第10話 美咲と葵
「えっ、小松崎マジで?」
「う、うん……。優里、知ってた?」
悠人の驚きを隠せない顔に、七菜が赤くなって
「知ってたよ。高橋目立つし」
そんな七菜に優里がにべもなく答えると、七菜は軽い衝撃を受けた。
「うわぁ、あいつのこと知らない女、初めて見たわ。貴重だな! さすが小松崎」
「ウケるわー」と笑いながら悠人が言うと、
「七菜はそういうの、ホント疎いから」
珍しく優里も悠人に同調している。七菜はもう小さくなるしかない。
翌週、次の語学の講義に向かう七菜たちに、悠人から声を掛けられて歩いていた廊下での一場面。何気なく七菜が発した「そう言えば松田くんも一緒だったね」の一言に「蒼一もな」と悠人が返したことから端を発する。
二人の反応に、これを知った蒼一はやはり多少なりとも傷付くのだろうかと、七菜は申し訳ない気持ちでいっぱいになり下を向いた。
「つまり小松崎は俺のことが好きなんだろ?」
「ええっ、何でっ?」
「は? 松田、頭大丈夫?」
落ち込む間もなく発された悠人の突拍子もない一言に、驚いて否定した七菜と、冷静に批判する優里の声が重なる。「吉岡、言い方っ」と優里に突っ込みつつ、悠人が突如、上から片手で七菜の頰を包むように触れ、真剣な顔で見つめてきた。悠人からふわっと良い香りが漂う。
身長差二十センチ強。七菜が見上げると、悠人の緩くウェーブする前髪の向こうから、力強い光を宿す瞳が覗く。
「素直になれよ、小松崎。ほら、俺のこと、もっと夢中にさせてやるか……いってー!」
熱っぽい目で言い終わる前に悠人が足を押さえて叫び、七菜は放心したように固まった。
「七菜から離れないと殴るから」
「吉岡、その前に蹴ってる!」
「七菜、こういう男が寄って来たらすぐ私に言って。松田の場合は特に」
周囲から悠人と優里に向け女子の悲鳴と男子の歓声が上がる中、優里の声で正気に戻った七菜が自分を庇うようにして立つ優里の後ろで状況を整理する。
先週のランチ以来、七菜たちは何だかんだ悠人とよく一緒にいるようになった。優里は露骨に態度に出した後は最終的に諦めているけど、毎回押し切ってくる悠人のメンタルも見倣いたい。
「あっ、そっかぁ、今のも笑うとこだったんだ! ごめんね、松田くん。私また気付かなくて」
「……小松崎。笑うとこじゃねーし、そこで謝んなっ」
「えっ、違うの?」
「いや、七菜。合ってるよ」
「ちげーよ! つか、吉岡笑うな!」
今度は、悠人と優里に挟まれて何やら楽しそうな七菜を、周囲の学生たちが羨ましく見つめる。「あの子、誰?」と噂しながら。
形は違えど、これも最近よく見る光景だ。
しかしこの日、そんな七菜を負の感情で見つめる二人がいたことに、この時の七菜はまだ気付いていなかった。
「蒼一!」
目的の講義室に着くなり、悠人が蒼一の名を呼び一点を目指して駆け寄った。
悠人と優里が講義室に現れただけで、その場が色めき立つ。掛けられる声に自信たっぷりの顔で応じる悠人と、意に介さない優里。向けられる羨望の目は同じなのに、反応は正反対だ。
悠人はいつもの人だかりまで着くと当然のように中に入って行く。と言うより、悠人が行くと自然と蒼一までの道が開いたように見えた。相変わらずその中心で、すでに別の学生と会話をしていた蒼一の都合はお構いなしのようだ。
「悠人、何?」
悠人の声に、蒼一がそれまで会話していた相手に一言謝ってから笑顔で聞き返した。その自然な気遣いも、振る舞いも、全部に優しさが込められているように感じ、悠人を追って蒼一を見つけた七菜は眩しく思う。
「小松崎が俺に気があるって認めねー」
真顔で言ってのける悠人に、蒼一の顔が一瞬、表情を失ったような気もするが七菜には分からなかった。おそらく、その場にいた誰もが悠人の発言に注目し気付かなかっただろう。
「なぁ、小松崎?」と悠人が振り返ると、そこに七菜の姿は無かった。七菜は離れた場所で再び固まり、優里の顔には呆れの色が浮かぶ。
悠人は周囲を見回し七菜を見つけると、当然のように七菜を呼んだ。
「小松崎、何やってんの? 早くこっち来いって」
「松田くん、その話はもう止めて!」
先程悠人の通った学生たちの間を、今度は七菜が赤い顔で急いで通り抜ける。
「照れんなって。小松崎の気持ちはちゃんと分かってるし」
「全然分かってないよ! 高橋くんに変なことばっかり言わないで」
先週から七菜は、蒼一に対し悠人に何一つ良いことを言われていない気がする。自分は蒼一の良いところしか知らないのに。
