第6話 似顔絵(1)

 講義中、蒼一がふと、後ろから聞こえた笑い声に反応した。

 優里の小さな声に「七菜」の二音が混じっていた気がする。


 元々意識は目の前の講義半分、斜め後ろに座る七菜へ半分だった。多めの雑談を交えて進む講義に申し訳ないとは思いつつも、予習は十分、今日だけは許して欲しいと蒼一は思う。蒼一には今、この准教授の人となりより知りたい相手が間近にいる。


 この時間、七菜たちは蒼一がさり気なく空けた席に座っていた。蒼一の真後ろが優里で、七菜は悠人のすぐ後ろ。蒼一からは左斜め後ろの席。

 蒼一が、七菜とこんなに近い席で講義を受けたのは初めてのことだった。


 これまで、一番近くて五列違い。

 自身を慕ってくれる友人は多いけれど、たった一人、七菜の近くへ寄ることも、七菜の視界に入ることさえも叶わないでいた。



 彼女はきっと、俺の存在すら気付いていない。



 それでも、講義室に七菜が入って来ると、蒼一だけは気付いていた。いつも違う髪型の七菜の姿が、追っていないのに心を呼ぶ。



 視界の端に、必ず七菜が入って。


 蒼一の鼓動だけが、響き出す。



 あの、桜の木の下で七菜に出会ってから、ずっと。



 七菜と話せる優里たちが羨ましくて、七菜を笑顔にさせる話題を知りたくて、いつも通り過ぎて行くだけの七菜のことを、蒼一はただ見つめていた。

 その相手が異性だった時には、ただの友だちだよねって確かめたいのをひたすら隠して、七菜ではない誰かに笑顔を作った。


 それを昨日、一変させた。


 本当は少しだけ、今日七菜に会うのが怖かった。

 冷静になって考えると、とんでもなく大胆で自分よがりな行動だったとかなり赤面したけれど、後悔はしなかった。


 初めて七菜に挨拶した時、新入生代表として挨拶するより蒼一は緊張していた。

 七菜がしどろもどろに返してくれた「おはよう」の一言が、どんなに蒼一の心を温かく溶かしたのか、きっと七菜は気付いていない。


 蒼一が、泣きそうな顔の七菜にすごく焦って、悠人と話して緊張の解れた七菜に安心して、悠人が触れた七菜を見て、悠人に、少しだけ嫉妬したことに、七菜は気付いていない。


 七菜が、初めて蒼一の名を呼んでくれた特別感も。


 今、蒼一が、この距離でどれ程緊張しているのかも。


 今日はいつも以上に背筋を伸ばしたい気持ちでいることにも。


 七菜は、きっと気付いていない。



 そんな七菜のことで、優里が笑った。蒼一が完全に意識を後ろに向けると、優里が必死に笑いを堪えているようだ。


 ——何だろう。知りたい。


 ちらりと視線を左斜め後ろに送る。七菜が顎に手を当て、じっと准教授を見つめた後でペンを動かす。

 蒼一も、時折前方に意識を戻しつつ、後ろを気にする。

 次に七菜を見た時、得意げな表情で優里を見ていた。優里が再び「やめて」と言いつつ笑いをごまかしている。


 ——知りたい。


 講義は雑談で中断中。

 迷った末に、蒼一は一枚のメモ用紙を取り出し、緊張で震えそうになる手で文字を書いた。使い慣れた筈のシャープペンシルが、やけに引っかかる気がする。


 短く二言。それを二つ折りにして、前方を確認した後、そっと七菜の前に差し出す。

 まるで自分の腕じゃないみたいに動きがぎこちない。

 肩越しに七菜が気付いてくれたのが分かると、急いで姿勢を元に戻した。

 左隣の悠人には、瞑想中で気付かれなかったようだ。


 七菜はどう反応するだろう。

 経験したことのない緊張の音が、室内中に響き渡ってる気がする。


 しばらくすると、蒼一の左肩に何かが触れた。それがメモ紙を持つ七菜の指先だと分かった瞬間、そこだけやけに緊張が強くなり、左肩から熱くなる。


 七菜の顔が見られなくて、蒼一が手だけで紙を受け取った。

 七菜は何と返したのだろう。

 蒼一がゆっくりと、紙を開く。


 蒼一の書いた文字の下に、読みやすく丁寧な文字で、七菜からの返信。


 蒼一の目が、ふっと小さく微笑む。

 そしてまた、ペンを取った。


 蒼一の思いは一つ。



 ——もっと君に近付きたい。



 **********



 七菜は時々、右斜め前に座る蒼一のことを見ていた。前後が逆じゃなくて本当に良かったと思う。おかげで席は近いけれど、さほど緊張せずにいられそうと。


 昨日の告白の真意は分からないけれど、今のところ他に知る人はいないようだし、友だちになろうと言われたことも冗談ではなさそうと七菜は感じた。

 何よりあの笑顔を見ていると、人をからかって喜ぶような人とは到底思えない。


 だからこそ、余計に七菜は困惑する。


 今日改めて見る蒼一は、いつも見上げていた悠人の身長より更に少しだけ高かった。今羽織る七分袖のジャケットが、蒼一のすらりとした縦のラインをより綺麗に、姿勢の良さをより際立たせている。


