第2話 影に堕とされた者たち
表通りの途中から角を一つ曲がって、奥へと進んだ先。
賑わいから外れ、車通りも殆どない奥の通り沿いに、小さな喫茶店がある。
一見すると民家と見間違えそうな佇まいのその店の名は、『夕凪』。
いつからあるのか、という問いには十中八九、「昔からある」という答えが返る、そんな不思議な店だった。
「……あー……つっかれたー」
夜が明けてまだ幾ばくもたたない頃合い。
未だ、ドアには『CLOSE』と記されたプレートが掛けられたままの『夕凪』店内では、ぐったりとした声が上がっていた。
「はは……お疲れ様だね、空くん」
ぐったりとした声の主──カウンターに突っ伏した空の様子に、店主である
「……マスター、その馬鹿を甘やかすな。
そもそも、最初に手を抜いたそいつが悪い」
労いの言葉を向ける凪に向け、キッチンの方から蓮の容赦ない声が飛んでくる。それに、凪ははいはい、と応じて肩を竦めた。
「それに、そいつが疲れてるのは影狩りのせいじゃないだろ。
そういう意味でも、労いは不要だ」
そこに更なる追撃がかかり、凪はやれやれ、と苦笑を深くする。散々に言われている空はと言えば、最早反論する気力もない、と言わんばかりに突っ伏したまま動きを止めていた。
路地裏で、異形の影を倒した後。空と蓮は裏道を巧みに抜けて現場を離れ、『夕凪』へとやって来ていた。
『夕凪』へと辿りついたのは夜明け前。そこから今に至るまで、空は延々と蓮の説教を受けていた。
時間も時間なのでついうとうととすれば即、蔓でぺしりと頭を叩かれる。そんな状況で疲れないはずもなく、とはいえ、「小言は帰ってから聞く」と言ってしまった手前逃げる事もできず──結果、こうして燃え尽き状態となっているのが現状だった。
「ま、それはともかく。
……『
一先ず話題を変えよう、と思ったのか、凪がこんな問いを二人に投げる。それに、空はずるり、という感じで顔を上げ、うん、と肯定を返した。
「そうか、なら、良かった」
「でもさー、なんてかこう……」
「ん?」
「……最近、増えてるよな、あいつら」
「ああ……そうだねぇ」
空の呟きに頷きを返しつつ、凪は僅かに眉を寄せた。
空と蓮が連携して倒したもの──『影喰い』と呼ばれる、異形の存在。それは何年も前から町の裏通りに潜み、人を襲っていた。
『影喰い』がいつから、どこから現れたのかは知られていない。そも、一体何なのか、という根本的な所もさっぱり知られていない。
わかっているのは、どこかの神話に語られている怪鳥『ペリュトン』に良く似た特性を持っている事と、『影喰い』に殺された人間の行く末が二つのパターンにわけられる、という事だけだ。
一つは、そのまま死に至るパターン。襲われた者の大半はこちらを辿り、変死事件として一時町を騒がせては廃れていく。
そしてもう一つが、『死なない』という特異例。
何故そうなるのか、何が基準でそちらになるのかは、これまた全くと言っていいほどわからないが。
『影喰い』に殺され、影を喰われてもなお死ななかった者たちは人ならざる力を身に着けたもの──『人外』へと転じていた。
「まー、こんなになっちまったら、やれる事やんなきゃなんないのはわかるけどさー。
しょーじき、真面目に学生生活しながらだとほんっき、しんどいんですけどー」
ぐでぇぇ、という感じでカウンターに上半身を預けた空が愚痴る。
『影喰い』に殺され、異端の『人外』として覚醒した者。その多くは自身の力を隠して元の暮らしを続けようとする。
その一方で、元の暮らしを続けながら、目覚めた力を異形へ向ける者たちも少なからず存在していた。
この場にいる三人──
「ま、そうだねぇ」
愚痴る空に、よしよし、といわんばかりの口調で凪が同意する。奥の厨房から物言いたげな視線が飛んできていたが、そちらには気付かないフリをしていた。
「ったく……もうちょっと、遠慮しろよなあ……」
「……遠慮しろ、と言って聞いてくれるなら、ぼくたちも楽なんだけどねぇ。
如何せん、言葉が通じないからなあ」
