溢血
大滝のぐれ
溢血
最寄りの駅から電車で数駅のところにある池袋駅構内に降り立つと、うんざりするほどたくさんの人の頭が歩き回っていた。普段住んでいるところは都市近郊のベッドタウンだからそれなりに人がいるけど、ここまでではない。駅ビル内の石鹸屋の甘臭い香りと人の体臭が鼻腔に容赦なく入り込んできて不快な気分にさせられる。大学に入り、電車通学を初めてからもう二年も経つけど、私はいまだに人混みに適応することができずにいる。
だが、これから私が向かう場所には、これなど比ではないほどの人がいる。装着していた携帯音楽プレイヤーの音量をあげ、JRへ乗り換えるために改札をくぐった。階段をあがってホームに出て、ちょうどよく滑り込んできた緑色のラインが入った電車に乗り込む。するとその瞬間、妙な臭いが鼻をついた。さっきの石鹸屋とはまた違う臭い。かりんとう。焦げたドーナツ。アルコール消毒剤。それらを極限まで強くしてうんこを混ぜたような香り。ドア付近に空いていた空間に陣取ってから車内を見渡すと、その臭いの主はすぐに見つかった。薄汚れたチャウチャウ犬みたいな見た目をした黒い肌のおじさんが、七人がけの席の真ん中に座っていた。服はみすぼらしくところどころが破れたり汚れたりしているうえ、履いているスニーカーは親指の部分に大穴が開いていた。そこから水虫で鼻水色に固まった指の爪がのぞいている。そのくせして、手にはしっかりとカップ酒が握られていた。午後六時になろうとしている車内にはかなり人が詰まっていて、そのほとんどが真顔になろうと努力している。ツイッターを開き『埼京線 臭い』で検索すると、あのおじさんの画像はなかったが、プリクラアイコンが『埼京線乗ってるんだけど近くにいるおっさんまじ臭い。最悪』というツイートをしているのが見つかった。おじさんの隣の隣に座っている、一見無害そうな顔をした女性が、一心不乱に指を動かして携帯をいじっていた。
車内の観察をしているうちに、いつの間にか車窓には繭の形をした建物が映り込んでいた。少しずつ電車のスピードが緩み、車内アナウンスが新宿に到着したことを知らせる。世界を滅ぼすなら、多分ここか下北沢を一番に破壊するだろうなあ、と考えるほど嫌悪している街。そんな場所に、私は小さなため息と共に足を踏み入れた。後ろを振りかえると、チャウチャウ犬はまだ電車の中に残っていた。
少し早く着きすぎてしまったな、と私は電車の到着時間を表示する電光掲示板を見ながら考える。念のため携帯でこれからの予定を確認することにした。メッセージアプリを開き、昨日の夜にお風呂に入りながら、バンドをやっている友人とやりとりしたメールを確認する。
『明日のオープンって何時だったっけ』
『18時だよん』
『おけわかった』
その友人は髪の毛を水色に染めている女で、この世の固く冷たい部分に中指を立てまくっているような雰囲気を纏っている、ふりをしているやつだった。そんな彼女が率いるバンドが出演するライブを見るために、私はこの人だけ無駄に多くて空気も汚くて閉鎖的な新宿にやってきていた。そこまで彼女らの曲が好きなわけではなかったけど、一回は自分の目で見ておきたかったのだ。
イヤホンを外して鞄にしまい、アブラムシみたいにわらわらと四方八方から湧き出てくる人をかわしながら、なんとかアルタ前の出口に出る。よく新宿駅は迷宮やダンジョンに例えられるが、厄介なのは場所よりこの人混みだろう、と私は考えていた。ある程度の広さの中に漂う時間はホールケーキのように有限で、人が多いほど取り分は横からかすめ取られて小さくなる。現に肉の壁によって何度も歩みを阻まれ、駅構内から脱出するだけなのにかなりの時間がかかった。私の中に本来あるべき時間が、背広のハゲや化粧臭い女、黒くてびらびらしたズボンとドクターマーチンを身に着けた男に食いつぶされていく。
「お兄さんイケメンっすねえ。ホストとか興味ないですかあ」
「え、あ、いやそういうのはちょっと」