 昨日、舞たちの言っていたとおり、すごく人気がある人だということも分かった。

 そんな人がなぜ自分に? という思いが七菜の中で強くなる。


 そこで七菜が閃いた。

 もしかして、付き合うっていうのは最初から友だち付き合いの意味だったのかも、と。

 昨日は動揺のあまり告白だと思ってしまっただけで、同じ講義を受けている仲間だし、悠人という共通の知人もいる。という訳でよろしくね。


——なんだぁ、そうだったんだー。


 七菜がそこまで考え一人納得した時、隣の席の優里からそっと一枚の紙を渡された。

 優里の呆れ顔で、七菜には十分伝わる。


 舞たちと何かと脱線の多いこの講義に出席すると、時々遊びに誘われることがあった。

 七菜が紙に目を落とす。

 どうやら今日は、この准教授の似顔絵を描くらしい。

 舞はイラストタッチで上手く、小春はどう見てもアザラシの絵が描いてある。優里は、呆れつつも一応参加してくれ、決して上手くはないけれど一生懸命描いたのが伝わってくる絵だ。


 七菜は思わずくすくすと笑ってしまう。

 みんな准教授の特徴を捉えててそっくりだ。

 七菜も自分なりに似顔絵を描く。


 ——できた!


 さっそく、どう? と自信たっぷりに優里に見せると、ぶっと吹き出しかけてごまかすのに苦労している。おそらく、四人の中では七菜が一番絵心がない。

 「ちょっと、七菜、やめて!」と小声で言い、教科書で顔を隠しながら必死に笑いを堪える優里を七菜はきょとんと見つめる。


 すると、前からそっと七菜の目の前にメモが置かれた。七菜が気付き顔を上げると、肩越しに振り返る蒼一と目が合った。

 七菜はドキッとした。


 ——え? 高橋くんから?


 何だろうと七菜がメモを開くと、几帳面な綺麗な文字で、


『楽しそう。何してるの?』


 と書かれてあった。

 七菜が驚いてぱっと顔をあげる。まさか気付かれていたなんてと、恥ずかしくもある。

 しかし、蒼一はすでに前を向いていた。


 自分ではどうすべきか分からなくて、優里にそのメモを見せると、涙目で教えてあげればと合図された。

 七菜は、


『先生の似顔絵を描いてました』


 と、そのメモに正直に書き加えて、少し緊張しながら蒼一の肩に指先で触れた。蒼一がピクリと反応し、ちらりと七菜を見る。

 そして、手だけでメモを受け取った。


 何て思われるだろう。

 呆れられるかな、怒られるかな、それとも興味なしで終わるかも、と七菜がドキドキしつつ蒼一の反応を待つ。


 そのまま七菜が見ていると蒼一はメモを開き、少し考えてから何かを書き込んだ後、それをまた七菜の前に置いた。


『オレも入れて?』


 七菜が目を丸くして蒼一の方を見ると、いたずらっぽい表情の蒼一と目が合った。昨日最後に見た、少年のような笑顔を思い出し、また七菜の胸が小さく鳴る。

 

——高橋くんも授業中、遊んだりするんだ?


 優里にまたメモを見せると、隣の舞たちに小声で聞いてくれたようで、舞たちは顔を輝かせて七菜に向かって同時に親指をぐっと立てた。


 七菜は苦笑しながら頷き、おずおずと蒼一の肩越しに四人の似顔絵が描かれた紙を差し出す。

 内容を見た蒼一は手を額に当て、顔を隠しながらくすくすと笑った後、自分も似顔絵を描き始めた。


 ——わ、高橋くん、ホントに描いてる。


 突然笑い出した蒼一に、隣で瞑想中だった悠人が目を開け、他の友人たちも何だ何だと興味を示すと、蒼一の制止も虚しく、似顔絵の描かれた紙は次々と人の手へと渡って行った。

 すると蒼一が七菜をこっそり振り返り、ごめんね、と片手を上げて謝ってくれる。 

 そんな蒼一に、七菜はううんと首を小さく振り、微笑んでみせた。


 ——悪い人じゃ、ないかも。

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