『影喰い』の踊る町
刻葉 翼
第1話 路地裏に舞え羽と花
「深夜の路地裏には、立ち入っちゃいけないよ?」
「なんで?」
「この町の路地裏にはね、化け物が出るんだ。
……影を欲しがる化け物がね」
──そんな話を教えてくれたのは、誰だったか。今となっては思い出せないけれど。
「影なんか欲しがってどーすんのさ」
「そいつらには、自分の影がないのさ。
光に当たれば、できるのは人間の形の影。
だから、奴らは、人間が自分たちの影を持っている……と思って襲ってくるんだよ」
「なにそれ、わけわかんない」
──からん、と。
傾けた麦茶のコップの中で氷が軽い音を立てたから、確か、夏の出来事。
「まあ、覚えておいた方がいいよ。
……死なずにいたかったら、ね」
──『死なずにいたかったら』。
その言葉の意味を理解したのは、秋と冬が一回過ぎた後の事で──。
「……んにゃあっ!?」
目の前を唐突に何かが横切る。妙な声を上げつつ、とっさに後ろに飛び退いて避けたそれは、物凄い勢いですぐ横のビルの壁に突き刺さった。
「いやあの今の、マジで怖いんだけどー!?」
思わず飛ばした突っ込みに返るのは、しゅうしゅうという呼吸音のようなもの。壁に突き刺さったもの──錐状の先端を持つ、薄墨色の触手のようなものはしゅるり、という感じで引き戻されて視界の隅でゆらゆらと揺れた。
「……うわー、もともとホラー系なのはわかってたけどさぁ」
淡い月明かりに照らされ目の前で揺れるソレ──シーツをひっ被ったお化けの仮装を思わせるフォルムの身体から、タコの脚さながらに複数の触手を生やした薄墨色の異形。中に人が入っているなら頭部に当たる部分には、金色に輝く丸い光が二つ、爛々と灯っている。
こんなものがいきなり目の前のアスファルトから湧き上がって来ただけでもう、シチュエーションは見事なホラー物だろう。とはいえ、それを素直に怖がる感覚は、とっくに麻痺していた。
「っ、と!」
軽い掛け声と共に地を蹴って跳ぶ。その動きに添うように、ふわり、周囲を風の流れが取り巻いた。風の流れは繰り出された触手を受け流しつつ、距離を置いた場所への安全な着地を齎してくれる。
「さぁって、コレ、どーすっかなぁ」
ぼやくように呟いて、がじ、と後ろ頭を軽く掻く。短めに切ったくせの強い赤茶の髪、その中でも特に大人しくしない前髪を抑えるヘアピンの上で月の光が軽やかに跳ねた。
「ま、どーすっかもなんも……」
ぼやいてはいるが、本当はちゃんとわかっている。この状況で自分がやるべき事──やらなければならない事は、実に、単純明快なもの。
ひゅう、と。音を立てて周囲を廻る風が、愛用のデニムジャケットの裾を軽くはためかせた。
「……やらなきゃ、やられるんだよ、なぁっ!」
ぐ、と右手を握り締める。力を込める。拳に風の流れの一部が纏いついた。対峙する薄墨色のシーツお化けがびく、と震える。ざわ、と音を立てて触手が蠢いた。
アスファルトを蹴る音が大きく響く。スタートダッシュ、それとほぼ同時に繰り出される触手の間をぎりぎりですり抜け、シーツお化けに接近する。
「らよっと!」
掛け声ひとつ、繰り出すのは風を纏う右の拳。それはシーツお化けの、多分胸に当たる部分に食い込み、直後に解き放たれた風が衝撃を与えて薄墨色を吹っ飛ばした。飛ばされたお化けは袋小路の壁にぶつかり、べちゃり、と潰れる。うごうごとしていた触手がへなり、と動きを止めた。
「お? 意外と脆かった?」
そのまま動かなくなる姿にこてり、と首を傾ぐ。いくらなんでもあっさりしすぎてやしないか、と疑問が過るが。如何せん、物事を深く考えないのがデフォルトのため、そこを深く突っ込む事はせず。
「ま、片付いたんならいっかー。
本日のお仕事、かーんりょー、ってな」
軽い口調で言いながら頭の後ろで両手を組み、くるり、と踵を返す。一歩二歩、距離を取る背後で潰れていた薄墨色がうごうごと蠢き、一拍間を置いて触手が大きく波打った。
「……お?」
大気の揺れる気配に、肩越しに振り返る。視界に入ったのはうぞうぞと揺れながら縒り合され、一本の太い錐のようになった触手の先端で。
「っとぉ!」
文字通りの間一髪、とっさに飛び退き横の壁に張り付いたその目の前を触手が行きすぎる。行き過ぎた触手は、先端を上へと上げながら反転し。
「……んにゃあっ!?」
高い位置から真っ直ぐ、自分へ向けて落ちてきた。
「て、ま、ちょ、まっ!」
