飴と傘

木元宗

飴と傘


 ころころころ。


 辛い時はそうやって、飴を舐めて気を紛らわしていた。じんわりと広がる甘さが、ささくれ立った心を、丸くしてくれるような気になって。


 いつしかそれは癖になって、私にとって飴とは精神安定剤のようなものにもなって、それは気を落ち着かせる為のとっておきの手段であり、心を守る、最後の防衛ラインにもなっていた。


 つまり、私が飴を舐めている時とは、実は非常にピンチであり、不機嫌であったりする。


 だから丁寧に頭を下げた後、学長室を出て、それはゆっくりとドアを閉め、学長室に足音が響かないだろう距離まで平静を装った足取りで廊下を行くと、その聞こえなくなるだろう距離までを数える為の頭のカウントダウンがゼロになったら、何の遠慮も無く床を踏み付けるように歩き出し、廊下を抜けた先に見える食堂に入って、それは乱暴に奥のテーブルに着いた。


 昼休みを終え、講義中でがらんとした食堂内に、がたんと行儀の悪い音が響く。


 小さく舌打ちをしながら、前傾姿勢になりつつテーブルに肘を滑らせた右手で、前髪を掻き上げた。「女の子が舌打ちなんて」と、何やら世間体を気にしたような声が頭に響くが、今はそれ所じゃないと無視する。


 座る際に叩き付けるように正面へ置いた、左肩から提げていたトートバッグが目に映るが、それさえも鬱陶しい。左手は黒いジーンズのポケットを既に探っていて、かなり甘いミルクキャンディーの包みを取り出すと、両手で封を切り、丸くて白いそれを口に放り込んだ。苛立ちを薄めて引き延ばすように、噛み潰してやりたい気持ちをぐっと堪え、忙しなく舌で転がす。


 すぐにじんわりと濃厚な甘さが広がって、興奮の余り無呼吸に近くなっていて、たっぷり肺に溜まっていた空気を吐き出した。いきり立っていた肩も自然に落ちる。そのままずるずると、背凭れに体重を預けながら、だらしなく足を前へ伸ばした。やや底が厚いショートのイギリスブーツが、ごつんと前の椅子にぶつかる。だらしないが構わない。誰も座ってないんだし。腹の上で両手を組んで、ぼんやりと飴を転がした。四方八方ウニのように尖って、熱を帯びていた心が、ゆっくりと冷えて、丸くなっていく。


 飴を舐めるのは、今日だけでもう四回目だ。


 喫煙者で言う所の、煙草みたいだな。


 何となくそう思う。まあ吸わないので分からないが。


 窓の向こうからしとしとと降り続く、雨の音が聞こえてくる。そう言えばさっきから降り出したなと、だらっと窓の方へ首を回した。


「……傘、持って来てないな」

「売店はもう売り切れてたぞ」


 急にテーブルを挟んだ先から声がして、窓の方を向いたまま、目が丸くなった。目だけをそちらへ向けると、インディゴのジーンズにグレーのパーカーを着た、身長は並だが線が太い、リュックを背負った坊主頭の青年が立っている。大崎おおさきだ。同期の同学科三年生。


 私は大崎へ一瞥を投げ終えると、窓へ目を戻す。


「あーし。どけろよー」


 大崎が、精悍な顔付きに似合わないにやけ面で言うので、伸ばしていた足を曲げた。


 もう平熱に戻っていた心が、また僅かに熱を帯びる。


「サボりとは珍しいじゃねえか。雨はその所為か?」

「そっちこそ」


 変えたのは足を曲げただけの姿勢で、雨を眺めながら返す。


 お互い普段は、この時間には会わない。講義の筈だ。そもそもこいつを待ってやる事なんて、滅多にしないが。


 雨について触れないのは、今週からこの辺りは梅雨入りすると、今朝のニュースで知っていたから。もう六月の二週目である。私が何をしようとしまいと、いずれやって来たものだ。そんなもの軽口とは言わない。


「俺は重大な用件があったからサボったのさ」

「ふうん」

なにせ香川ちゃんが、『ゆうが朝から怖い顔で歩いてて声かけられなかった~』って言ってたからな」


 香川という共通の友人の名を挙げられたのと、その友人の似てない声真似で名前を呼ばれたので、ついっともう一度目を向ける。


 声も男らしいくせに女の声を出そうとするから気持ち悪くて、何だよそれはって思ったけれど、スポーツタイプの赤い腕時計を巻いた左腕で、頬杖をついていた大崎の表情は思いの外真剣で、どう反応を返せばいいのか、ちょっと困った。