「ほんとだよ……石頭の教授の方がまだ会話できるだけマシだっつー……」
うだうだと口にした直後に、空はふとある事を思い出してあ、と短く声を上げる。どことなく引きつったようにも見える様子に、凪は一つ瞬いた。
「……空くん?」
「やべぇ……レポート提出期限、週明け……」
首を傾げて名を呼ぶ凪に、空は石頭の教授、で思い出してしまった現実をぽつりと零した。
「あー……それは……頑張れ」
落ちた現実に、凪は苦笑するしかできない。
親元を離れて一人暮らし中の現役大学三年生で、生活費を稼ぐためのバイトもしつつ、『人外』として異形を狩る。
そんな多重生活をしつつ、けれどどちらも捨てない空の苦労は凪には想像するしかできず、結果、愚痴を聞いたり甘やかしたり、という方向で労わる事になりがちだった。
もっとも、この場にいるもう一人に言わせると、凪は甘すぎる、という事になってしまうのだが。
「それ、この間言っていたヤツだろ。
……未だに出来てない方がおかしいんじゃないか?」
そしてそのもう一人はどこまでも容赦なく、ざっくりと斬り込んでいく。トレイ片手に厨房から出て来るなり、蓮は再びカウンターに突っ伏した空に向けて遠慮ない口調でこう言い放っていた。
「うるせー……仕方ねぇだろ、いろいろ忙しかったんだからぁ……」
対する空は、力なくそれに応じる。実際、力はない。睡眠不足的な意味でも、熱量不足的な意味でも限界が近かった。
「後でスケジュール帳を見せろ。
……て、ほら、そこで寝るな。
いや、寝てもいいが食べてからにしろ」
そんな空の様子に蓮はやれやれ、と嘆息しながらトレイを置く。乗っているのはパンケーキにスクランブルエッグとサラダ、カットフルーツをワンプレートに盛り付けたもの。漂う香りは眠りそうになっていた空の意識を刺激し、がばり、と身を起こさせていた。
「朝飯!? さんきゅ、蓮! 食材尽きててどーすっかと思ってたんだよなあ」
先ほどまでの無気力どこ行った、と言わんばかりに目をきらきらさせる空の様子に凪はほんの少し表情を緩め、『食材尽きてて』という一言に蓮は眉をぴくり、とさせる。
そんな二人の様子に気づく事無く、空はフォークを指の間に器用に挟みながら両手を合わせ、いただきます、とプレートに一礼してからパンケーキにフォークを突き刺した。
「……まったく。
いや、寝てもいい、とは言ったけど」
プレートの上を綺麗に平らげた後、カウンターに頭を乗せて幸せそうな顔で眠り込んだ空の様子に蓮はやれやれ、と息を吐いた。
「どうする、マスター。
このままだと開店の邪魔になるが」
振り返りながらの問いかけに、いつの間にか取って来ていた新聞を広げていた凪はああ、と言いながら読みかけのそれをカウンターに置く。
「なに、ここに来る連中からすればいつもの事だし、そのままでいいよ。
風邪ひかないように、何か掛けてあげればいい」
「そう。
じゃあ、こいつはこのままにしておいて……ぼくは仕込みを……」
「しなくていいから、寝て来なさい」
仕込みをしてくる、という言葉を最後まで言わせず、凪はきっぱりとこう言い切った。
「マスター、でも」
「寝てないのは、蓮も同じだろう? なら、ちゃんと休まないと。
雇用主としても後見人としても、その状態で仕事させるわけにはいかないよ?」
言い募ろうとするのを更に遮り畳みかける。この言葉に、蓮は眉を下げてひとつ息を吐いた。
雇用主にして後見人。普段は余り口にしない立場を凪が出してくるのは、本気でこちらを案じている時、というのは蓮もわかっている。そしてこれを出して来た時の凪が絶対に譲らないのも、長い付き合いでわかっていた。
そうでなくても家族を亡くして独りきりになった幼い頃から面倒を見てくれている凪は、蓮にとっては数少ない頭の上がらない相手だ。
だから。
「……わかったよ、兄さん。
少し、休んで来る。忙しくなったら、起こして」
掛けていたエプロンを外して素直に頷く。この返事に、凪は満足そうな様子で一つ、頷いた。
