ブルーラグーンの約束

かさごさか

夢現の狭間で


 夏の夕暮れはどこか寂しさを感じさせる。


 目の前の原稿用紙にはその一文だけが書かれてあった。机に向かい、何時間経ったのだろう。外は夜を深め、虫の鳴く声すら聞こえない。私はペンを置き、窓を閉めた。

 時計の針は頂点に近い。凝り固まった肩を気休め程度に揉み解し、立ち上がり膝を鳴らす。パチパチと小気味の良い音が関節から響いてくる。

 そうだ、と私は財布から抜き出した少しのお金を片手に外に出た。この時間帯だ。この町が自分だけのものになったような錯覚に陥る。これで、着物を着て下駄を履いていれば、すっかり文豪気取りだ。だが、今の私はそんな時代錯誤な恰好ではない。Tシャツにスウェット、ホームセンターで安売りしていたサンダルを引き摺って歩いている。靴底を地面と擦って歩く癖はなかなか治りそうにない。

 無人の交差点で、信号機が色を入れ替えた。赤信号を左に曲がる。信号機に見下されるのは意外と悪い気はしない。いや、私は何を考えているのか。人目を気にしなくていいことに甘んじて思考回路がおかしくなったようだ。

 真昼の気温からは想像もつかない程の冷たい風が肌を粟立てる。暫く歩くと、もう少し行った先に点滅している街灯と同じく断続的に光る看板が見えた。

 

「BAR エニラマ」


 塗装が剥がれかけている金のドアノブを倒しながら、軋む扉をそっと開けた。店内の温い空気が私に纏わりつく。思っていたより体が冷えていたようだ。

 カウンターの奥では、一人の初老の男性がグラスを磨いていた。私は彼の名前を知らない。聞き出そうとしたことは何度かあった。でも、その度に言葉が喉につっかえて流し込んでしまう。私も彼に名前を教えていないのだから、まぁ、無理に教えてもらわなくても会話に支障は出ないし、このままでもいいだろう。

 奥から三番目のカウンター席に座る。そこが私の定位置である。耳をすませば、微かに音楽が聞こえる。音楽に疎い私はこれがどんなジャンルなのかはわからないが、店の雰囲気に合った落ち着いた曲だ。

 私が席に着くと彼は決まってカクテルを出してくる。鮮やかな手つきで、無色透明のグラスが極彩色に変わる様子はまさに芸術。

「どうぞ」

 差し出されたグラスは青かった。南国の海のように透き通った青がいかにも夏らしい。彼いわく、ブルーラグーンという名前のカクテルらしい。レモンの酸味がさっぱりとした味わいにしてくれる。一口飲んでは彼に話しかけ、どうでもいいことをダラダラと垂れ流す。アルコール度数が高い酒なのか、半分ほど飲んだところで気分が高揚してきた。恐らく、呂律も回っていないだろう。それでも彼は静かに私の話を聞いていた。時々、相槌を打ちながら叶うはずのない私の夢物語を聞いていた。この時、彼がどんな表情かおをしていたか正直よく憶えていない。だが、私の書く物語がいつか評価された暁にはとっておきのメニューを用意していると約束した声はあまり楽しそうではなかった。こんな酔っ払いの相手をしているのだから楽しくないのは当たり前だが。

 遠くで犬の遠吠えがした。そろそろ帰る頃合いだ。彼に持ってきていた小銭を支払う。十円のお釣りをもらった。店を出る際に私は彼に先ほどの夢物語の続きというわけでもないが、もし、作家として成功したなら、何かお礼がしたい、とすっかり動きが鈍くなった舌で伝えた。上手く言えたかどうかは別として、彼の返事をろくに聞かないまま私は家路についた。

 東の空が白くなりつつあった。


 店にとってたった一人の客である、作家志望の男から唐突に告げられた提案。いつ実現するかわからないその提案に小さな声で返事をしてみた。たぶん男は自分の声など聞いてはいないだろう。それでもいい。

いつか、男が自分に名前を付けてくれる日を信じて、今日も町が寝静まった頃にそっと看板に灯りをともす。


たった一人、この世界を、自分を創ってくれた人のためだけに開かれるBARエニマラ。店の名に恥じぬよう群青色のタイを身に着け、名も無き店主は今日も彼を待つ。

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ブルーラグーンの約束 かさごさか @kasago210

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