カフカの翼

可愛いうさぎ

カフカの翼

 私には毎週必ず観ているバラエティ番組がある。内容は、日本人に対して日本に住んでいる外国の人たちが、様々な意見や疑問をぶつけるというものだ。

 その週のテーマは、日本料理である活き造りが残酷だというものだった。外国の人たち――特に動物愛護活動に熱心な出演者の主張は、魚に必要以上の苦痛を与える残酷極まりない調理法をすぐに禁止にするべきだと一貫していた。また、肉の旨みは死後に増すことから、非合理な調理法であると、化学的な面からも非難した。日本人側も様々な視点から反論をしたが、どうにも分が悪い討論ではあった。

 結局、討論は日本人側の意見が受け入れられないまま終わった。まあ、この番組は毎回こんな感じで終わるものであり、今回は日本人側の主張を押し通すだけの根拠が弱かっただけだ。

 だが、私は釈然としない気持ちだった。そもそも、どの生き物だって食べられたくて生きているわけじゃない。善悪の価値基準で測るのなら、食べるために殺すこと自体が残酷なのだ。なのに、この方法は良い、この方法は悪い、と落としどころを見つけようとすることになんの意味があるんだろうか? それはいったい誰に対してへの釈明なのかと問いたくなる。

 仮に、人が動物たちと意思疎通が取れるようになった時、その主張を伝えることができるんだろうか? また、伝えて納得してもらおうとする者が現れるのだろうか?

 それは想像すると、あまりに馬鹿馬鹿しく悪夢的な光景だ。――だが、そんな私の取るに足らない疑問へ、答えが与えられることになった。

 突然、なんの前触れもなく、全ての人が動物たちと会話をできるようになったのである。まるでドクター・ドリトルのように。



「はい、王手」

 パチンと小気味よく将棋の駒が盤を叩いた後、彼女は得意気になるでもなく、むしろ事務的に私に宣言をした。その配置に私は唸るしかなかった。盤上で繰り広げられる、小さくも深淵で大きな戦いは明らかに私の劣勢であり、ここから盛り返すことは非常に困難だ。

「ま、待った」

 私が無様にも勝負に情けを求めると、彼女は冷たい眼差しで私を見返した。

「駄目よ。あなたいつも負けそうになるとそれじゃない。それに私が情けをかけて、仮に――億に一つでもあなたが勝ったとしても、与えられた勝利ではためにならないでしょ。つまらない勝ちに拘るより、潔く負けを認めて次に活かせるようにしなさい。向上心の無い人間なんて、お猿さんと同じじゃない」

 うっ、と私は言葉に詰まる。彼女は遊びであっても勝負事には厳しい性質だ。だが、私には彼女が気を変えてくれる奥の手があった。

「そんな厳しいこと言わないでよ。ほらほら、おつまみにカマンベールチーズも用意してあるし、焦らずゆっくり楽しも。ね?」

 宥めるように言って、私はチーズを缶から取り出し、ナイフで切り分け小皿に乗せた。それを差し出すと、彼女の硬かった雰囲気が途端に和らいだ。彼女はチーズに目がないのだ。

「……もう、しょうがないわね。これ一回だけよ」

 やった、と私は喜び、駒の配置を指し直しができるよう戻した。それを横目に見ていた彼女は、チーズをつまみに赤玉スイートワインを舐めながら、「どうせ負けるのは変わらないのに」と漏らした。

 私は悔しさで奥歯を噛みしめたが反論はできなかった。事実、私が将棋で彼女に勝てたことは一度もないからだ。勝てないのがわかっているのだから、最初から指さなければいいとは自分でも理解しているのだが、そうもいかない理由があった。

 彼女が――カフカが、人ではなくカラスだからである。

 人がカラスに将棋で勝てないなんて、人としての沽券に関わる由々しき問題だ。いや、一度でも負けること自体が許されないのだが、過去の自分を非難しても仕方がない。私にできることは、汚名を返上するためカフカに戦いを挑み続けることだけだ。

 それに、この種族の異なる親友が悔しがる姿を、一度でいいから見てみたかった。

 


 カフカと出会ったのは、まだ田舎の実家にいた頃、進学に伴い上京をする前のことだ。

 学校の帰り道、道端でガーガーと鳴く黒い綿の塊を見つけた。カラスの雛だった。辺りを見回してみるが、近くに巣も親鳥の姿もなかった。このままでは猫か蛇の餌になる。だから私は、本当はいけないことなのだが、雛を保護することにした。雛は私だけでなく家族と一緒に育てた。野生動物の飼育は大変だと聞いていたが、特に問題もなく自由に飛び回れるまで成長してくれた。

 このカラスに、私はカフカと名づけた。カフカとは、チェコ語でコクマルガラスを指す名だ。もっとも、私の拾った雛は、ハシボソガラスなのだが。音が良かったのと、文学的だと思ったのが理由だった。

 カフカは当時からとても頭の良いカラスだった。大きくなってからも私の実家に居ついていた彼女は、人間の言葉を理解しているらしく、頼めば新聞を取ってきてくれたり、またお風呂のお湯を止めてくれたりもしたのだ。

 頭が良いとされるカラスの中でも、カフカの知能は群を抜いていた。そのことをはっきりと認識したきっかけは、祖父の好奇心だった。

 ある日、祖父が慌てながら自室にいた私を呼んだ。なんだろうと思い、祖父の部屋に行くと、カフカが将棋盤の上で駒を弄っていた。祖父が言うには、カフカが将棋を覚えようとしているとのことだった。私は呆れた。カフカに新しい芸をしこもうとしていたことは知っていたが、よりにもよって将棋とは。いくら頭の良い動物でも、できる限度がある。

 その考えが間違いだと知ったのは、三日後のことだった。なんと、カフカは本当に将棋を指せるようになっていたのだ。しかも、教えた祖父よりも強くなっていた。

 カフカは奇跡だ。家族の誰もがそのことを知った。だが、誰もカフカを見世物にしようとはしなかった。彼女が既に我が家の一員だったからだ。

 そして、今では、私にとって唯一の家族だ。――父も、母も、祖父も、死んだ。二年前、地震による土砂崩れで生き埋めになったのだ。上京していた私と、空を飛んでいたカフカだけが生き残った。

 葬儀の後、私はカフカをどうするか迷った。彼女は家族だ。だが、彼女は翼という自由を持つ。気軽に都会に連れて行くことはできない。かといって、私が田舎に残るという選択もなかった。なにもかもを無くしたこの地に残るのは、あまりにも辛すぎる。

 結局、私は一人でこちらに戻ってきた。それからしばらく経った頃、ドアではなく窓をコンコンと叩くものが現れた。――カフカだった。彼女は私を追ってきたのだ。

 私は驚き、そして喜んだ。田舎に残ることを選ばなかった私だが、都会での生活が充実しているわけではなかった。むしろ、人見知りで内気な私は周囲に馴染めず、孤独を深めるばかりだった。更に血縁も無くし、いよいよ縋れるものが見当たらなくなってしまった時に、彼女は私を見捨てず寄り添うことを選んでくれたのだ。

 こうして、私とカフカだけの生活が始まった。彼女はこちらでも自由だった。ずっと部屋の中にいることもあれば、ふらりと外に出かけることもある。私は彼女のため、よほど寒い時以外は窓を開けっぱなしにしておくようになった。住んでいるマンションの階層は高く、防犯上そこまで心配があるわけでもない。

 カフカは自由だったが、心細い時は常に傍にいてくれた。そんな彼女の心遣いが温かった。だが、物足りない気持ちもあった。いつしか私は、カフカが人の言葉を話せたらいいのに、と思うようになっていた。だから、彼女と話せるようになった時、私は本当に嬉しかった。

 例え、多くの人が、この突然起こった現象を望まないとしても――。


 

「私にもカフカみたいに翼があればなぁ……。そしたら、どこへだってすぐに行けるのに」

 大学の講義に遅刻をしてしまった私がカフカに愚痴ると、彼女はケラケラ笑った。

「翼があっても、その寝坊癖を直さなければ意味はないわね」

 ……カラスはいいなあ。寝過ごしても誰にも怒られないんだもん。私もカラスになりたい。なんで人間なんかに生まれてしまったんだろう」

「あら、それは困るわ。あなたもカラスになってしまったら、いったい誰がチーズの缶を開けてくれるの? それにワインのボトルも」

 カフカはいつも御嬢様のような口調で御嬢様みたいなことを言う。だが、実際に彼女がそう話しているわけではない。私の脳がそのように彼女の気持ちを翻訳しているのだ。それは、テレビで偉い学者さんが言っていたことだった。どうやら、人が動物と話せるようになった原因は、人自身にあるらしい。そのメカニズムは未だ解明されていないのだけれど。