「だって小松崎、蒼一のこと知らなかったんだろ? 俺が好きだから」
「違うよっ」
悠人のこの前向きな思考力はいったいどこから来るのだろう。全力で否定しながら七菜は何だか泣きたくなってくる。笑うところじゃなければ、勘違いもいいところだ。
悠人とは初めて受けた講義の日にたまたま席が近くて、悠人から話し掛けられて知り合っただけなのに。そうでなければ同じ学部とはいえ、やはり蒼一と同じように今も知らずにいたかもしれない。
「はいはい。だから照れんなって」
笑いながら七菜の頭を撫でる悠人が、そこでふと動きを止めた。
「あれ? でもそんなんでよく蒼一と友だちになれたな」
「それは高橋くんが……」
悠人の手を頭から引き離しつつ七菜が質問に答えようとした時、七菜に被せるように蒼一の声が響いた。
「秘密。悠人には秘密だよ。ね、小松崎さん?」
「えっ? う、うん……」
「はっ? 何だよ、それ」
不満顔の悠人に、蒼一が秘密と言うなら七菜もそれに従うことにする。少し告白っぽい言い方になっちゃったのが恥ずかしいのかなと、七菜はあの日のことを思い出した。
自分も勘違いしちゃったし、気持ちはすごくよく分かる、と。
「それより悠人、公の場での不用意な発言には気を付けようね。小松崎さん困ってるから」
「何、不用意な発言て。俺は事実を……」
友だちについてのそれ以上の質問には触れず、代わりに蒼一が笑顔で悠人を咎め始めた。七菜が驚いて蒼一を見ると、心なしかその目が笑っていないような気がする。
「根拠のない悠人の一方的な思い込みで誤解されたら、小松崎さんが可哀想だよ。悠人はもっと可哀想だし」
「は? 何で俺が」
気のせいかなと思い直した七菜が蒼一に同意して頷くと、蒼一は笑顔で続ける。
「え? じゃあ悠人は、小松崎さんが悠人に気があるって本気で思ってるの? 俺はそう思ったことないし、小松崎さんも全力で否定してるのに」
「蒼一……?」
何となく蒼一の言い方に不穏なものを感じたのか、悠人が窺うように蒼一の名を呼ぶ。しかし蒼一は、さらに笑顔で続ける。
「俺と本人の言葉だけじゃ足りないのなら、それが事実かどうか小松崎さんをよく知る吉岡さんにも聞いてみようか。その結果、悠人がものすごく恥ずかしい勘違いをしてたって知られたら可哀想だと思ったんだけど、仕方ないよね。小松崎さん、吉岡さん、悠人の為にももう一回はっきり違うって……」
「わーっ、もういいって! 何、蒼一? 何か今日、こえーんだけど」
悠人が慌てて蒼一を止めた後、近くにいた男子学生の後ろに隠れると、その場が笑いに包まれた。さらに「私はいつでもあり得ないって証言するわよ」と優里が追い打ちをかけると、七菜も思わず笑ってしまう。
そんな七菜に、蒼一が改めて声を掛けた。
「小松崎さん、久し振り。ごめんね、悠人が嫌な思いをさせて」
「あ、ううん。ちょっと恥ずかしかったけど違うって分かってもらえたら大丈夫だよ。ありがとう、高橋くん」
週末を挟んだだけなのに、何故か蒼一の顔を見るのが照れくさくて、そのまま七菜が視線を落とす。
「悠人に悪気は無いと思うけど、後でもう一度言っておくよ」
「あの、松田くんはたぶん、高橋くんに笑って欲しかったんだと思う」
「え? 俺に?」
「うん。さっきね、この話は笑うところだからって優里とも話してたから……」
七菜の答えに蒼一が声に出して笑った。笑われた、と七菜が蒼一を見る。
「それなら悠人に悪いことしたかな。でも、今度からスベる時は、小松崎さんを巻き込まないようにって言っておくね」
いたずらっぽく言う蒼一に、七菜が思わず吹き出す。もしかして、さっきは敢えてみんなの前で言ってくれたのかなと思うと、七菜は何だか嬉しくなった。蒼一はやっぱり悪い人じゃないと確認する度、安心する自分がいる。
「あの、小松崎さん……」
笑う七菜に蒼一が話し掛けたその時。
「悠人、隣いい?」
きつい香水の匂いと共に現れた二人が、甘ったるい声で悠人の前に立った。その匂いに思わず誰もが注目してしまう。いや、匂いだけではないかもしれない。
「
聞くなり、早速悠人の腕を取る二人が持つ本当の感情に七菜が気付くのは、もう、まもなく。
桜の夏 仲咲香里 @naka_saki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。桜の夏の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます