第8話 悠人と君(1)

「小松崎、吉岡、今から昼飯一緒に行かね?」


 翌日、午前の講義が終わって帰り仕度をしていた七菜たちに、隣に座る悠人がスマホを手にそう声を掛けて来た。


「あ、うん。えーっと……」


 曖昧に答えつつ、七菜が反対隣の優里を見ると悠人も七菜を挟んで優里を窺う。

 七菜たちが悠人にお昼に誘われるのは、今日が初めてのことだった。珍しいなと思いながら、七菜は最終判断を優里に仰ぐ。


「は? 松田と? 何で」


 思ったとおり優里は渋い顔をした。二人が笑顔で話す姿なんて、七菜はこれまで一度も見たことがない。七菜の知る限り特に二人の間に何かあったわけではないのに、優里の方が悠人を嫌厭けんえんしているふしがある。


 これは断る流れかなと七菜が悠人に軽く同情すると、悠人は苦笑してからスマホの液晶画面を証拠と言わんばかりに掲げた。


「俺とって言うか、蒼一から一緒にどうかってライン来た」


 蒼一という名前に七菜の胸が小さく鳴った。何となく体に緊張が走る。


 ——高橋くんと……?


 別に二人きりというわけじゃないのに。

 優里は悠人の言葉を聞くと、表情を和らげ七菜を見た。


「それを先に言ってよ。七菜、行く?」


「うん、いいよ」


 「即答っ?」と声を上げる悠人には悪いけれど優里が行くなら七菜に断る理由は無い。それに、本当は蒼一に対して悪い印象は持っていないし、緊張はするけどもう少し話してみたい気もする。みんなと一緒なら、と七菜は思う。


 ——絵を教える時は、ちょっと楽しかったな。


 結局、あの似顔絵の描かれた紙は後で舞に回収されて、今は額縁入りで舞の部屋に飾られている。小春が「絵も王子と勇者だー」と泣いて喜んでいたけど、七菜にはよく分からなかった。


 そういえば、と七菜は重要なことを思い出す。昨日「松田より断然まとも」と優里が蒼一を褒めていた。あの短時間の間に、優里は蒼一がどんな人か見極めようとしてくれていたんだと思うと、七菜の顔が自然と綻ぶ。


 自分を見つめ一人笑う七菜を見て、優里はいつものことと受け流し、悠人は「蒼一ならいいのかよ……」と、がっくりしながら二人を率いて講義室を出た。




 キャンパス内の学食に着くと、すでに蒼一が席を確保してくれたようでその周りにはやはり人の輪ができていた。輝くような笑顔はそのままに、今日も楽しそうに談笑している。


「わー、高橋くんてどこでもすごい人気なんだねー」


 優里に教えられて蒼一の居場所に気付いた七菜だったが、それでもその光景は何度見ても驚かされる。


「おかげで探す手間が省けて便利だよな」


 一直線に蒼一を目指す悠人の後ろで「そっかぁ」と答える七菜を優里が見る。いくつかある学食の中でもここは比較的新しく、天井が高く開放的で、オシャレなカフェの趣きからSNS映えすると学生たちの間でも一番人気の場所だ。いつも大混雑していて、席を確保するのも友人と落ち合うのにも苦労する。例え七菜が蒼一と待ち合わせても、一生会えそうにないと密かに優里が肩をすくめる。


「蒼一、わりー、待たせた」


 蒼一のいる席まで着くと悠人は当然のように中心に入って行く。すると「あー、松田くんだー」「悠人だー」と、悠人にも次々と声が掛かる。「今日もちょーかっこいいー」という声にさっさと蒼一の隣に座りつつ「あ、そういうのもっと言って」と悠人が笑顔で答えている。

 それもいつもの光景だけれど、ここまでの道中や教育学部の講義室以外で見ると、本当に悠人も有名人だったのだなと七菜は改めて思う。ちなみに優里は微塵も興味がなさそうだ。


 蒼一が集まっていた学生たちに一言断ってから悠人を見ると、みんな名残惜しそうにしつつも笑顔で解散して行った。


「悠人、お疲れ。小松崎さん、吉岡さん、来てくれてありがとう。急だったけど、大丈夫だった?」


 悠人に声を掛けた後、蒼一はわざわざ立ち上がって七菜と優里に笑顔を向けた。


「どうも。お気遣いなく」


「うん。誘ってくれてありがとう」


 端的に返す優里に対し、七菜がまだ少し緊張を含む笑顔でお礼を言うと蒼一が嬉しそうに微笑み返す。しばし二人で微笑み合うと、蒼一のその優しい雰囲気に七菜はいつまでもそうしていられそうな不思議な感覚がする。