それから、いつもより少しだけ遅れて『夕凪』のドアプレートは『OPEN』へと切り替わる。時折やって来る常連客はカウンターで眠る空にまたか、という視線を向けるものの何も言わない。二年前から通うようになったこの青年が休日の午前中に寝落ちている姿は、既に馴染みの物となっていた。
ピアノ曲メインの店内BGMは穏やかな空気を織りなし、そんな穏やかさのまま、過ぎるかと思われた一日は。
からん、ころん、かららん。
乾いた音を立てるドアベルの音と。
「凪! 空はおるか?」
それと共に響いてきた甲高い声によって打ち破られる。
「……姫様」
遠慮というものの全くない第一声に、凪の眉がへにゃり、という感じで下がった。どこか情けないその表情に頓着する事もなく、声の主──レースとフリルとリボンをふんだんに使った、黒のゴスロリワンピースを纏った少女はカウンターで眠る空にこれまた全く遠慮なく近づいて行った。
「なんじゃ、また完徹したのか?」
幸せそうな様子に少女は呆れたような声を上げる。見た目の年齢は十代前半だが、その口調はやや古めかしい。長く伸ばした白に近い銀の髪と真紅の瞳、という外見とも相まってどこか浮世離れした雰囲気を織りなしていた。
「ええ、またです。
ですから、もう少し眠らせて……」
眠らせてあげてください、という凪の願いは、最後まで言葉にする事は叶わなかった。それよりも早く、少女が空の耳をぐい、と引っ張り、
「これ、空! 起きぬか!」
甲高い声の一喝を叩き込んでいた。
「……んにゃっ!?」
耳への衝撃と大声のコンボ、さすがにこれで起きないはずもなく、空はひっくり返った声を上げてがば、と身を起こす。
「ちょ、え、なにっ……ってー……」
すっかり慌てて周囲をきょろきょろと見回した後、空はすぐ横で自分を見上げる少女に気付いてはあ、と大きく息を吐く。
「んだよ、お姫か……」
「『んだよ』、とはご挨拶じゃな」
「るせーなー……せっかく、ゆっくり寝れてたのに……あふ」
不機嫌そうな声を上げる少女に素っ気なく返しつつ、空は大欠伸をしてから目元を擦る。まだ眠そうなその様子に少女は微かに口の端を上げた後、編み上げブーツを履いた足をゆっくりと上げた。
「……姫さっ……」
それに気づいた凪が声を上げるよりも、少女の動きはわずかに早い。優美な仕種で上がった足は空の脛に向けて、遠慮の欠片もない蹴りの一撃をお見舞いしていた。
「……んっにゃあああああ!!!!!!」
寝起きでぼんやりとしていた所へ不意の一発、避けようとして避けられるものではなく。衝撃と痛みにひっくり返った声がまた、上がった。
「……ん……んん?」
そしてその声は、二階の私室で休んでいた蓮の意識も揺り動かす。ふるり、と首を振りながら身を起こすと、長めの黒髪がばさり、と零れて落ちた。
少し緩めのタンクトップの肩が片方ずり落ちて、胸元がはだける。細く引き締まった胸の上には傷痕らしきものが僅かに見えた。
「……まったく……なんの、さわぎ……」
ぼやくような声を上げながらもずり落ちた部分を引っ張り上げて髪を整え、紐で一本に束ねる。皺にならないようにと脱いでおいたシャツに袖を通し身支度を整えると、蓮はゆっくりと部屋を出て階下へと向かい。
「……何をしている」
蹴られた方の脚を抱え込んで悶絶している空の姿に、呆れ切った声で突っ込みを飛ばしていた。
「おお、蓮か。
……なに、ちょっとした目覚ましを見舞ってやっただけじゃ」
その突っ込みに、少女がにこにこと笑いながらこんな説明を返す。蓮はちら、と凪の方を見やり、軽く肩を竦めるその様子に一つ息を吐いた。
「状況は何となくわかりましたが……もう少し、静かに起こして下さい、
この馬鹿は声だけは大きいんです、近所迷惑になります」
「…………鬼か、てめぇら…………」
辛辣な物言いに、空が呻くような声を上げるが、
「しゃっきり目覚めぬお主が悪い」
その訴えは少女──神無によってばっさりと切り捨てられた。
「あー……まあまあ、姫様も蓮も、そのくらいにしてあげて。