「あなた、たまには学校のお友だちと遊んだりしないの? いつも一人なのはよくないわ。心もお部屋と同じで風を呼び込まなければ淀んでしまうもの」

 カフカは私に説教をすることもあった。私の方が年上で、彼女をここまで育てたのは私なのに、そんなことはお構いなしで痛いところを突いてくるのだ。

「うるさいなぁ。放っておいてよ。それに、友だちと遊んでいないのはカフカも同じでしょ。他のカラスと一緒にいるとこ、これまで一度も見たことないよ」

「残念だけれど、生ごみを漁るような方々とはお友だちになれないわ」

 カフカはやっぱり御嬢様だ。

 人に育てられたからか、黒々とした羽はビロードのような艶で美しく、その本質も野生とは全く異なる。また、自分が特別であることを誇っているきらいもあった。私には他者と交流を持つようにと説教をしていながら、彼女自身は他に属さないことを一つのステータスだと考えているようだ。――その点は、私の考え方とは大きく異なる。

 だが、完璧に思える彼女にも苦手なことはある。それは歌だ。カラスは九官鳥のように鳴き真似ができるのだが、頭の良いカフカの場合、更に様々な人の歌を歌うこともできる。もちろん、カラスと人では発声の構造が違うため、複雑な音程まで真似することはできない。だから、彼女の歌は酷いものなのだ。

 それでも、彼女は機嫌が良くなると人の歌を人の声真似で歌った。だが私は、これまで彼女の歌を下手糞だと指摘することはなかった。わざわざ蛇がいる藪を突く必要もないとわきまえていたからだ。――そう、その日までは。

「カフカって本当に音痴だよね」

 悪意があったわけではない。少しイライラとしていたから出た失言だった。だが、私の言葉にプライドの高いカフカは酷く機嫌を損ね、それから一週間も家に寄りつかなくなった。いわゆる家出というやつだ。その間、私は必死に探し回ったが見つかることはなかった。ようやく自分から帰ってきたカフカが、まず私に言った言葉は「チーズが食べたくなったわ」だった。

 カフカは根っからの御嬢様だ。

 また、カフカは私が育てたのに私以上に博識でもあった。たまに説教臭くなるのが傷だが、彼女から語られる言葉はどれも深い教養を感じさせる。きっと、彼女の翼が見せる光景が、地べたを這い回ることしかできない人間とは異なる知識を与えるからだろう。それでいて、人の娯楽などの話題もパソコンをくちばしで器用に操作して幅広く手に入れるのだから、彼女と話をしていると、目の前に居るのがカラスであるということを私はしばしば忘れてしまった。

 世間の混乱とは真逆に、私とカフカの日常は、ゆったりとしていて満たされた時間だった。――だが、彼女との蜜月の日々は、長くは続かなかった。



 人が動物の気持ちを言葉として理解できるようになり、もっとも困ったことは、捕食者と被捕食者としての関係をこれからどうするかだった。すなわち、これまで人間が食料としてきた動物たちを、これまでと同様に食べ続けられるのか、という問題だ。

 多くの人、特に先進諸国に住む人々は、これまでの肉食文化に拒否反応を見せるようになった。主な理由は、気持ち悪い、だった。宗教的な側面――善悪の価値観によって、肉食を禁じるべきだと考えるものもいたが、大半の肉食を嫌悪するようになった理由は、気持ち悪いに集約されていた。確固とした文明社会で生まれ育った人は、倫理や摂理よりも、まず心の脆さと適応能力の低さで状況を判断したのだ。

 その証拠に、とあるベジタリアンで構成される過激な動物愛護団体が、この状況を広報や活動に利用して勢力の拡大を計ろうとした時、世界中の人々が彼らを非難の的にした。

 愚かな彼らは、この状況を肯定し受け入れようとするものが圧倒的に少数だと、理解できなかったのだ。言い方を変えれば、彼らは受け入れ難い状況に恐怖する人々を、思慮の無さによって追い詰め、発狂させようとしてしまったのである。

