第7話 似顔絵(2)
講義終了後、蒼一はすぐに七菜を振り返り、
「小松崎さん、ちょっと待ってて!」
と声を掛けると、急いでどこかへ走って行った。そして、二人組の女子に声を掛け紙を受け取って戻って来る。
——あ、もしかして。
「はい、これ」
そう言って渡してくれたのは、七菜が思ったとおり似顔絵の描かれた紙だった。今は紙面中に、誰が描いたものなのか分からない似顔絵が複数描かれている。
「ありがとう。わざわざごめんね」
七菜が申し訳なさそうに受け取ると、
「ううん、俺の方こそごめん」
と、蒼一こそ申し訳ない顔で謝ってくれる。その真っ直ぐな視線にどう返して良いか分からず、七菜が一度下を向いた。
まだ蒼一と話すのは緊張してしまう。
「蒼一、あの二人が持ってるってよく分かったなー」
そんな二人に構うことなく、次の講義を七菜たちと一緒に行こうと待っていた悠人が声を掛けた。今はこの悠人の自由さが七菜には救いだ。
「返してもらおうと思って一応見てたから」
蒼一が照れながら答えた後で、下を向く七菜を見る。
「あの、小松崎さん。小松崎さんが描いたのどれか、聞いてもいい?」
「えっ? ……うん、いいよ」
蒼一の突然の申し出に、驚いて七菜が顔を上げる。蒼一と目が合うと、やはり緊張する自分がいる。初対面の人に初めは少し緊張するのはいつものことだけれど、こんなに後を引くのは初めてかもしれないと七菜は思う。悠人と初めて話した時でさえ割とすぐに打ち解けたのに。
蒼一は自分と友だちになろうと積極的に話し掛けてくれてるのに、うまく返せない自分に七菜は後ろめたさを感じた。ならばせめて絵を教えるぐらいと、あまり深く考えずに頷いた。
それでも、七菜の答えに蒼一の顔が明るくなった気がする。
「じゃあ、俺も教えるし、せーので指差そうか?」
蒼一が楽しそうに提案すると、七菜も少し心が軽くなってきた。「分かった」と七菜はもう一度頷く。
「あ、じゃあ俺もー」
と悠人も楽しげに寄って来たのを蒼一が手で制し、「何でだよっ」と悠人が抗議するのを見ると、七菜にいつもの笑顔が戻る。
「せーの」
蒼一の掛け声でお互いに指差した絵を見て、
「わー、高橋くんうまーい!」
と、七菜は驚いて感嘆し、
「小松崎さんのは……個性的だね」
蒼一は満面の笑みでフォローする。
——個性的って、褒められたのかな。
真顔でそう考える七菜の心を察したのか、後ろで見守っていた優里が吹き出した。
「えっ、小松崎マジでっ? 個性的っていうか幼稚園児並みじゃん!」
ぎゃははっと、遠慮の一切ない感想を述べてお腹を抱える悠人の腕を、七菜が真っ赤になって掴んだ。そこまでの自由さは求めて無い。
「……松田くん、ひどーい!」
その手を、ちらっと蒼一が見たことに七菜は気付かなかった。薄っすら涙を浮かべて怒る七菜も、苦しそうに笑う悠人も、お互い気にしている様子はない。
「松田、七菜に謝って」
「いやいや、吉岡も笑ってたし」
怒る優里と突っ込む悠人が、笑ってない、笑ってた、と言い合う横で、悠人に触れたまま七菜が頰を膨らませる。じっと悠人を見上げる七菜に、蒼一が一つの絵を指差して、そっと教えてくれた。
「小松崎さん、大丈夫。悠人のこれだから」
不意に耳元で囁く声に、七菜がドキリとして蒼一を振り仰ぐ。笑顔で促されたその絵に悠人から手を離し、七菜が視線を移した。
「え?」
「ね? ある意味、芸術的でしょ?」
楽しそうな声の蒼一と見るその先には、かの有名な絵画の巨匠を彷彿とさせる絵。
「……ホントだ」
同じ感想を抱いた七菜が顔を上げると、目の前には微笑む蒼一がいる。二人は目が合うと、同時にあははっと笑い出した。
「何? どした?」
突然の笑い声に悠人が優里との言い合いを止めて二人を見る。
「ううん、何でも」
可笑しそうに答えた二人の声は、申し合わせたように揃っていた。思わず七菜と蒼一が顔を見合わせる。
黙ったまま視線が合っていたのは、きっと数秒間。
