もう二度といかない
僕はあまり人が好きではない。
いや人混みが嫌いなだけなのかもしれない。賑やかなのが苦手、というものではなく、ただ「人間」という種類の生き物が近くにいると疲れてしまうのだ。
そういうときは月並みだが、緑あふれる場所を求めた。
と言っても登山やキノコ狩りに行くという「準備」が少なからず必要なことはかえって気が滅入る。
しょうもないやつだと思うかも知れないが、ストレスを解消したいのだから最小限のカロリーで完結したいと思うのは当然だと思う。
電車で二駅ほど郊外に出た場所に良いところを見つけた。
自然公園なのだが、丁度良い広さだ。
規模で言えば中型のショッピングモールくらいの面積をもつ森林公園。これが居住区のなかにぽっかり浮かんだように鎮座している。
腐葉土や木片チップで作られた道と針葉樹林が主なこの森林は、すれ違う人も犬の散歩かランニングをしているひとに出くわす位だった。
その日も森林公園に向かった。一眼レフのカメラを首からかけ、黒に近い深い緑を堪能しながら森の奥へと歩いて行った。
ひぐらしの羽音が森のなかから聞こえる。いや外からだろうか。
ほどよく湿った空気と何とも言えない木々の薫りが胸を満たす。
里山なんかじゃあなくても気持ちは安らいだ。都心の作り物のような街路樹もいまなら嫌みなく見られるような気がした。
ほどなくして、道脇に朽ち木が倒れているのを見つけた。横倒しになった朽ち木には鮮やかな苔が錦糸卵のように帯をなして生えていた。
僕はなんとなく興味をなして、苔に近づきかがむ。
鮮やかな苔が銀河のように群れている。思わずカメラでカシャリと写真を撮った。
何枚か取っているうちにふと、なにかの気配を感じた。遠くで「おーい」と呼ばれたような気もした。
僕は立ち上がった。苔の写真はもう良いだろうというような気持ちしかそのときは無かった。
だが立ち上がり前を向いた視界の先には なにか違和感があった。
そのとき初めて「なにか」の気配にそれ結びつけた。
黒い影が遠くで見える。
輪郭はぼやけ、形はわからない。人くらいの大きさがあるようにも見える。
よくわからない。
僕は目を凝らした。正体がわかるまで、その場を動きたくなかった。
だが同時になぜか、あれに近づきたいとも思わなかったのだ。
黒い影はどことなく輪郭をひだひだと蠢かしているようにも見える。
朽ち木だろうか。そう思えば濡れた茶色をしているようにも思える。
動物か? そう思うと毛があるようにも感じられるのだ。
あれとの距離は十分ある。が、同時になぜか急に追い詰められるような恐怖感がぽっと出てきた。
背筋が寒くなる。自分の頬の温度が感じられるようになった。
嫌だな。
そう思ったときだった。急にあれが「朽ち木」でも「動物」でもないような気がしてきた。
ましてや人間でも――
鳥肌がたった。じりじりとした感覚がおでこを刺す。この感覚はたぶん、ひとの「視線」に似ていると思った。
僕はすぐに踵を返した。なんてことはない、と思わなければ。気のせいなんだ、と。
もと来た道を戻るべく順路を歩く。水分をふくんだチップの道が、歩くたびに沈む。
その間もずっと嫌な感覚が背中につたっていた。心臓だけが熱い。鼓動の衝撃が全身を巡る。
だんだん体が重くなる。なんだろう息を整えられなくなった。
口の中が渇き、唾をのむと喉が痛い。
やばいな。
このままだとやばい。別に何でもないことのはずだ、あれはそう朽ち木なのだから。
僕はもうどうにかしたくて、とっさに振り返り大声でいった。
「森はいいですね」
自分の声ではないくらい、掠れたものしかでなかった。
ついてくるな、とは言えなかった。
振り返ったそこにはなにもいない。針葉樹の木々とかすかな木漏れ日があるだけ。
なんだなんだ。
脈も体温も戻り始めていた。汗だけは決壊したように流れてくるが、それ以外は平常になろうとしている。
やはりあれは朽ち木だったのだ。
森林にセミの声が鳴り響く。いままでどこに行っていたんだ虫どもめ。
そう心の中で呟いた。
帰り道でひとりだけ柴犬を連れたおじいさんとすれ違った。
人恋しさでこちらから挨拶しようと思ったが、先を越されおじいさんから声を掛けられてしまった。
そっちには黒い影がいますよ。まあ木でしょうけどね。
なんて思いながら森林公園の出口まで歩いてゆく。
あせってカメラを落としていないか、住宅が木々の合間から見え出したころになってを何度も確認した。
そうだ記念に一枚撮ろう。この森を。そう思い僕は森林公園を出たすぐ、コンクリで舗装された歩道に立って振り返る。
僕はもうこの公園にはこないだろう。
「あいつ」がそこにいたからだ。
黒い曖昧な輪郭をゆらめかせて、はじめてあいつと遭遇したときとそう同じ距離を保って。暗い木々のあいまから忌まわしく「あいつ」がいる。
でも今回はよく見える。あいつの口元はこう言っている。
「でていけ」
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