第4話

 モジャは廊下を進んで階段を、下へ下へ降りていく。

「モジャ!」

 後ろから彼を呼びかけるけど、彼は振り返りもしない。おかしい。今までどこへ行っていたんだろう。

 すれ違う人が走るワタシを見ている。ワタシはどうしてか、人の視線も気にしないくらい、彼を追いかけなきゃと思っていた。

 一階まで降りて廊下へ。廊下の先から体育館へ。体育館の横を渡ってその裏へ。

 体育館裏へ続く角を曲がった先。小さな空間の段差になっているところに、彼は腰を下ろしていた。

 小池君が。

「え?」

 ワタシは目の前にいる人がモジャではないことに驚いて声を出してしまう。そのせいで段差に座っていた小池君はこっちに気が付いた様子。

「あれ、立花……」

 立ち上がる。ワタシは後ずさる。

「ひ……」

 角を曲がって行ったはずのモジャはどこにもいない。ここには小池君しかいない。

 ワタシは小池君が怖かった。モジャとビーコが一緒に居る時ならともかく、一人じゃ彼とは向き合えない。

 一人だと、誰にも守ってもらえない。

「なに弱音ばっか吐いてんの? しっかりしなさい」

 声が聞こえた。ワタシの心から聞こえる声。ビーコのものだ。

「アンタ、こいつに言ってやりたいことがあるんでしょ? この際だから、ここで言っちゃいなさいよ」

 今朝から呼びかけても返事をしなかったビーコが、心の中にいる感覚がある。そして彼女はワタシにとても無理なことを言っている。

 言いたいこと? 小池君に? そんなの一つもないよ。だって小池君はいじめっ子だから、文句なんて言ったら何されるか分からない。ワタシが言っていいことなんて何一つない。

 ワタシは黙っておく。彼といらない面倒事を起こさないために。黙っていれば関わり合いにならなくて済むし、それにワタシのことはモジャとビーコが守ってくれる。

 ――それで本当にいいの?

 ふっと心の中に疑問が浮かぶ。この言葉はいったい誰のもの?

「自分でも気づいてんじゃない、映子。このまま庇われてるだけじゃダメなんだってこと」

 ビーコがワタシの名前を呼んで言う。

 いつか、お父さんが言っていた。昔のレコードは表と裏の両方に別々の音楽があって、表をエー、裏をビーと呼ぶらしい。

 だから表のワタシがエイコなら、裏の彼女はビーコ。それがビーコの、もう一つの名前の理由。

 でも、本当はワタシとビーコは同じなんだ。そんなことはずっと前から知ってた。

 いつもビーコの言葉は、ワタシが隠してきた本音ばかりを言い当てる。ビーコの言うことは全部ワタシにとっての本当。

 裏も表もない、ただ一つの心だから。

「ワタシには……出来そうにないよ」

 自信なんてまるでない。

「また、独り言なんだな?」

 小池君が真っすぐにワタシを見ている。なんだかワタシは責め立てられているみたいで、彼の目の前からいなくなってしまいたくなる。

 モジャとビーコにばかり話しかけていたワタシは、周りからは独り言をぶつぶつ言うような人って思われてるし、自分でも暗い人間だって思う。そんな子、またすぐにいじめられるに決まってる。

「大丈夫。映子なら出来る。言いたいことは言えるし、今よりもっと明るくなれる。ずっと見てたでしょ? アタシとモジャのこと。これからは、自分で自分のことを守ってあげなくちゃ」

 顔をしかめた小池君の後ろ。そこにはいつの間にかモジャがいた。

 どうやったのかは分からないけど、今の彼にはちゃんと足がある。

 ほっぺたを膨らませて、目を細めて、藤堂先生の顔。そして空中をスイミング。今度は平泳ぎじゃなくて、足を変てこな形に曲げたカエル泳ぎだった。

「ふふっ」

 ワタシは思わず笑ってしまう。小池君は眉を曲げて不思議そうな顔をした。

「ほら、胸張ってしゃんとしなさい。自信を持って、アンタのことを伝えるのよ」

 ビーコが最後に背中を押す。

 モジャは笑顔で高い空まで昇っていく。

 わかったよ。しょうがないな。

 ワタシは目の前の男の子の目を真っすぐに見て、自分の言いたいことを素直な心で言った。

「小池君。ワタシはイタズラされるのが嫌。バカにされるのも嫌。そんなことをする人は大嫌い」

 ワタシが話し始めると、小池君は今までしなかったような真剣な顔で聞いてくれた。怒ったりはしない。

 だからワタシも一つ一つ確認して自分の気持ちを選ぶ。

「なんでワタシがいじめられなきゃいけないのか分からなかったし、イタズラする小池君のことも分からなくて、怖かった」

「おれも立花のこと、分からなかった」

「うん。この前聞いて、初めて知った」

 そんなこと、話をしなかったんだから、当たり前なのに。

「……いじめをする小池君とは話したくない」

 それがワタシにとっての正直な気持ち。

「でも、まだワタシのことを知りたいって小池君が思ってくれるなら。いじめをやめて仲直りしてくれるなら、ワタシはお話したい。ちゃんと、ね」

 全部を伝えて、ワタシは手を差し出した。あの時できなかった、仲直りの握手。

 差し出された手を見て、小池君は握り返す。

「いじめてごめん。もう、しません」

 その言葉を聞いて、ああ、終わったんだ、と思った。

 小学校の何もかもが。今までのダメダメだった自分が。そして、ずっと一緒に居てくれた友達との関係が。

 空に昇っていったモジャはもう見えない。

 心に住んでいたビーコは心のどこを探しても見つからない。

 やっと前に進めたワタシは、その代わりに大事なものを背中の後ろに置いてきてしまった。

 目が潤んできて小池君の顔がよく見えなくなる。それがどうにも止まらなくてしょうがない。

 卒業式の日の教室。藤堂先生が、クラスメイトが泣いていた理由が分かった。

 これは確かに泣いちゃうな。

 

 あの日、夢を見た。

 ワタシの知らない場所で、二人が話してる夢。

 白い空間。一つの丸テーブル。二つの椅子に座るビーコとモジャ。

 ビーコにはワタシとよく似た、ワタシと少し違う体があった。モジャの体は透き通ってなくて、ちゃんと足もあった。

 ビーコが「もうそろそろかな」って言うと、モジャは「もうそろそろだね」って言う。

 二人はとても優しい顔をして、楽しかった思い出の話をしている。

 まるで卒業でもするみたい。

 ワタシも混ぜてほしかったけれど、それはいけないことなんだと思う。

 だってそんなことをすれば、二人を不安にしてしまうから。

「もうそろそろなんだな」

 二人と違う場所で、ワタシは一人呟く。

「今まで楽しかったよ。サヨナラ」

 少しずつ遠くになっていく二人の姿。

 ビーコとモジャはワタシに向かって、いっぱい手を振っていた。

 ちゃんと出会えた二人とすぐにお別れしなきゃいけないことが、ワタシには残念だった。

 

 いつもそばにいて、いつだって守ってくれる。そんな夢みたいな友達を、ワタシは小学校時代の宝物にして、心の奥にそっと閉まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

いつもそばにいて、いつだって守ってくれる。 海洋ヒツジ @mitsu_hachi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