第9話 悠人と君(2)

 ——えっ?


 蒼一は一瞬、何が起こったのか分からなかった。


 勢い余って悠人の横から両腕で口を塞いだ七菜の姿は、一見すると抱き締めているようにも見える。

 今日はサイドで束ねていた七菜の柔らかく巻かれた長い髪が、はらりと悠人の顔に落ち、影を作った。


 今、目の前に、手を伸ばせば自分も触れられるくらい近くに彼女がいるのに、その七菜の腕の中にいるのは悠人だ。


 ——分かってる。小松崎さんは悠人の口を塞ぎたかっただけだ。


 どこか冷静な思考の一部からそんな声が蒼一に届く。どこかずっとずっと遠い場所から。



 蒼一の胸が、ぎゅっときつく締め付けられた。



 できることなら、今すぐ七菜の手を取り、悠人から引き離したい衝動にかられる。

 けれど、衝動のまま行動できるほど、まだ七菜とは親しくなっていないと蒼一は思う。



 自分は彼氏でも無ければ、気軽に触れ合えるような関係でもない。そんな自分に早く離れろだなんて、何の権限があって言えるだろう。



 今日だって、積極的過ぎるかもと思いつつ蒼一は勇気を出して誘ってみた。悠人と一緒なら、七菜も自分も本来の自分でいられる、そう思って。

 悠人からの返信を受けた時は、ここまで走って来るぐらい蒼一の心は浮き足立っていた。そんな蒼一の思いを知る由も無く、悠人は場を和ませてくれていた。蒼一が望むよりもずっと、七菜と近い距離で。


 悠人は以前、普通に話す程度だと言っていたのにと蒼一は思い出す。悠人が七菜と関わってきた時間が自分より多いことも、それを今更変えられないのも理解している。ともすれば、友人以上に見えてしまう二人の行動は、その違いによるものなのだろうか。


 しかし、本当にそれだけなのかと疑いたくなる程に、二人の距離が近いように蒼一には感じられた。


 ——いやでも、これが悠人のデフォルトか。


 そもそも悠人には友人が多く、それこそ彼と知り合ったこの一ヶ月の間に、男女関係なく何人紹介されただろう。その中で、女子に対する悠人の言動を思い出すと確かに大差ないような気もする。


 だとすれば、自分の七菜に対する特別な思いがそう感じさせるのだろうか。いや、本当にそれだけなのか。


 蒼一の思考は堂々巡りに陥る。


 ——小松崎さんの方、は……?


 その考えに至り、蒼一の胸がドクンと苦い音を立てた。


 もやもやする。

 知りたいけれど、聞くのが怖い。

 知って欲しいのに、勝手な自分は知られたくない。


 本当はどういう関係なのか、七菜のことは全部知りたいのに、今の蒼一には何一つ聞けそうにない。


 蒼一は顔を伏せ、自嘲気味に笑った。

 とにかく今は、この状態が一刻も早く動くことをただひたすらに願って。



 **********



 七菜と悠人の様子を、


 ——この二人またやってる……。


 と、呆れて見ていた優里はランチプレートに視線を戻した。七菜の方から抱きついた今、すぐ離れるだろうし、優里が言うことは何もない。

 その途中、向かいに座る蒼一の拳が視界の端に入った。テーブル上に置かれたそれは、ぎゅっと白くなるほど強く握られている。


 何となく気に掛かり、そのまま視線を上げると、もどかしさが滲む表情で二人を見つめる蒼一がいた。共に浮かぶのは切なさだろうか。


 優里は一気に胸を掴まれた。


 その表情を見たのは、きっと一瞬のこと。蒼一はすぐに顔を伏せ、次に上げた時にはおそらくいつもの彼の顔だった。笑顔では無いけれども、拳の力も抜けている。


 時々相手のことを窺う時に見せる懸念の表情以外は、いつも笑顔でいるような蒼一の素の感情を見た気がする。元々、直接話す機会が無ければ笑顔の印象しかなかった。


 ——この人は、本当に七菜のことを想ってる?