「は? 何だよ二人して」
不満そうに悠人が呟いたところで、
「高橋ー。そろそろ行かないと遅れるぞー」
同じ法学部生の声に、蒼一が「うん、ありがとう」と応じた後、再び七菜に向き直った。
「じゃあ、小松崎さん、またね」
「うん。高橋くん、またね」
七菜の言葉を聞いてから、笑顔で講義室を後にする蒼一を、七菜が手を振って見送る。
振り返り際に、ちらりとその様子を見た蒼一がはにかんだような気もするが、七菜は気付かなかった。
蒼一の後ろ姿を見送る七菜に、
「七菜、私たちも行かないと」
「小松崎、ぼっとしてる場合じゃねーだろ。行くぞ」
「あ、うん」
優里と悠人が声を掛けると、慌てて七菜が二人の後につく。
「……何で松田が一緒に行くことになってんのよ?」
「は? 冷てーな。どーせ一緒なんだからいいだろ。……ホントは一緒に行けて嬉しいくせにー」
「松田って悩みとか無さそうよね」
「あ?」
などという二人のやり取りを上の空で聞きながら、七菜は蒼一のことを考えていた。
——高橋くん、いい人だったな。私の似顔絵のことも、さっきも、気を遣ってくれたのかな。
七菜の手には、蒼一と並んで描かれた似顔絵の紙。もう一度それを眺めると、仲良くなれそうかもという予感に笑みが浮かぶ。
七菜はあれほど緊張していたのが嘘のように、今はほっとした気持ちでいた。
**********
法学部本館へと続く道を友人と歩きながら、蒼一は目の前で笑う七菜のことを思い出していた。
そこにまるで、春の花が咲いたかのような明るい笑顔を見せてくれた七菜のことを。
共有したのはおそらく三十分程。
その中で奮った勇気も、感じた緊張感も、少しの嫉妬も、今は高揚感と幸福感に取って代わった。
そんな昨日まで無かった、きっと周りからすれば小さくて、自分にとっては大きな変化に蒼一がどんなに心踊らせたか、七菜には伝わっているだろうか。
自分の第一印象がどんなものであったかは分からないけれど、少しでもポジティブに捉えられてるといいと、蒼一は願う。
自分が今、感じているように。
——今日は一日、全てに優しくなれる気がする。
どこにも答えの載っていない、絶対に聞くことのできない問いに、蒼一は七菜の表情や仕草から感じ取るしかない。
君はどう思ったかな。
あの振ってくれた手には、どんな意味が込められていたのかな。
答えの無い問いは、増えていくばかりだ。
それでも、これから君と過ごせる九十分間は、どんな形であれきっと輝くような気がする、と。
「高橋、珍しくなんか今日、浮かれてる?」
「えっ?」
突然掛けられた隣の友人からの一声に、蒼一が密かに自分を顧みる。そんなに分かり易く表に出ていたのかと思うと、顔が熱くなりそうで慌てて言葉を繋いだ。
「ああ。……悠人の絵が、ちょっと破滅的で衝撃を受けて」
急場にしては、良い言い訳を思い付いた気がする。悠人に触れる七菜を見た時、蒼一が少しだけ悠人に意地悪したくなったのは事実だ。自分でも、子どもみたいだとは思うけれど。
「……高橋って、松田にはちょいちょい毒舌吐くよな。気持ちは分かるけど」
「そんなことないよ。ああ見えて悠人は、すごくいいやつだから」
悠人の為にも、勿論フォローは忘れない。いつもより熱を入れた分「そうか?」とおそらく悠人が苦手なこの友人は訝しんでいたけれど、一応納得はしてくれたようだ。
五月の風に身を委ね、蒼一は一つ深呼吸した。この暖かい香りが胸いっぱいに広がって、今の気分と相まっていく。
昨日と同じ晴れ渡る空が、今日は違う表情を見せてくれる。それはまるで、蒼一と七菜の関係のようで、早く明日の空が見たくなる。
そう思う自分は、やっぱり相当浮かれているんだろうなと蒼一は思う。
最後にもう一つだけ、答えの無い問いを投げかけてみる。
——昨日は全然眠れなかったって言ったら、君は信じてくれるかな。
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