知らないお婆さんが立っていた。
どうやら家先を掃除していたらしい、手には柄の長い箒を持っている。
「昔からよう知っとうよ。利発そうになってぇ。そうやお菓子をやるからまっとき」
そう言うとお婆さんは、紫陽花のなかをかき分けるように戸口へ入っていった。
「なにがなんやら」わたしは独りごちた。曇り空に湿り気を含んだ紫陽花の淡さが目にとまる。
手入れされた大ぶりの花は満開だった。前にも見たことあるような、どこか懐かしい気もした。
しばらくしてお婆さんが出てきた。空はだんだんと水墨で上塗りされたような暗い雲が覆う。ここは雨が多い。
「すまんねぇ。ちらかっとって」そう言うと小分けされた抹茶最中を手渡された。
いくぶん訝しげに思いながらも「ありがとう」と応えた。
するとお婆さんは神妙な顔をして言うのだ。
「◯◯◯ちゃん。ここが性にあわんと思うたら、ためらいもせんと出ていきや」
いきなり最中をくれたと思えば、こんどは村を出て行けと。変わったお婆さんだ。
当時のわたしはなんとも言いようのない顔していただろうと思う。お婆さんはどこかあきらめたような悲しげな表情をしていた。
わたしは手に持ったきゅうりをひとつだけお婆さんに渡して、そこを後にした。
祖父母の家に着くころには、すでに雨が降りだしわたしはすっかり濡れてしまっていた。
玄関の丸石の床が濡れて黒く染まる。下駄箱も廊下も暗いぼやけていた。
出迎えてくれた祖母はふと手元の最中を見て、
「会うたね。ドゼの婆に」
「知らんよ」と咄嗟に返したが、誰のことか検討はついていた。
「かあさんに言われんかったのか」
「だって普通のひとやったもん。怖いひとやなかったで」
「なんも言われへんかったか」
「うん」
その後も祖母はしつこいくらいに尋ねてきた。そのたびにわたしは「何も聞いてない」と首をふった。
雨はひどくなり、夕飯の時間には屋根をぶち抜くほどの粒が機関銃のように降っていた。
結婚し東京に移り住んで5年になる。梅雨の季節になるといつも都会の下水のにおいが気になる。
たとえインフラが整っていても、どこか気に入らないものはあるものだ。
どこに住んでいてもきっと不満はあるのだろうから言葉にすることはないのだが。
そういえば少し前にわたしの地元で大きな土砂災害があったというのをテレビで見た。あそこは山間にあり雨も多い場所だから皆警戒はしていた。前にも村全体に地滑りや雨による災害がある場所なのだと専門家が指摘していた。
東京に移り住んでからは家族親類とは疎遠になり、そんなことになっていながらも家族に電話はしていなかった。不遜なことだと思う。
もっとも連日のTV報道を見ていても村のほとんどが無事なのはわかった。
ひとりの高齢女性が行方不明になったことを除いて死傷者は出なかったと聞くからだ。
その女性はまだ見つかっていないという。
ときおり祖母たちがわたしの行方を探していると、風の便で聞く。
呼ばれたような気がして 猫椅子 @nekoisu
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