食物連鎖の中

牛屋鈴

203号室の幽霊

 彼は、穏やかで真面目で、そして含蓄がんちくある人だった。

 彼の話は僕の知らない事や知らない考え方が散りばめられていて、彼の話を聞く度に、僕は少し賢くなった気分になった。

 そんな彼の話の中で一番、印象深い物は、来世の話だ。


「私はね。もしも来世があるなら、次は豚になりたい」

 その時、僕らは高校生で、とある行きつけの定食屋で二人、トンカツ定食を食べていた。

「どうして?」

「トンカツが好きなんだ。今までの人生の中で、たくさんのトンカツを食べてきた」

 彼はこの定食屋に来ると、いつも決まってトンカツ定食を頼んだ。

「豚になって、他の人にもトンカツの魅力を伝えたいの?」

「んん……それは違う」

 トンカツが、彼の口の中でざくりと音を立てる。彼は口に食べ物を含んだまま喋るような行儀の悪い事はしないので、僕はそれが喉元へ過ぎて、彼がもう一度口を開くのを待った。

「本当はこんな言い方をする事も違う気がするけれど……罪滅ぼしがしたいんだ」

「罪滅ぼし?」

「私は今まで豚を食べてきた。豚を殺してきた。今も食べて殺している。だから、次は私が豚になって誰かに食べてもらう事で、その罪を償いたいんだ」

 彼は、自分が生きるために何かを殺して食べる事を、純然と罪だと捉えた。

「罪悪感を感じているなら、今からでもベジタリアンになればいいじゃないか」

「今まで散々食べて来たんだ。今更やめても一緒だよ」

 そう言って彼は、迷いなく目の前のトンカツを箸で取った。

 わざと悪ぶって、自分の心を軽くしようとしているみたいだった。

「……君の考え方に僕を当てはめると、僕も罪人になるのだろうか」

「……そうだね。でも君がそう考える必要はないよ。これは私の考え方だから」

 彼はそう言ったが、僕は釈然としなかった。

 彼は僕に贖罪を強制こそしないが、結局、彼の中では僕は罪を自覚しない愚かな人間として写っているのではないか。

 しかし、僕も今さら十字架を背負う覚悟はなかった。

 思い返せる食事だけでも、両手に余る罪だ。

 あなた達にも考えてみて欲しい。今まであなたが食べてきた命が、急にあなたの枕元に現れ。

『今までお前に捧げた命を取り立てる』

 と言われたら。

 彼は受け入れるだろう。僕はきっと受け入れられない。

 食事に罪悪感を覚えるのは理解できる。しかし、その罪を命でしか償えないというのは、僕には不条理に思えて、納得できなかった。

 彼は最後にこう言った。

「まぁ、『もしも来世があったら』という仮定の話だ。あまり深く考える事ではないよ」

 彼がそう言うので、僕は思い付いた質問をそっと胸にしまった。

『来世がないなら、君はどうやって罪を償うつもりなんだい?』

 それから僕たちはあまり食べ物の話をしなくなった。ことこの倫理に関して、僕らはささやかで確かな決別を果たしたのだ。



・・・



 僕らは大学生になり、彼は一人暮らしを始めた。

 彼が一人暮らしをする事には問題はない。ただ、彼が暮らす場所に選んだアパートに問題があった。そのアパートには現在、彼以外の住人が居らず、良くない話が、まことしやかに噂されている。


『そのアパートの203号室には自殺した女の霊が居る』

『誰かが入居すると、一日に一部屋だけ、住人の居る部屋に近づいてくる』

『その部屋に辿り着いた日の夜。その住人を呪い殺す』


「どうしてわざわざこんなアパートに?」

 僕は彼の部屋で荷解きを手伝いながら、そう尋ねた。

「家賃が安かったからね」

 彼の答えを聞きながら、部屋を見回す。少し古臭い雰囲気を除けば、どこにでもありそうなアパートの一室だ。けれど、噂の事を思い出すと、少し背筋が冷える。何でもない木目が、おどろおどろしい人魂に見えた。