 人は肉を絶っても生きることはできる。だが、それは身体だけでなく心にも多大な負担がかかる。だから誰もが、この状況が悪い夢であることを望んでいたのだ。――現実を直視したくなかったのだ。それに、もし、今度は植物の心まで理解できるようになってしまったら――。

 いや、そうなることはきっと時間の問題だろう。確証はないが、それは少しでも考える力のあるものなら、誰もが予感していることであった。だから、肉だけでなく、野菜も食べられなくなる人も、少数ではあるが現れ始めた。

 そして、私もまた、その一人だ。私が口にするものは、牛乳と塩だけになった。


 

 布団の中で丸まっていると、窓の向こうから鳥が羽ばたく音が聞こえた。それと、悲鳴。音はベランダへとやってくる。私は布団を頭から被り耳を塞いだ。だが、音を完全に断つことはできず、恐ろしい悲鳴と肉をついばみ骨を砕く光景が、頭の中に生々しく再生される。それは何度も目の前で起こった出来事だったからだ。

 しばらくして悲鳴が止み、その後、彼女が羽ばたき去っていく気配がした。私はよろめく足で布団から抜け出し、カーテンを開いてベランダの惨状を確認した。

 今日の獲物は、すずめだったようだ。茶色い小さな羽根と、その血が散乱している。そこに混じり、一枚の黒い羽があった。――カフカの羽だ。

 私が肉を食べられなくなった時、カフカは私を馬鹿にした。人は本当に繊細で愚かな生き物だと、彼女は苦笑しながら言ったのだ。それでも、互いの関係は良好なままだった。

 私が野菜も食べられなくなった時、カフカは声を荒げて激怒した。私の感情は偽善からくる怯懦であり、すぐに改めるべきだと酷く叱った。互いの関係に亀裂が入った瞬間だった。

 カフカは一貫して私を責め立てた。食べなければ死ぬと繰り返した。だが、私の心は変わらなかった。そもそも、私は死にたいから食べないのではない。ただ、生理的嫌悪から食べたくない、というだけだった。その結果が死だとしても、それは仕方がないことに思えた。

 そう私が反論すると、カフカは泣いた。涙を流したわけではない。彼女の悲しみが私に押し寄せて来た。家族を事故で亡くした時以来に経験するカフカの感情だった。彼女は泣きながら、今度は言葉を柔らかくして、私を説得しようとした。そんな彼女の姿を見ても、やはり私の心は変わらなかった。――自分でも驚くほどに。

 やがて、互いに感情的になり酷い口論が起こった。説得に応じようとしない私に対して、業を煮やしたカフカは夜の闇へと消えた。

 次の日、私は聞いたこともない悲鳴に起こされた。ベランダを見てみると、カフカが小さなネズミを捕らえ、その鋭いくちばしで生かしたままついばんでいた。やめて、と私は叫んだ。だが、彼女はやめようとはしなかった。ネズミが絶命し、きれいにカフカの胃に納まった時、彼女は言った。

 「残酷だと思った? でも、これは悪ではないわ。こうやって世界は成り立っているの。あなたはいつまで駄々をこねているつもり?」

 私がなにも言い返せないでいると、彼女は言葉を続けることなく飛び去った。そして、この儀式――そう儀式は、何度も続いた。やがて、私が耐えられなくなり、窓とカーテンを閉ざし、カフカを締め出すようになってもやめることはなかった。

 次第に、私のカフカへの愛情は、憎しみと怒りに変わっていった。



 その夜、窓が叩かれた。よろよろとしながらカーテンを開けると、カフカがいた。

「話があるの。開けてちょうだい」

 私は一瞬迷ったが、震える手で窓を開けた。この頃、私は牛乳も飲まなくなっていた。正確には、需要に供給が追いつかず手に入らなくなったのだ。私と同じように考える人は、それなりの数がいるらしい。