「あー、腹減ったー!」という悠人の声が割って入る数秒だったが。




「美味しいねー、優里ー!」


 出来立ての親子丼のセットを前に七菜が幸せ顔で隣の優里を見ると、いつもなら「はいはい」と適当に流す優里も今日は珍しく、


「やっと食べられたしね」


 と、こちらは日替わりランチを前に笑顔で七菜に返す。


「そんなにお腹空いてたんだ?」


 その会話に蒼一がくすくす笑いながら聞くと七菜が顔を赤らめる。蒼一は食べ方も綺麗だ。


「あ、えっと、今日は朝から体育だったから優里につられて頑張ったら、お腹空いちゃって……」


 恥ずかしそうに答える七菜に蒼一はますます笑顔になる。すると、悠人が何かを思い出したようにぶはっと吹き出した。


「まあ、小松崎はそうだろうな」


 意味深に呟く悠人に蒼一がいち早く反応する。


「何、悠人? 何の話?」


 七菜がはっとした。それに悠人が答えるよりも早く、


「松田くん! ちょっと来て!」


 七菜が慌てて席を立ち、目の前に座る悠人の手を取った。「何だよ」と言いつつ、悠人も七菜に手を引かれて席を立つ。

 「いいからっ」と四人が座っていた席から声の届かない位置まで来ると、七菜が悠人の手を握ったまま自分の中では怖い顔で悠人を見上げた。


「松田くん? あのこと、高橋くんには絶っっ対言わないでね!」


 七菜に小声でくぎを差された悠人は再び可笑しそうに吹き出す。


「分ーかってるって!」


 と、七菜の頭をポンポンしながら軽く応じる悠人を、七菜が疑いの眼差しで見つめる。そんな七菜には気にも留めず「それより早く食おうぜー」と、悠人は七菜の背を押し席へと向かう。


 ——わー、全然信用できない。


 笑いながら歩く悠人を横目でじっと見上げる七菜は焦っていた。やっぱり今日は断った方が良かったかもと今更ながら思う。さっきあんなことがあったばかりなのにと。

 席に戻ると蒼一が「大丈夫?」と聞きにくそうに訊ねてきたが、悠人はにやにや顔で七菜を見る。


「あー、大丈夫、大丈夫。な、小松崎?」


「う、うん。ごめんね、大丈夫だよ」


 軽く答える悠人にハラハラしつつも七菜は蒼一に愛想笑いを浮かべたが、蒼一はまだ気になる様子だ。七菜はすぐに話題を変える。


「優里、デザートも付いてるんだ。いいなぁ」


「後で半分こしよっか?」


「えっ、いいの?」


「勿論」


 「優里、大好きー」と歓喜の声を上げる七菜に、さらに悠人が吹き出す。


「すげー食欲。でも今日は仕方ねーよなー」


「……っ、松田くん!」


「松田、そろそろ止めないと怒るよ」


 優里の一言に「あー、はいはい」と答え、カツカレーをかき込む悠人に七菜はずっと気が気でない。


 ——松田くん、言いそう。絶対言いそう!


「あの、何かあったの? ……って、聞かない方がいいのかな?」


 先程から明らかに何かを隠している様子の七菜たちを見て、蒼一が遠慮がちに訊ねる。どことなく悲しそうな表情が浮かぶ蒼一に、七菜の良心が痛まないわけはない。

 自分だって、こんな内緒話みたいなことはしたくない。けれど、これだけは絶対に知られたくないと思う七菜の決意は固い。


「あ、えと……」


 何とかごまかそうとした七菜だったが、元々言いたくて堪らなかったのだろう、悠人が待ってましたとばかりに満面の笑みで口を開いた。


「それがさっき、講義の途中でさー」


「ちょっと、松田くん?」


 七菜がビクリと反応する。


「隣の小松崎の腹がさー」


 七菜がガタガタと音を立てて席を立った。悠人は絶対に言うつもりだと確信して。


「ぐー……」


「松田くん、だめっ!」


 言うなり、机を回り込んで七菜が急いで悠人の口を塞いだ。

 悠人の横から、抱き締めるようにして。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る