黒と金が混ざったプリン頭の男が、いまいち垢抜けない雰囲気の男の子を捕まえていた。おそらく大学進学かなにかで上京してきた子なのだろう、イケメンと言われて満更でもない様子だった。きっと、彼は後で『ホスト 勧誘された』と携帯で検索して自分がどんな風に見られていたのかを知ることになるだろう。新宿とはそういうものだ。何もわかっていないバカの生肉をにちゃにちゃ噛み砕いているやつが、平気で人のふりをして歩いている。人が物を落としても拾わない。一人でケーキバイキングに来たやつを嘲笑う。そんなやつらがこの街には多い。死ぬときはひとりになり、一緒になって他のやつらを嘲笑してくれる人なんて誰もいなくなるのを、皆忘れているのだ。
アルタ前を過ぎて、西武新宿駅のほうへと歩みを進める。人が途切れることはない。『JKは売りものじゃない』というポスターの前を、極限までスカートを短くした女子高生二人組が通り過ぎた。どちらも、韓国語の名札とディズニープリンセスのドレス型マスコットをつけた通学鞄を手にしている。そこも通過すると、さすがに少しずつ人が減ってきた。街並みも、毒々しいネオンと電飾の看板の割合が薄まってきていた。ケバブ屋がある角を曲がり、四川料理屋の隣にある水色の壁面の建物に入る。といってもライブハウスなので、怪物の喉のような暗い階段が細く広がっているだけだけど。今日のライブの企画名と出演バンドを列挙した看板がなければ、これがなんの建物なのかすらわからないかもしれない。
階段を中腹までおりると簡素な受付がしつらえられていて、わかめみたいな頭をした男が暇そうにしていた。
「あ、あの、ペトリコールでと、取り置きをしている菅永というものなんですけど」
「は?」
男が目を細めながらこちらを睨みつける。眉間に潰れたニキビがあった。私は彼の威圧的な雰囲気に気圧されつつも、もう一度同じ言葉を伝える。すると今度はきちんと通じたらしく、取り置きをされているか確認したのち、代金を要求してきた。支払うと、チケットと一緒に紫色のカジノコインを利用したドリンクチケットが手渡された。フロア内にあるドリンクカウンターで、酒やらソフトドリンクやらと交換できるものだ。私は彼に小さくおじぎをすると、足早に階段を降り、やたら重い扉を開けて中に入った。なんだよあいつ。機会があったらぶっ殺してやる。
フロア内は閑散としていて、私や隅のほうの物販コーナーに座っている人以外には、八人くらいしか人がいなかった。中には出演者も混じっているだろうから、純粋な客はもっと少ないかもしれない。
ステージ上では、すでに友人率いるペトリコールがセッティングを開始していた。私はドリンクカウンターでメロンソーダをもらい、ベース側のほうの壁にもたれかかった。本当は少し手前にある丸テーブルに陣取りたかったのだが、煙草の煙を纏った男二人組がそこを占領していた。ステージの上でエフェクターをかちゃかちゃと踏んでいたベースの人物がこちらに気づき、暗がりでもわかるほど顔を輝かせた。その髪は作りものめいた水色だった。
「あ! すがちゃんありがとう」
「いえいえ。頑張ってね」
「ありがとー! あそうだ、録音してくんない? アイフォン貸すから」
友人はそう言うと、アンプの上に置いていた携帯をこちらに渡してきた。画面を点灯させると、すでに録音アプリが立ちあがっていた。私はそれを手に、元いた壁のところに戻る。程なくして照明とSEの音量が落ち、静寂が降りた。そこに、鋭いギターの音が重ねられる。ボーカルの男が歌い出すと同時に照明がぼんやりと灯り、曲の盛りあがりに合わせて徐々に光量が増していった。
そうしてライブは一曲目、二曲目とつつがなく進行していった。二曲目のアウトロのフィードバックノイズが止むと、フロアから点々と拍手が聞こえてきた。
「ありがとうございます。えー、ここ新宿エアロさんでやらしてもらうのは二度目なんですけど――」
