蛍のうしろ

葉桜真琴

蛍のうしろ

 私が少年だった頃、学校の行事で野尻湖に行ったことがある。

 私の通っていた学校はいわゆるミッション系、つまりカトリックと深い関わりのあるところで、時に神父が授業を受け持つようなこともあった。とはいえ、私は精書をまじめに読むタチではなかったし、どちらかと言えば何かと人を試そうとする神の小物臭さはある意味軽蔑していたし、なにより、黙示録に描かれる滅びの風景に憧れる、いわば痛いヤツだった。

 あの日の野尻湖がどんな様子だったか、あまり覚えていない。晴れていたような気がするし、曇っていたような気もする。ただ、雨は降っていなかったことと、引率の神父が言っていたことは明確に覚えている。

「野尻湖に霊感がある人が行くと、沢山の霊が見えるそうだよ。気絶する人もいるらしい」

 ありそうな話だ、と思った。崖、滝、池、湖、そして海。水に関わる場所は死の匂いがつきまとう。きっと、今も日本のどこかでは赤ん坊か老人、はたまた過労の会社員が風呂で溺れて死んでいるかもしれない。

 けれどそんな話を本気にするほど純真でもない。少し、羨ましくはあったけれど。

 私たちが寝泊まりしていたのは野尻湖のほとりにある建物で、人里からもそれなりに離れている様子だった。森に囲まれているので、夜になれば星の明かりも頼りにならない。あるとすれば、湖に映るゆらめく月の、淡い光だけだった。ひょっとすると、ひとには、入水した死者の放つ燐光なんかが見えたのかもしれない。そんなものは、私には見えず、視界の先まで広がる森の闇の方がずっと恐ろしかった。

 望んでも手に入らないもの。私にとってそれは霊感だった。霊感でなくとも、その他の、いわゆるオカルト的な事象へのつながりは、大人になった今の私にとっても欲しいものの一つだ。

 オカルトや超常現象に憧れるのは自分を特別だと思いたいガキだと誰かが言っていたのを耳にした気がする。辛辣で、少し外した意見だと思うのと同時に、分かる部分もある。仮に、この世の外にあるものに触れたとしよう。その人は自分を特別だと思うだろうか。思うかもしれないし、そうでないかもしれないが、思うとしたらそれはただ、特別であると慢心するのがガキというだけである。オカルトには罪はないだろう。しかしながら、オカルトやら超常現象やらは我々が虚構、とりわけ子供の時分に見るような物語に現れる奇跡のようなもので、そう思えばオカルトに憧れる心の子供らしさというのは存外否定できないのかもしれない。

 本筋から外れてしまったので元に戻す。

 野尻湖に滞在して二日経った頃だったか、肝試しをやることになった。進め方は至ってシンプルで、教師や神父たちが持ち寄った怪談を生徒に聞かせて怖がらせた後、明かりを消した建物の中にあるカードだかを取ってくるというものだった。

 その時のことなのだ。一人の神父が、蛍にまつわる自身の体験を話したのは。


 私が行ったのとは前の年にその神父が野尻湖へ行った時、彼は一つのことを思いついた。せっかくこんなきれいな湖に来たのだから、蛍の一匹くらいはいるかもしれない、と。彼はそう思いつくと、蛍のいそうな場所、ということで、湖に流れる渓流のわきの山道を登って行ったという。

 渓流に沿って登っていくうち、彼は空気が少し重くなっていくのを感じたという。彼にはそれが、単なる疲れに思えたのだろう。蛍への期待がそれに勝り、彼は登り続けた。

 そうしていくうち、彼はある時、大勢の蛍の群れを見た。美しく、幻想的でさえあるその風景に、彼はひどく心を奪われ、やがて満足して元来た道を戻ろうとした。

 その時のことだ。

 自分の背後に、無数の気配を感じたのだという。ゾッとするような感覚に、彼はひたすら山道を下り、気づけば寝泊まりしていた建物にたどり着いていた。

 神父の話はこれで終わり、ネットの掲示板によくあるような恐ろしい後日譚などはなかったのだが、話を聞いていた我々の視界にあるものが映った。

「あ、蛍」

 誰かが言った。もう一人、また一人と蛍を見つけた。

 古今東西、恐ろしい話をしていると、恐ろしいものを呼び寄せるという。今回はそれが蛍だったのだろう、と私は半ば感動していた。


 その翌日、私は湖畔で遊んでいた。そして、昼食に呼ばれて建物に戻ろうとしたとき、私の背に誰かの手が触れた。

 振り返れば、誰もいなかった。

 あれは、私の手だったのだろうか、それとも蛍が呼び寄せた何者かだったのだろうか。今となっては本当のことなど何もわかることなど出来るわけがなく、こうして徒然にキーボードを叩くばかりである。


 

 


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蛍のうしろ 葉桜真琴 @haza_9ra

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