「気になる?なら、ちょっと見に行ってみようか」

 彼の誘いを受け、荷解きもほどほどに、噂の203号室へ向かってみる事にした。

 アパートの廊下を歩く彼の足に躊躇はなく、どうやら噂を信じていないらしい。僕もあまり強く信じてはいなかったので、迷わず付いて行った。

 まるで自分の部屋かのように、彼が203号室の扉を気軽に開く。僕も後に続き部屋に入る。強い西日が窓から垂直に入り込んでいた。

 部屋に特に変わった様子はない。彼も別段、何かを気にする様子もなく、部屋の壁に背を預けていた。

「やっぱり、嘘だったか」

「うん……そうかな」

 彼が西日の射さない、影になっている壁をひたりと撫でた。

「帰ろう」

 僕は扉へ向き直った。その時、ある不思議なことに気が付いた。

『どうして扉は開いていたのだろう?』

 体に悪寒が走る。精神的な物でもあり、物理的な冷たさが体を一瞬覆った。

 次の瞬間、ブチッという音がして、僕の頭上に縄が落ちてきた。額からうなじを通って肩まで、ざらざらした荒縄の感触が這う。

 何故かその縄は、冷たかった。

「ひっ……」

 急いで頭から払いのける。縄は、先の方に輪っかが作られていた。

「今……天井から降ってきたね。突然。それに、その輪っか……もしかして」

 彼が、床に払い落とした縄を指差した。言いたい事は何となく分かる。この縄は、件の女の自殺に使われた物ではないかと言いたいのだろう。もしくは、その女の怨念が具現化した物ではないかと。

「……きっと僕らが部屋に入る前から仕掛けてあったんだ。扉が開いていただろう?きっと誰かのいたずらだよ。こんなの」

「かもね……」

 彼はかがんで、床の縄を拾って眺めた。

「……冷たい」

 やめろよ。と言いたかったけれど、彼の瞳があまりにも一生懸命だったから、何も言えなかった。



 次の日も、彼の部屋を訪れていた。

 彼は質素な台所に立って、二人分のそうめんを湯がいていた。

「肉気のない昼ご飯ですまないね」

 背中を向けたまま、冗談らしい声が聞こえる。そんな彼の言葉に、僕は少しドキリとした。

 あの話、来世の話をしてから、僕らの間で食べ物の話は禁忌だった。特に肉の話は。僕らは食罪についての倫理に理解し合えず、また譲れもしなかった。故にそれ、もしくはそれを連想する話題を避けるという、暗黙の了解があった。

 もしも、先程の彼の言葉が意識的に発せられた物なのであれば、それは絶交の宣言であると同時に、僕への冷たい皮肉になる。

 そしてそれは、半分、僕の予想通りだった。

「私がこんな風に苛まれるのは、きっと私が食物連鎖の頂点だからなんだ」

 彼がこちらに振り向いた。

「苛まれる……?」

「……トンカツの話さ」

 これではっきりした。彼はわざと、終わった話を蒸し返している。それとも、終わったと思っていたのは僕だけだったのか?

「豚……牛、鶏、魚。私達より『下』の生き物は、時に更に下の生き物の命を喰らう。だが、彼らは許される。いつか、上の物に食べられるからだ。けれど、私達は許されない。私達を食べる生き物は居ないからだ。許されないから、私は罪の意識に苛まれる」

 彼は、最後だけ主語を『私達』から『私』に変えた。それは『君とは違う。』という思いを、言外に込めているように感じられた。

 彼は、やはり食事に罪の意識を持たない僕を、軽蔑してしまったのだろうか。

「ああ、いや、別に君を責めたいわけではないんだ。……私の価値観を君に強制したいわけでもない。これは私の考え方だから」

 僕の顔をみて、彼は僕を傷つけないように言葉を重ねる。

「ただ……君には伝えておこうと思ったんだ」

「何を?」

 彼は少し黙った後、僕の後ろの壁……更にその向こうを見た。

「……彼女に会いに行こう。そこで伝えるから」

 彼はそれ以上何も言わず、部屋から出ていった。僕も付いて行く。

 彼女……203号室の幽霊が、関係しているのか?嫌な予感が、頭の端をよぎる。

 そして彼は、昨日と同じような手つきで、202号室のドアノブに手をかけた。

「203号室じゃ……」

「いや、いいんだ。今日はここだから」


『そのアパートの203号室には自殺した女の霊が居る』

『一日に一部屋だけ、住人の居る部屋に近づいてくる』


 僕は、その扉が開かなければいいと思った。しかし、驚くほどあっさりとその扉は開いた。

 時刻は昨日と同じ、部屋の間取りも隣と同じ。部屋には強烈な西日が射しているはずなのに、部屋に入った途端、何故か体がひやりとした。

「もうすぐ、昨日のあの時刻と一緒になる。次は、見逃さないでくれ」

 彼が昨日と同じ場所に背もたれて、天井を見上げた。僕も一緒になって見上げると、昨日と同じ悪寒が走る。

 その後、僕は視線の先に、を、見た。

 いつに間にか、足元に昨日と同じ形の縄が落ちていた。

「え……?何……?」

 さっきの光景が、目から離れない。どんな形をしていたか、どんな色をしていたか知らない。言い表せない。

 ただあれは、この世の物ではない物だった。

「彼女は、本物だ」

 彼が僕の足元の縄を拾う。

「……昨日より、冷たい。それに……」

 縄から、何かの欠片が落ちる。

「これは、彼女の皮膚かな……昨日はなかった。おそらく、私に近付いた分、当時の状況に戻ってるんだ」

 皮膚、当時の状況。それの鮮明な想像は容易で、僕は吐き気を覚えた。

「引っ越そう」

 僕はひざまずいて、半ば彼に懇願する形で言った。

「君の言う通り、噂はきっと本当だ。このままでは……」

「引っ越さない」

 彼が、僕の言葉を遮った。

「それが、今日、君に伝えたかった事だ。私はこのアパートに残る」

「どうして……」

「……言っただろう?私が苛まれるのは、私が食物連鎖の一番上に居るからなんだ。誰にも殺されないから許されないんだ。裁かれないから償えないんだ。でも私は、許されたいんだ。許されたいんだよ……」

 あの日、胸にしまい込んだ問いが僕の中で思い返される。

『来世がないなら、君はどうやって罪を償うつもりなんだい?』

 僕が聞くまでもなく、彼が答える。

「私はもう、何かに殺されたくてたまらない」


『その部屋に辿り着いた日の夜。その住人を呪い殺す』


 彼の部屋は201号室。彼女は今日、202号室に居る。



・・・



「……以上で、除霊の儀式は終了となります。それから、料金を必ずこちらに。一週間以内に振り込みがなければ、法的な措置を取らせていただきます……。それでは」

 僕の呼んだ除霊師が、水晶やお札などの小道具を回収し、満足気な顔をして201号室から出ていく。しかし、部屋にもあの縄にも、目覚ましい変化は見受けられない。

 時は既に夕刻を迎えている。今日の夜、彼は殺されてしまう。

「私の部屋に嘘つきを呼ぶのはやめてくれないか。不愉快だ」

 穏やかな彼らしくない、嫌悪感を強くあらわにした声だった。

「……そもそも、誰を呼んだって無駄だ。彼女は、人類より遥かに上位の……食物連鎖の外に居る存在なんだから」

 しかし、僕の貧困な頭ではこれぐらいしか思いつかなかったのだ。

「君を救うには……」

「私にとっての救いは死だよ。むしろ君の行いはそれを妨げる物だ」

 彼が壁を背にしゃがみ、床の縄をじっと見つめる。縄が放つ不気味な冷気は、ついに触らなくても感じられるほどに強くなっていた。この部屋にいるだけで足が震える。一刻も早くここから去りたくなる。

 僕は、少しでも体を温めようと、西日の当たる場所へ移動した。彼は以前、影の中にいた。

 影と陽の境界線。それが僕と彼との間に、はっきりと示されてしまった。

「怖くないのかい」

「……償いのためなら」

「霊は、もう死んでいる。僕らは生きるために豚を殺すけれど、霊は別の理由で君を殺すんだぞ。それでもいいのかい」

「私達だって、生きるためだけに殺している訳じゃないさ。今までもっと極限まで質素に暮らせたはずだ。食い殺す量を減らせたはずだ。そうしなかったのは、ひとえに美味い物を食べて快楽を得たかったから。それだけなのさ……彼女がどんな理由で私を殺すのか知らないが、それを責める資格は、私も君も持っていない」

 彼はこの部屋に縄が落ちてから、ずっと部屋の影の中でじっとしている。彼の顔色はもう凍死寸前のようで、まるで生気が無い。のに、その意志の強さはひしひしと伝わる。彼が考えを変えることはなさそうだ。