友人がありきたりな社交辞令を淡々と話した後、ギターのセッティングが終わったのを見計らい、次の曲が始まった。「盛り上がる曲なんで皆さん手を叩いたりして楽しんでください」と言っていたとおり、要所要所でボーカルが客席に手を叩くように促してくるが、閑散としたフロアでは、それをしてくれる人はごく少数だった。現に前の二人組は腕を組んでいる状態のままだった。ベースを弾きながら、友人がときおりこちらに視線を向けてくるが、私はなんとなく手を叩く気にはなれなかった。おかげで指がベースのフレーズにところどころ追いついていない。その様子をメロンソーダをちびちび飲みながら眺めていたら、いつの間にかペトリコールの出番は終わっていた。ボーカルが簡単なお礼と物販情報、次のライブの予定を早口で言っておじぎをすると、さっきよりも格段に大きな拍手が響いた。
ライブが終わってしばらくすると、反対側の壁に埋め込まれたドアから、楽器を片付けたらしい友人たちが出てきた。彼女はこちらに目を向けると、小走りにこちらに寄ってきた。
「お疲れ。かっこよかったよ! はい録音」
「ほんとうにありがとう。あごめんわたしちょっと外で煙草吸ってくるね」
指を二本重ねて口元に運ぶジェスチャーをして、彼女は携帯を手に足早にフロアから出ていってしまう。なんとなく、私が悪いのかという気分にさせられた。
じゃあ、あそこで手を叩き、キャッチーさしか考えていない意味不明な単語をボーカルに合わせて連呼すればよかったのだろうか。前の二人組にモッシュでなだれかかって最前列に運べばよかったのだろうか。もし私がそうしたとしたら、彼女たちはどうするつもりだったのだろう。
もやもやとした霧のような気持ちを抱えしばらく悶々としているうちに、次の男性三人組のバンドがセッティングを終わらせていた。音楽と照明が遠ざかったと同時に、フロア中に轟音が響き渡った。隕石が落ちたようなその中で、赤い光に照らされたギターボーカルの痩身の男がマイクに顔を近づけた。
「今日はなにもかもをぶっ壊しにきました。よろしく」
フウー、という声と共に、先ほどまで地蔵のように固まっていた男二人組が前に進み出た。机の上の煙草と飲みかけのドリンクはそのままにして。
ぶっ壊す。ここで。なにを。なにもかもを。新宿を?
あらゆるクソ人間が積まれた、この街は途方もなく大きい。夢もゲロもコンドームも居酒屋も本屋もラブホテルもヒルトン東京もコクーンタワーもアルタもなにもかも、混ぜこぜになって存在している。そんな場所を、こんな天井の低い暗がりの中で破壊できるのだろうか。ここが粉々になったって、きっとこの街は知らん振りをするだけだろう。
壊せるものなら壊してみてほしい、と私は思う。この、本当にどうしようもない街を。私の大嫌いな、この街を。
ステージの上では、三人組が全力のパフォーマンスをしていた。手を叩くタイプの曲ではないけど、前の二人は堂々と拳を突き上げている。私の近くにいつの間にかやってきた地味目の女の子も、体をかすかに揺らしてリズムを取っている。そのさまを見ていると、私はなんとなく想像してみたくなってしまう。ライブハウスの壁面のコンクリートの隙間から、じんわりと赤い毒のようなものが漏れ出て染み込み、ビルや道路、その上を歩く人や車を蝕んでいくのを。
そしてライブが終わったとき、新宿は彼らの言った通りぶっ壊れているのだ。ありえないくらい静かになった街を歩き、私はJRの改札に向かう。そこで永遠に来ない電車を待ち続ける。浮浪者もホストも態度の悪い受付もくだらないバンドマンも、誰もなにも乗っていない電車を。
一曲目を演奏し終えると、彼らは拍手を待たないまま、次の曲を矢継ぎ早に演奏し始めた。今度は一転して透明な音がフロアを柔らかく包んだ。友人はまだ煙草から帰ってこなかった。もしかしたら死んでいるのかもしれない。
溢血 大滝のぐれ @Itigootoufu427
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