 そう、優里は感じた。

 蒼一とまともに話すのはまだ二日目だからそれは優里の直感に近いかもしれない。


 七菜が言っていた。

 告白の後で、蒼一から友だちになって欲しいと言われたと。それが昨日「初めから友だちになろうよって言われたのを、告白って勘違いしちゃった」と、笑いながら。


 ——どこが友だちなのよ。


 優里は七菜の天然ぶりに、今日ほど呆れたことはない。七菜の代わりに謝りたい程に。蒼一のあの顔を見れば、誰だって一目瞭然だろうと。


 これほど強い想いを秘めて蒼一は誰にも悟られないよう、友だちとしての距離を保っていくのだろうか。


 二人の関係に気付くまで、ずっと。


 優里は知っている。

 七菜と悠人には今のところ恋愛感情はないことを。友だち以上に感じるかもしれない行動も、二人にとっては息をするのと同じ位何でもないことなのだと。


 ——まあ、悪いやつでは無さそうだし、少し位ならいいかも。


 優里は何だか、蒼一を救いたい感覚に陥った。少なくとも、七菜が流されて付き合ったような男たちとは違うだろうとも判断した。

 蒼一は、二人に掛ける言葉を探しているようだ。



 「……ぶはっ。小松崎、息できねー!」


 しばらくの間動かなかった悠人が、ふいに七菜の両手首を掴んで口から引き離した。


「あっ、ごめ……」


 七菜が「ごめんね」と言い終わる前に、悠人は七菜の手首を掴んだまま蒼一に向き直り再び笑顔になった。


「小松崎の腹がさ、ぐきゅぅぅぅってすげー音で鳴ってんの! 嘘だろって位大音量で!」


 言い切ると悠人は「マジで蒼一にも聞かせたかったわー!」と今度はお腹を抱えて笑い出した。


「え……えっ?」


 蒼一が面食らった顔をして七菜を見る。


「……松田くん、言わないでって約束したのにー」


 七菜は耳まで真っ赤になってワンピースのスカートを握り締め、涙目で悠人を睨む。

 そこで優里が悠人への怒りを押さえ、言った。


「そんなに仲良いなら、いっそ二人付き合ってみれば?」


 七菜と悠人が同時に優里を見た次の瞬間、


「絶対いやーっっ!」


 と、七菜が全力で否定した。



「……だ、そうだけど?」


 優里が目の前の蒼一に向かって意味有りげに微笑む。


「あ、えっと、そう、だね」


 蒼一は突然のフリに答えに困ったようだ。

 二人の隣では悠人が七菜に両手を合わせて必死に謝り、周囲では「悠人がフラレてるー」と騒ぎが起こっている。


 それら一切を気にすることなく、優里が蒼一に切り出した。


「ごめん、七菜から聞いてるから」


 優里のその一言で蒼一は全てを察したようだった。


「ああ、そうなんだ……。あ、れ、もしかして、顔出てた?」


 蒼一が手の甲で顔の半分を隠しながら優里を上目遣いに見る。その顔は少し赤くなっているようだ。


「私が気付く位には? たぶん、あの二人は気付いてないと思うけど」


「そっか……」


 小さく呟き、さらに下を向く蒼一は今、耳まで赤い。優里がくすりと笑ってから続ける。


「松田には話してないの?」


「ああ、うん。悠人の話を聞くことはあるけど、自分のは……。なんか、話しても騒ぐだけ騒いで邪魔されそうだし」


 視線を外しながら真顔で蒼一が答える。


「ああ、分かる」


 「それ正解」と優里が即答すると、蒼一が顔を上げた。二人の目線が合うと、ふっと笑いが漏れる。


「七菜は私が出会った頃からあんな感じだったよ。男女関係なく、仲良くなったら壁がなくて、距離が近くて。だから松田が特別ってわけじゃない。松田もそういうの気にしないタイプでしょ?」


 優里の言葉に一応安堵した様子の蒼一だったが、それはそれで微妙な表情も浮かべる。


「そう、だね。ありがとう、教えてくれて」


「あくまでも今は、だけどね。昔から勘違いするやつ多かったから。松田とかすぐ調子に乗りそう」


 優里が念を押すと「確かに……」と真剣な顔で言いつつ、蒼一が腕を組んで片手を口元に当て何やら考え込む。その明晰な頭脳で今考えているのが七菜のことかと思うと、優里は少し可笑しくなる。


「でも、最終的には七菜が決めることだから応援はできないけど。もし余計なお世話だったら、ごめん」


「ううん、ありがとう。了解」


 優里と蒼一が再び顔を見合わせて笑ったところに、悠人の声が飛び込んで来た。


「小松崎、大丈夫だって。人間誰だって腹が減れば鳴るってー」


「そういう問題じゃないの! 松田くんも授業中に鳴ってみれば分かるのにー」


 未だ涙目で怒る七菜に、悠人があの手この手で宥めている。


「え? 俺もあるし。小松崎よりもっとすごいの」


「ええっ、ウソ!?」


「ホント、ホント。だから小松崎のなんて可愛いもんだって」


「そう、かな……」


 第三者からすると真偽の程がかなり怪しい軽いノリの悠人の言葉に、七菜が納得しかけていると、


「ふっ。あははっ」


 蒼一が突然笑い出した。


「え? 蒼一?」


 悠人も七菜も、周りに集まっていた学生たちも驚いて蒼一を見る。「高橋くんがあんな風に笑うの初めて見たー。かわいー!」という誰かの声も聞こえる。



「あ、ごめん。笑わないでおこうと思ったんだけど……。小松崎さん、可愛いね?」



 笑い過ぎて涙の滲む蒼一の一言で、悠人は再び吹き出し、七菜は瞬間的に耳まで赤くなった。

 蒼一は思わず発してしまった本心に気付いていないようだ。


 その様子に、優里だけが笑いそうになるのを必死に堪えていた。

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