「……そこに居るんだろう!」

 力を振り絞り、縄に向かって話しかける。

「お願いだ。彼を殺すのを、やめてくれ。彼は僕の親友なんだ」

 縄に応答の様子はない。ただの縄に一生懸命に話しかける僕の姿は、知らない人が見れば滑稽に見えただろう。いや、知っていてこそ、なおさら滑稽だったかもしれない。

「……どうしてだ!どうして殺す!あなたは自殺したんだろう!あなたに起こった問題も、悲劇も、僕らには関係のない事だろう!なぜ、関係のない彼を殺す!」

 温度の低い部屋で声を張り上げる。頭が少しくらっとする。心臓の周りで血がじんじんして、呼吸が荒くなる。

 少しの間、冷たい空気に僕の息が混ざるだけの沈黙が続いた。そして、僕の息が整うと共に、彼が口を開いた。

「無駄だよ。きっと、私達の言葉は、彼女にとって何の意味も持たない」

 一拍おいて、彼が僕を見る。

「君は、豚の言葉を理解しようとした事があるか?あったとして、理解できたか?更に理解できたとして、君は豚を食べるのをやめて餓死できるか?」

 彼が、僕を見る。その視線には、明らかな侮蔑が混じるようになっていた。

「……君は、一体何なんだ。私は今まで君に私の考えを押し付けた事はないぞ。なのに、何で私を生き残らせようとする。私に押し付けるな」

 彼のそんな視線を受けるのは初めてで、僕は更に体がすくんだ。

「だ、だって、君は僕の親友なんだ。そんな君が死ぬのを、黙って見過ごせるはずないじゃないか」

「それは君の都合だろう……それを押し付けるなと私は言っているんだ」

 彼の態度に、言葉が詰まる。けれど、きちんと言葉にしなくてはならないと思った。

「僕も、何かを食べる時、たまに罪の意識に苛まれるんだ。……許されたいんだ。でも、君とは違う。僕は、僕自身が生きていてもいいって思えるような、そんな許しが欲しい。死ぬこと以外の、許しが」

「そんなの……誰がくれる……?」

「……分からない。それでも、探し続けていたい。生きていたい」

「それと私が死ぬことに、何の関係がある?」

「君のような償い方があってはならないんだ。命を喰らう事が罪で、それは死ぬことでしか許されないなら、僕は僕を、生きていてもいいって思えなくなる……。お願いだよ。君も生きていてくれよ……」

「それも君の都合だろう……!私に押し付けるんじゃない……!」

 彼の視線が一層険しくなって、真っ赤に光った。

「結局君は、人と一緒に悪事を行うことで、自分の罪悪感を薄めたいだけじゃないか……!『一緒に赤信号を渡ろう』とか、小学生の台詞と変わらない……別に私一人くらい死んでもいいだろう……!?ほとんどの人間が、君の仲間なんだから」

 気付けば時は夕刻を過ぎようとしていて、影の領域は広がり、境界線は僕の足元まで来ていた。

「違う、僕は、君だから、親友の君と一緒じゃなきゃ……」

「本当に、私の親友を名乗るなら……」

 彼が台詞を言い終わる前に、太陽が完全に沈んだ。

 部屋に境界線はなくなり、完全な暗闇が部屋に訪れた。死が、体を包む感覚がする。心臓以外の全て一瞬で動かなくなって、その心臓すらも、静かに動かなくなっていくような錯覚。冷や汗が止まらなくなる。冷たい。何もかもが冷たい。体は凍ったりしない。けれど、それよりも寒い。

 が現れる。

 怖い。嫌だ。死んでしまう。

 僕は、その場から一目散に逃げ出した。彼を見捨てて、倫理を投げ出して。彼が死ぬのなら、僕が生きていていい理由はないのではなかったのか。ならば、逃げ出すことは無意味な事ではないのか。