 何となく、またゆっくりと窓の方を見て、飴をころころやりながら言葉を返す。


蜷川にながわの単位の事で、学長に直談判しに行ったんだ」


 蜷川も、私と大崎の共通の友人である。


「あいつ去年から、ストレスで体調崩して休学中じゃん。家の事情で。何か親が、離婚するとかしないとかで揉めてて、親権はどっちが取るかで泥沼になってるとか。それで神経が参っちゃって。あいつも変に頑張り過ぎる所があるから、ギリギリまで大学には来てたみたいだけれど、とうとう寝込んじゃって。今は大学の側で下宿してるから、家族と顔合わせなくてまだ楽だけれど、休学届を出すのが体調を崩したから遅れちゃって、暫くただの欠席扱いになってたんだ。まあ、何とか調子のいい日を見つけて、病院に診て貰って、診断書と一緒に届けは出したんだけどさ、休学とそれまでの成績って別じゃん。だから、診断書を出すまでの無断欠席になってた分の講義の出席日数が足りなくて、落としちゃったんだ。でも、病気になるぐらいの強いストレスに晒されてて、下宿してるから面倒を見てくれる人もいない状態だったから、何とか考慮してくれないかって、あいつも大学に頼んだんだけれど、駄目だったみたいで。無理して通って来た分のツケかな。休学届を出せるようになるまで、かなりの期間を休んじゃってたから、幾ら何でも考慮出来る範囲を、超えちゃったから駄目だって。それを久々に連絡して来た蜷川本人から昨日聞いて、気に入らないんで学長に文句言ってきた。まあ、もう六月だし、去年の成績について今更どう言ったって、しょうがないんだけどさ」

「蜷川ちゃん、元気してんの?」


 大崎は頬杖をついたまま、敢えて軽い調子で訊いた。


 どうやら蜷川はこの話を、まだ私にしかしていないらしい。昨日久々に連絡を貰った時、「大学の友達と話すの久し振りだあ」って、ちょっと疲れを感じるけれど、でも以前よりは明るくなった声で笑っていた。


 両親はまだ離婚について協議中だが、蜷川の心配をしているのはお互い同じ思いらしい。距離を取る為にも下宿の為の費用は、二人で払い続けている。母親が蜷川の下宿先に通って、面倒を見ていたとか。最近はよくなってきて、久々に大学の人間とコミュニケーションでも取ろうと、私の携帯に電話をかけてきたらしい。話せるぐらいにはよくなったと、伝える為に。周りとしては突然長期に渡る無断欠席の末に、休学届を出して姿を消されたので、何かあったのだろうと、迂闊に連絡出来なくてもやもやしていたが。家の事情も、蜷川は近しい友人には話していたので、余計に皆手を出し辛く感じて。


 私もその一人で去年の冬辺りからもやもやし続けていたが、昨日やっと事情を聞き、腹が立って学長の部屋に乗り込んだ次第である。面倒なので事務を通さず、いきなり学長室のドアを開けてみたら、偶然在室していたのでそのまま。今更同じと言うべきか、やっぱり駄目だった。


 そう話すと大崎は、呆れ顔で言った。


「強引っつか、無茶し過ぎ」

「事務なんてお役所仕事でトロい。絶対にまずは大事にしまいと、その対応した事務員に通されて、その次は事務長、それでやっと学長じゃん。同じ説明何回もしたくない」

「急に入るなって怒られただろ」

「いつ死んでもおかしくないようなじいさんだったから、別に怖くもなんともなかった」

「そういう問題じゃねえんだよ……」


 はあ、と、がっくりと項垂れる大崎。何で何もしてないお前が落ち込んでるんだか。


 大学の対応に対する苛立ちを誤魔化そうと、昨日の夜からかなりの数を舐めているが、転がしていた飴はもう、すっかり溶けてしまっていた。


「俺はなあ、お前を心配してるんだぞ」

「薄情な奴。蜷川は心配じゃないんだ」

「ちげーわ馬鹿。香川ちゃんにお前がすげーイラついてたって聞いて探してみたら、まさか蜷川ちゃんの話が出て来るとは思ってなかっただけだよ。事情を知った今なら、蜷川ちゃんだって心配だ」