「……話ってなに?」

「これまでのこと、悪かったと思っているわ。あなたの心を変えようと過激になりすぎた。……ごめんなさい」

「話は、それだけ?」

 突き放すように言うと、カフカは怯んだ、そんな彼女に、私は少しだけ胸が晴れるのを自覚した。私の中でカフカへの愛情は完全に憎悪へと変わっていたのだ。

「……なにが、あなたをそこまで追い詰めるの? どうして、あなたは死にたいの?」

 カフカは悲しそうに私へ問う。やはり、カフカはなにもわかっていない。私は死にたいわけじゃない。ただ、私の選んだ生き方の結果に死があるだけだ。仮に誰かに襲われて殺されそうになれば、私は死に物狂いで抵抗するだろう。

 ……カフカは、なにもわかっていない。私のことを、人のことを。

「前にも言ったけれど、私は死のうとしているんじゃない。……ううん、仮にそうだとしても、カフカが私にできることはなにもない。だって、あなたはカラスで、私は人間だもの。だから、お父さんのことも、お母さんのことも、おじいちゃんのことも、助けられなかったじゃない」

 私の言葉に、カフカが傷つくのがわかった。彼女は、また泣いた。

「それを言うのは、卑怯だわ。……でも、あなたの言う通りかもしれない。私はカラスで、あなたは人だもの。私は、あなたを傷つけるだけの存在なのね」

 カフカは震える声で言って、翼をはばたかせた。カフカの黒が夜の闇と判別できなくなり、私は窓を閉めて布団にもぐりこんだ。一人になった私は、自分が高揚していることに気がついた。――きっと、私がカフカを憎んでいたのは、こうなる前からだったのだろう。彼女はカラスだ。だが美しく聡明で、なにより自由だ。その気になればどこへでもいける。そんな彼女に、いつの間にか私は嫉妬をしていた。嫉妬という憎悪を抱いていたのだ。

 私は、自分の醜い心を自覚し、絶望した。



 この状況が収束する転機が訪れた。――もっとも、その悲惨な事件を考えると、決して喜べるものではないのだけれど。

 アメリカの片田舎で、放棄された養豚場から豚が逃げ出し、小さな子どもを襲って食べたのだ。忘れられがちだが、豚はイノシシを家畜化したものであり、場合によっては非常に凶暴になる。そして、雑食だ。人を襲うことは稀だが、状況が重なれば襲うだけでなく、食べることもある。今回は、まさにそのケースだった。

 子どもを食べた豚は射殺された。このニュースは世界中に広まったが、豚を哀れむものは極々一部だった。誰もが別のことに感情を支配されていた。それは豚への怒りだ。自分たちと同族の、それも子どもが襲われて食い殺されたことに、当の豚が射殺されてなお人々は怒った。そして、言葉を通じ合わせることができても、相手が人ではなく、我々の法の通じない摂理で生きる、別種の存在であることをようやく思い出した。

 つまり、この別種の存在を殺して食べることこそ自然な在り方なのだという、当然といえば当然の考えが、人々の間に広まったのである。一度は変わってしまった世界は、また元の姿を取り戻しつつあった。

 だが、その中で、私は取り残されていた。もう、自分を騙し通すことはできない。カフカの言う通りだ。私は私の死を望んでいる。それは決して直接的なものではないが、私は間違いなく私の死を強く願っていた。

 なにものにもなれず、なにものになろうとしたいかもわからない私は、ずっと前から心のどこかで、その原因が醜く歪んだ私の自尊心にあることを気がついていた。だから、私は死んでしまいたかったのだ。そして、その理由を求めていた。それだけのことだったのだ。

 だが、心を改めるには遅すぎた。長く続けた絶食のせいで、私はもうほとんど動くことができなかった。直に、本当に動けなくなるだろう。それは確かに、私の望んだ結果だが、あまりにも惨めな死に方だった。

 私は最後の力を振り絞って、窓へと這い寄り開いた。冬の冷たい風が部屋に入ってくる。雲一つ無く澄み切った空を見上げるが、そこに私が求める黒い翼はどこにも見当たらない。――彼女を拒んだのは自分なのに、この期に及んでなにを期待しているのだろうか。