いくら空くんが頑丈でも、色々と限度があるから」
疲れて眠っていた所に今の目覚ましだけでも相当にきついだろうに、更に小言に挟撃されたら持たないだろう、と。そんな凪の思いが伝わったのかはわからないが、神無はそうじゃな、とあっさり引き下がってカウンター席の一つにちょこん、と腰を下ろした。
「さて……とりあえず、凪。
いつものを所望する」
「はいはい……空くんは、どうする? 目覚めのコーヒー淹れる?」
「…………頼んます」
神無のオーダーに頷きながら凪が向けた問いかけに、空はどうにかそれだけ返していた。そんな空に同情の眼差しを向けた後、凪は蓮の方を見る。
「蓮も飲むかい、コーヒー?」
「あ……うん」
苦笑と共に向けられた問いに、蓮はこくん、と素直に頷いていた。
「……で。
人の希少な睡眠時間がりっと削って、一体何の用なんだよ、お姫」
淹れてもらった目覚めのコーヒーを一口啜った後、空は神無へ向けて低く問う。
「んん……そう、急かすな」
問われた神無は平然と返した後、スプーンを動かす。真紅の瞳は、今は目の前のストロベリーパフェにのみ向けられていた。
にこにこしながらパフェを味わう姿は、それだけ見たならごく普通の少女のようにも見える。が、神無があらゆる意味で見た目通りの存在ではない事は、この場にいる者たちにとっては周知の事だった。
この町に暮らす『人外』たちの中でも群を抜いて永く生き、その力の強さ故に他からは『姫』と呼ばれている存在。それは『夕凪』の常連たちに取ってはお馴染みであり、同時に、恐れ敬う対象とも見なされていた。
パフェに集中する神無の様子に空はそれ以上言葉を重ねるのを諦め、コーヒーカップを傾ける。好物に向き合っている時の神無には何を言っても無駄、下手をすれば命が危うい、というのはここに通うようになってすぐに学んだ事だった。
故に、空は辛抱強く神無がパフェを完食するのを待ち。
「……うむ、美味であった。
苺が少し酸っぱかったのが、玉に瑕じゃったがな」
食べ終えた神無がほんの少し棘を交えた感想を凪へと向けた所で、改めて問いを投げかけた。
「で、お姫……」
「『影喰い』が湧きそうな場所を見つけた。
空、蓮、お主ら二人で潰して参れ」
問いを最後まで言うより先に、神無は空と蓮へ向けてこう言い放つ。告げられたそれに、『夕凪』の店内に緊張が走ったのは一瞬。
「……いやそれ、軽く言う事かよ」
ぼやくような口調の突っ込みがその緊張感を取り払った。突っ込みの主──空はどこか呆れたような半眼を神無に向けている。その視線を受け止める神無は全く臆した様子もなく、「問題か?」と問い返して来た。
「いや問題っつーか、その……」
気軽に言うな、あっさり言うな。言いたいのは結局そこなのだが、それが通じるようなら苦労はしない。故に、空はそれ以上何か言う代わりにはーっと大きく息を吐いた。
「ま、あいつら出てくるのわかっててなんもしないってワケにゃいかねーし。
さくっと行って、片付けてこよーぜ、蓮」
どこか投げやりな口調で言いつつ立ち上がった空は蓮を見る。蓮はやれやれ、という感じで一つ息を吐いた後、どこか面白そうに自分と空を見ている神無を見た。
「わかりました、行って来ます。
……それで、場所はどこですか、姫?」
カウンターの中から店内へと移動しつつ蓮が投げかけた問いに、神無はちらりと空の方を見る。突然の事に空はこて、と首を傾げた。
「……なんだよ、お姫?」
「ん、いや……場所は、空がよう知っておる場所じゃ」
「……俺が?」
あ、なんか嫌な予感がする。
ふと過ったそれは、直後に形になった。
「……街の、西の外れ。
今は、誰も管理しとらん神社じゃ」
知っておるじゃろう? と言わんばかりに微笑む神無の様子に。
「……うげ」
空が上げたのは、短いうめき声だった。
『影喰い』の踊る町 刻葉 翼 @tasukuroneko
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