「それが何で私の心配に繋がる訳」

「はあ? お前ホンットにぶいよな――。心のアンテナが故障してるかもしんねえぞ」

「心は電波なんて受信しない。機械じゃあるまいし。ほら、よっぽど人間らしい」

「うっせえ馬鹿。分かんねえなら教えてやる」


 めんどくさいので返事はしないし、最初から目も向けてない。


「俺も、香川ちゃんもな。お前を心配してんだよ。そのお前がイラついてた理由が分かったから、当然蜷川ちゃんも心配だけどな。でも、久し振りに蜷川ちゃんの様子が知れて、安心もした。ここは一旦オーケーだ。お前はまだ駄目だ。お前はきっと暫く、蜷川ちゃんについて悶々と悩む筈だ。その成績の扱い方について、不満がいっぱいなんだからな」

「イラつくだけ。別に悩んでない」

「それは悩んでるとも言うんだよ。だからそのイライラは、どっかで解消しなくちゃならねえ。蜷川ちゃんがお前に一番に電話して、話を聞いて貰ったようにな」

「……私は別に」

「うっせえ」


 「いい」と言う前に、大崎はばっさりと遮った。


「じゃあお前、そのさっき学長に直談判しに行ったって言ってけれど、蜷川ちゃんに頼まれたから行ったのか?」

「は? 頼まれないとそんな気も利かないなんて、友達じゃないじゃん」

「だから俺も頼まれてねえのに言ってんじゃん」


 思わず大崎の方を向いて発した声に返された言葉で、雨の音も意識から消えたぐらい、辺りが一瞬無音になる。


 そうか。そう言われれば確かに、筋が通っている。


 だらしないままの姿勢で固まった私に、大崎は言った。


「バーカ」

「煩い」

「特大ブーメラン」

「違うわ」

「一級フラグ建築士」


 蹴り付けられた脚の痛みに大崎は、「んっふう!?」と悶絶する。


 それでもまだ足りないと、何だか私はムキになって、窓の方を見ながら言った。


「……そうだったとしても、何をしてやればいいのかなんて、分からない。私だって、蜷川の為に何とかしてやりたいって思ったけれど、これが本当に正しかったのかなんて、分からないし。それにそもそも、心なんて見えないんだから、私に対しても何が正解かなんて、お前だって分からないじゃん」

「そういう時は、一緒にいてやればいいんだよ。理解出来なくても、そういう事があったんだなって時間とか出来事を共有して、受け入れられればそれでいいんだ」

「私今お前のせいで不機嫌だけど」

「へえ? そんなにイラついてる原因の話をしたのに新しい飴舐めなくなってるし、口数もすっかり多くなってんのに?」

「…………」


 声をかけられなかった、つまり今日はまだ、一言も話をしていないのに、どうして香川は私の姿を見ただけで不機嫌なのかを見抜けたのは、私の飴を舐める癖を知っているから。大崎も当然知ってる。蜷川も知ってる。


 でもそれでも、何だか負けた気分になるのはどうしても嫌で、私はもう意地になって、次の講義も受けないで帰ってやると、トートバッグを肩に提げながら立ち上がる。


「ふん。じゃあ、今お前の所為で荒れてる私の心には、どう対応するつもりなんだ。蜷川の件についてはもう、お前と話したから解消された。だから今お前にイラついてる分は、まだ解消されてない」

「この傘のように、その苛立ちを分け合えばいいのさあ」


 大崎は、分かっていたように立ち上がるとリュックを背負い、芝居がかった口調で言いながらサイドポケットに手を回すと、折り畳み傘を出してみせた。


「傘。忘れたんだろ?」

「…………」


 完全敗北を自ら引き出してしまった私は、もうぐうの音も出なくて、完璧に黙り込む。


 「拗ねんなよー」とにやにやして、大崎は私の手を引くと、そのままテーブルを挟んで手を掴まれたまま、食堂を後にした。私はもうサボるけれどと言ったら、「俺もサボる」と大崎は当たり前のように言って、玄関の前で立ち止まる。


 大崎が開いた折り畳み傘に入ると、大学前のバス停まで歩き出した。雨はしとしとと降っていて、何だか悪くない雰囲気だった。


 そんな風に思えるようになれている時点で、確かにこいつの言う通りなのかもしれない。それなら最初から、私はとっくに、こいつに救われている事になるのだけれど。声をかけられて、相手がお前だと分かったその時には、もう平熱に戻っていた筈の心がまた、熱を帯びたんだから。じんわりと、ほっと安心するような、柔らかい温かさに。


 まあそんな事、絶対に言ってやらないけれど。


「――明日、蜷川の家に行くんだ。お前も来い。あと相合傘なんて狭い。髪が濡れる」



 言わない代わりに誘ってやると、傘の中に身を入れるように、どすっと肩で大崎をどついた。



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