 死に直面した僕は、あまりに生に素直だった。今まで彼にしてきたの全てが矛盾だらけになって、音を立てて瓦解していくのを感じた。

 部屋を出る瞬間彼が、『それでいい』と言った気がした。

 どんな意味だったのか、そもそも本当に言ったのか。今も定かではない。



・・・



 彼が扉を開けっぱなしにしたまま、外へと逃げて行った。一人きりになった後、私は扉を閉めた。

 部屋がもう一度暗闇に包まれると、が完全に現れ、床の縄と重なった。途端、縄が今までとは比べ物にならないほどのオーラをまとった。

 静かに待つ。私は、どんな殺され方をするのだろう。

 彼女が、ずるりと体を引き摺ってこちらを向いた。縄の先の輪になった部分から歯と舌が生えて、喋った。

「……こんばんは」

「こんばんは」

 何故、挨拶を?そんな疑問を抱えながら、彼女の挨拶に応える。

「少し、話がしたいの。いいかしら」

 縄が唇の役割を果たして、私と彼女の間にある空気を震わせた。

「あなたは、どうして逃げないの?」

「あなたに、殺されたいからです。私は今まで色んな動物を殺して来ました。豚とか、牛とか。今度は私が殺される事で、その罪を償いたいのです」

「……いいの?あたし、別に生きるためにあなたを殺すわけじゃないのよ?もう死んでいるし。……あたしは、とにかく生きてる人間が憎くて殺すの」

「それでもいいです。私も、生きるためだけに食べていたわけじゃない。どんな理由で殺されても、構いません」

「へぇー……。あなたみたいな考えの人、初めて見たわ」

 彼女がぶつぶつと呟き、思案を始めた。

「そうよね……あたし達みーんな、豚さん殺して生きてきたのよね……」

 それが終わった後、私に、ねぇ。と話しかけた。

「あたしが豚を食べる事と、あいつがあたしを殺した事。そこに何の違いがあると思う?あたしがここに来た人間を殺してきた事と、何が違う?同じだとしたら、一体、あたしは何のために、何の権利があって、そんな事を……」

 彼女が問い詰める、それは私に対してではなく、彼女自身への問いかけに聞こえた。

「ちょっ、ちょっと待ってください」

「……何?」

「……『あいつ』って、誰ですか?あなたは、自殺したんじゃないんですか?」

 彼女が、一瞬固まった。

「そっか。自殺した事になってるんだ」

 馬鹿らしい。と、彼女は、吐いて捨てた。

「じゃあ、あいつ娑婆しゃばでのうのうと暮らしてんだ。……多分、ここに幽霊が居るってことも知らないんだろうな。本当に何であたし、こんな事してんだろう」

 その問いかけは、答えを期待していないようだった。

「ただただ、閻魔えんま様に怒られそうな事増やして……もっと早く、あなたに会えていれば、こんな下らない事を重ねたりしなかったのかな……ああ馬鹿らしい。もうやーめた」

「なっ……」

 私にとって、その宣言はとても不都合だ。彼女に殺してもらえないなら、私は誰に殺されればいい?

「そんなに殺されたいなら、何かやらかして死刑にでもなればいいよ」

「それじゃあ意味がないんです!私より、人類より上位のあなたに殺されなければ!」

「……そんなに、変わんないよ。あたしも、あなたも。あいつも、人類も……豚さんも。皆等しい命だよ。……知ってる?幽霊でも、自殺できるんだよ?」

 いつの間にか、縄は砂になっていた。

 冷気もオーラも消え、部屋はただの暗闇になった。

 朝になって光が差し、残った砂さえ消えてしまうまで、私は黙ってずっとそれを見ていた。



・・・



 次の日、彼の部屋へ訪れると、彼は生きていた。床の、あの縄が落ちていたであろう場所を、じっと見つめていた。

 どうして。とは聞かなかった。いや、聞けなかった。あの時、彼を理解することなく、大した覚悟もなく、彼を見捨ててしまった僕が、聞いてよい事ではないと思ったのだ。もう、僕は彼の親友を名乗る事はできない。許されない。

 もう絶対、僕は彼と食べ物の話はしない。ことこの倫理に関しての決別は、あの時より強固で、大きな物となった。

 ただ、それ以外はきっと何も変わらない。僕らはある一点で決別を果たしたまま、理解し合える点だけ尊重しながら、この関係を続けていく。親友ではない友達とは、そういう物だ。

 彼も、自分自身が考える罪に、納得の行く答えを持てないまま、今さら生活態度を変える事もなく今まで通り生きていくのだろう。


『今まで散々食べて来たんだ。今更やめても一緒だよ』


 考える事を辞めず、開き直る事もしない。そんな不器用な生き方で日々を繰り返すのだろう。


 今日も二人でトンカツ定食を食べに行く。

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