野樂一華

古暮美月

第1話 路地裏

 裸電球に一羽の蛾が止まる。耳障りな音を立て、親の無い蛾がまた一羽、死んだ。

 少女は――、百合乃は月明かりに照らされた路地裏を歩いていた。肩から下げた鞄には養父が彼女に買い与えた画材が詰まっている。百合乃は、絵の具が漏れていやしないか意識の片隅で心配していた。

「酷いにおいだわ、それに、羽虫が邪魔ね」

 手で蠅を払いながら、溜息を吐く。道端には小便を垂れ流して眠っている老人や、薬漬けの女の死体が転がっていた。蠅が湧き、死体を蛆が食らっている。

 脳裏に焼き付いたそれを振り払う様に足を早める。

 瞬間、徐に何者かが百合乃の足首を掴んだ。小さく悲鳴を上げる。足元から呻き声が上がり、百合乃は身を守る様に鞄を胸に抱いた。

「お嬢さん……、水、水を持っていないかい」

 声の主は、老いた男であった。油汚れのような汗を流し倒れており、口元には吐瀉物が乾燥しこびりついている。

「ありますわ。少し、お待ちになって」

 鞄から水筒を取り出す。養父から十三歳の誕生日に贈られたもので、赤いギンガムチェック柄だ。中には、氷と水出しの紅茶を入れてある。

 蓋を開け紅茶を注ぎ、老人の口元へ運ぶ。老人は嬉嬉として一気に飲み干した。

「ああ……、生き返った。ありがとう、ありがとう」

「いいえ、お役に立てて良かったわ。……そうだ、この水筒は貴方に差し上げます。私には、もう必要の無いものだから」

 百合乃が老人に水筒を渡すと、老人は驚き、恐縮した。

「お嬢さん、本当にいいのかい」

「わたしは『野樂一華』へ向かっているの。もうすぐそこだから、必要ないわ」

 老人は、少女の口から出たその言葉を聞き、耳を疑った。

「優しいお嬢さん、悪いこと言わないから、今すぐお家にお帰りなさい。あそこは、お嬢さんのような人間が行く場所ではないよ……」

 老人は、顔を青ざめさせる。これから少女が遭うであろう惨劇を想像していた。

「一体、どんな場所なの?」

 百合乃は首を傾げる。老人は口にしたくもなさそうな様子であったが、恩人の少女の問いには答える義務がある……という一心で、重い唇を動かした。

「――あそこは、化け物が巣くっているんだよ」

「だって、見世物小屋なのでしょう? 化け物のひとりやふたり、居るものよ」

「ああ、全くその通りだが……。あそこに立ち入った者は皆、人間が変わってしまう。看板娘の、一華という女を狂信し始め、奇妙な言葉をブツブツ唱えるようになり、ついには姿を消してしまうんだ……」

 震える指先を噛みながら、老人は語った。その声は恐れと共に怒気を孕んでおり、百合乃は老人の身内がその被害者の一人であることを推察した。

「だとしても、私は行くわ。行かねばならないのよ」

「何だって、行かなければならないんだ」

百合乃は老人の忠告をものともせず、無邪気に笑った。


「わたし、残酷画絵師なの。だから、見世物小屋の『野樂一華』で殺人演劇をスケッチしたいのよ!」

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野樂一華 古暮美月 @gureusagi11

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