さすがにこれは喰らえない、と再び飛び退こうとするが、何故か足が動かない。何か、重たいものが絡みついているような感触にちら、と視線を向けると足に薄墨色の物体がみっしりと絡みついて動きを封じていた。
「ちっ……!」
舌打ち一つ。
上からはドリルよろしく回転しながら触手が迫る。それを操る薄墨色のシーツお化けが、きしゃしゃ、と笑うような音を立てた。
「しっかた……ねぇ、な!」
その音に重なるように吐き捨てつつ、意識をあるものへと集中させる。ふわり、と大気が揺れ、そして。
直後、ビュウ、と音を立てて風が舞った。
デニムジャケットの裾がはためく。それに重なるように薄墨色の何かの欠片を風が散らした。その舞い散る欠片を巻き込みながら、薄墨色のドリル触手が路地裏のアスファルトにどすり、と突き刺さった。
ふわり、と舞い落ちるのは──静寂。
それから一拍、間を置いて。
「……ったく……あっぶねあぶね。
触手無限増殖とか反則だろってぇの!」
袋小路よりも高い場所から、声が落ちる。シーツお化けの目と思しき金色の光点がきょろきょろと忙しなく動き、やがて、シーツお化けは僅かに身を反らして上を見た。
金色の光点が、見開かれる眼さながらに大きくなる。
ひら、ふわり。
そんな感じで、白い何かが舞い落ちた。
淡い月光を浴びて煌めくそれは──鳥の羽。
シーツお化けがきしゅ、と呻くような音を立てる。
爛々と輝く金色の光、それが見上げる先に開いていたのは、真白。
つい先ほどまでシーツお化けと対峙していた青年の背に、天使さながらの真白の翼が一対開いていた。
きしゅしゅ、と、またシーツお化けが音を立てる。
何故そこにいる、どうやって避けた。
言葉としての形は結ばないが、言いたいのはそんな所だろう。とはいえ、伝わらないからそれに対する答えはなく。
「……ったく、ここまでしなくてもいけるかなー、って思ったんだけど。
上手くいかねーの」
がじがじ、と後ろ頭を掻きながらぼやく所に下から触手が迫る。薄墨色のそれは青年に届く直前に、大気を裂いてしなった何かに弾き飛ばされた。
「……お?」
「『お?』じゃない。
手を抜いて時間をかけるな、と何度言えばわかるんだ、
惚けた声と共に首を傾ぐと、呆れ果てた、と言わんばかりの声が投げつけられた。
つい先ほどまで青年がいた路地、シーツお化けがいる行き止まりよりも表通りに近い側に細身の青年が佇んでいる。
カジュアルシャツに黒のベストとスラックス、という装いは、どちらかと言うと薄暗い路地裏には似つかわしくない印象を与えるもの。もっとも、その足元で揺れるもの──緑鮮やかな葉を備えた植物の蔓はどこにいても異端、異様という見えてしまうだろうが。
「いや、だってさー……」
突っ込みに、空、と呼ばれた翼持つ青年はかりかり、と決まり悪そうに頬を掻く。視線が泳ぎ、薄墨色のシーツお化けがその視界から外れた。その機を逃すまい、と放たれた触手はもう一人の青年の足元からしゅ、と音を立てて舞い上がった緑の蔓に弾かれる。先ほどの一撃を弾いたのもこの蔓らしい。
「言い訳は後で聞く。
……まずは、仕留めるぞ」
「はーいはい、わかってますよっと!」
「……はい、は一度でいい」
「はーい、わかりました、
棒読み口調の返事に、蓮、と呼ばれた緑手繰る青年は柳眉を寄せる。その様子にくく、と楽し気な笑い声を漏らした後、空は眼下のシーツお化けへと視線を向けた。
翼を開いた直後から、瞳の色が変わっていた。青年の名である空の色彩に。その変化は背に開いた真白の翼と相まって、天使の降臨を思わせる。もっとも、Tシャツにジーンズ、デニムジャケットという装いは天使のイメージからは大きくかけ離れているのだが。
「さーてと。
んじゃあ、ここからは本気で行くぜ?」
やや低い声音に応じるように、空の周囲に風が渦を巻く。先ほどまでのふわりとした柔いものではない──切り裂く鋭さを帯びたもの。先に吹き抜け、触手の拘束を切り裂いた風と同じだ。
「最初から、そうしろ。
……まったく」
ようやく本気を出し始めた空の様子に呆れたような声を上げつつ、蓮もまた手繰る緑に意識を向ける。緑の蔦の上に六枚花弁の紫の花が幾つか開いた。
静寂が、路地裏に舞い落ちる。
細い糸が張りつめるような危うい均衡が空間に満ち、そして。
……きしゃぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!