 私は笑った。乾いた笑い声は、乾いた私に染み入り、その哀れさを強めた。清涼な風だけが心地良い。せめて、この風に舞って消えたいと、私は深い闇の底で願った。



 誰にもあることなんですよ、と老いた医者は言った。

「進学や就職で環境が変わり、不安になることは誰にもあることなんです。その中で自分を見失うことは、決して珍しいことじゃない。私にも経験があることです。聞けば、あなたは御家族を事故で亡くされたそうですね。……さぞ、辛かったことでしょう。そこに、あんな事態が重なれば、死にたくなるのも当然です。自分を責める必要はありません。ゆっくりでいいんです。ゆっくり歩いていきましょう」

 私は彼の温かな言葉を噛み締めた。自分だけが孤独だと思っていたが、それは大きな間違いだったのだ。あの時、死なずに済んだからこそ、私はそのことを知れた。

 病院に入院して三日が過ぎた。危ないところだったらしいが、適切な治療を受けたおかげで、私は歩ける状態にまで回復していた。食事もやや抵抗はあったものの、以前のように食べられるようになった。不味い流動食でも、口に運ぶたびに身体中に命が行き渡るのを感じられた。

 今日は随分と暖かい日だ。私は診察の後、中庭のベンチに座り空を眺めていた。そうやって首が痛くなるまで見上げ続けたが、やはり彼女の姿はどこにもなかった。

 ――私を助けてくれたのは、カフカだ。彼女が私のスマホを使い人の声を真似ることによって、救急車を呼んだから助かったのだ。その履歴はスマホに残っている。

 なぜ、あんな別れ方をした彼女が助けてくれたかはわからない。だが私は、彼女に御礼を言いたかった。そして、心から謝りたかった。

 あの時のことを思い出すたびに、私は居たたまれなくなる。悪いのは全て私だ。それはわかっている。だが、叶うことなら彼女を見つけ、もう一度友だちになりたい。

 視線を戻した私は、ふと隣になにかが居ることに気がついた。――それはカラスだった。ただのカラスではない。黒く美しい羽に、都会にいるハシブトガラスと違ってしなやかな姿。そのカラスは、カフカだった。

 突然の再会に私が驚いていると、彼女はじっとこちらを見た。

「だいぶ、血色が良くなったわね。あなた、割と綺麗な顔立ちをしているんだから、その方が良いわ」

 淡々と言うカフカに、私は目を丸くするばかりだった。

「……カフカ、どうしてここに」

「お見舞いに来たの。もう立てるぐらいには回復していると思って。迷惑だった?」

「……ううん、そんなことない。でも、カフカが来てくれると思っていなかったから、それで。……あのね、カフカ、私――」

 あの時のことを謝ろうとすると、カフカは「よしましょう」と制した。

「終わったことをほじくり返されたくないの。お願い」

 当事者にこう言われてしまっては、どうすることもできない。私はますます居たたまれなくなり、顔を伏せた。

「ねえ、これだけは教えて。どうして、私を助けてくれたの?」

「……正直なところ、助けるかは迷ったわ」

「私が酷いことを言ったから?」

「いいえ、あなたが死にたいと思っていたから。それを止める権利は私にないもの」

「なら、どうして助けてくれたの?」

 私の問いに、カフカはぴょんとベンチから飛び降り、伏せたままの私の顔を見上げながら答えた。

「私があなたに生きていて欲しかったから」

 カフカの答えは簡潔だった。だから私は、胸がいっぱいになり、涙をこぼした。

「……私ね、カフカのことが大好きだよ。助けてくれて、本当にありがとう」

「私もあなたのことが大好きよ。お父さんも、お母さんも、おじいちゃんも、みんな大好き。私の大切な家族だもの」

 そう言うと、彼女は照れたように顔を背けた。

「なにより、あなたが居なくなってしまったら、いったい誰がチーズの缶を開けてくれるの? それにワインのボトルも。この二つのない世界なんて考えられないわ」

 私は笑った。カフカは相変わらず御嬢様だ。

「なにそれ。酷いなあ」

「私も酷いことを言われたから、これでおあいこよ。――それじゃあ、今日のところは帰るわね。また明日」

「うん、また明日」

 翼を広げるカフカに、私は頷く。カフカは羽をはばたかせ、天高く舞い上がった。

 透き通る青空に、彼女の黒い翼はどこまでも自由で、美しかった。

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