シーツお化けの立てる奇声──否、咆哮がそれを打ち破った。
薄墨色がぶるぶると震え、触手が上と横へ向けて爆ぜるように伸びていく。先ほどまでよりも明らかに、数が多い。
「……こーゆー大盤振る舞い、いらねー!」
下から迫る無数の触手に叫びつつ、空は周囲を巡る風に意識を向ける。風はその意を受けて舞い、迫る触手を次々と斬り払った。
「こうなる前に仕留めなかったお前が悪い!」
その叫びに冷静かつ的確な突っ込みを飛ばしながら、蓮はす、と手を上に差し上げる。応じて動く緑の蔓が迫る触手を迎え討ち、その動きを悉く封じて行った。
「……捕らえろ!」
薄墨色を緑の奥へと飲み込みつつ、蓮は差し上げた手を振り下ろしてシーツお化けを指し示す。それに応じて緑の蔓は数を増やし、触手を押さえ込みながら本体へと迫った。
そうして緑を手繰る蓮はほとんどその場から動く事なく、防御も全て蔓任せだ。故に、蔓が抑え損ねたものがあれば、それを阻む術はない。
──緑の束縛をぎりぎりでかわした触手が蓮へと向かう。
「……っと!」
上空からそれに気づいた空は右手を横一文字に振り切った。応じて生ずるは、鋭い風の刃が二筋。それは唸りを上げて大気を裂き、触手が蓮に到達する直前に切り払った。
長めに伸ばして一本に束ねた蓮の髪が、風の流れに揺れる。
風の感触に僅かに目を細めつつ、蓮は己の為す事──シーツお化けを押さえ込む事に、全力を向けた。
緑の蔓が薄墨色にぐるぐると巻き付き、六枚花弁の花を咲かせてゆく。
開く花は、紫色のクレマチス。鉄線、とも呼ばれるそれは、その異名さながらの強度を持って薄墨色を押さえ込む。
「……空!」
「おうよ!」
短い声の応酬、それに重なるのは一際鋭い風鳴りと、翼が羽ばたく音。
緑に拘束された薄墨色の、金色の光点が上を見る。
「……これで、終わりだ。
還れ、『影喰い』!」
金色の光点を見返すのは、静かな色を湛えし空の色。周囲廻る風を己が右の拳に集約させた空は一つ、息を吐いた後、大気を打って急降下を仕掛ける。僅かに引いた右の腕は薄墨色と近接する直前に真っ向繰り出され、そして。
狭い路地裏で、風が──爆ぜた。
薄墨色が飛び散り、それを包み込むように緑と紫が舞う。
ひらり、はらり、色が舞い落ちる。
薄墨色は大気に溶けるように消え失せ、路地裏のアスファルトの上には緑と紫だけがふわりと落ちた。
静寂が刹那、その場に満ちて。
「……いよっし、今度こそ一丁上がりーっと!」
直後に上がったお気楽な声がそれをどこかに吹っ飛ばした。どこまでもお気楽な空の様子に蓮はきつく眉を寄せ、それから。
「……はしゃぐな、馬鹿空」
素っ気ない一言と共に、べし、と空の頭を叩く。完全な不意打ちに空は前につんのめった。
「んだよ、いってーなー」
「当たり前だ、痛いようにやった。
……それより、早く引き上げるぞ、少し騒ぎ過ぎた」
「あれ、そ? んじゃ、さくっとお暇しないと、か」
路地の入り口に当たる方を振り返りつつ声を潜める蓮の様子に、空はこちらも声を潜める。真白の翼が一度羽ばたき、溶けるように姿を消した。
「まったく……お前が手を抜かなければ、もっと静かに狩れただろうに。
大体、お前はだな……」
「あー、はいはい、わかったわかった。
……お小言は帰ったら聞くから!」
「……その言葉、忘れるなよ」
うんざり、と言わんばかりに小言を遮る空の言葉に、蓮は一際低い声でぽつり、と呟く。それに、あ、ちょっとやばったかなー、と思いつつもここで話を続ける気はなく、空は足早に路地裏を出ようと歩き出す。蓮は大げさなため息を一つついて、それに続いた。
二人が立ち去った直後に吹き抜けた風が、残っていた緑と紫をどこかへと運び去る。
騒々しくなっていた路地裏には再び、月光が差し込むだけの本来の静けさが戻っていた。
──その町の路地裏では、深夜に人ならざるモノが踊る。
──人を殺めて、その影を奪うモノと。
──それに殺められ、人でなくなったモノたちが。
──そこにあるのは、異端と異形の織りなす、『命』をかけたものがたり。
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