江戸前のメロス

@track_tensei

江戸前のメロス

 メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の大名を除かねばならぬと決意した。メロスは江戸っ子である。待つことが大の嫌いで、非常に気が短い。そして寿司が何より好きである。寿司の魚は鮮度が命。光り物は足が速いが口癖で、寿司は江戸前が一番だと思っていた。

 メロスには竹馬の友がある。セリヌンティウスである。ある時セリヌンティウスは言った。


「二日もすれば港から村の寺へ魚が届く。そこで新鮮な江戸前寿司が食えるぞ。」


 メロスはしばらく考えて答えた。


「いや、考えてみれば港で魚を捌いて食えば、それが一番新鮮のはずだ。」


 メロスには道理がわからぬ。メロスには父も、母も無い。女房も無い。江戸の側には羊もいない。メロスは村の遊び人である。妹に養って貰い、遊んで暮らしてきた。けれども、美食に対しては人一倍敏感であった。

 セリヌンティウスは止めろと言ったが、メロスはすぐに出発した。初夏、満天の星である。

 メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、港へ到着したのは、翌る日の午前。陽は既に高く昇って、漁師たちの多くは、すでに沖で仕事をはじめていた。

 港に残っていた漁師が、よろめいて歩いて来るメロスの、疲労困憊の姿を見て驚いた。メロスは漁師にうるさく質問を浴びせた。魚はどこにある。採れた魚はどこにある。


「さっき村の者が運んで行ったが。」


 飯も食わずに飛び出したメロスは、空腹と驚きの余りにその場で気絶した。

 目が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。メロスは南無三、寝過したかと跳ね起きたが、眩暈を感じ、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、寿司を求めて韋駄天足、ここまで踏破して来たメロスよ。真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。

 神も照覧、仏も御覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。ああ、できる事なら私の胸を断ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。誠と信念の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は自らを欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない云々。

 長らく不貞腐れて転がっていると、ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。魚を食すことへの希望である。

 斜陽は赤い光を、松の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。料理されるまでには、まだ間がある。私は、新鮮な魚が食したいのだ。私は、信じている。体裁なぞは、問題ではない。不貞腐れた事は言って居られぬ。私は、食わなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! メロス。


 路行く人を押しのけ、跳ねとばし、犬を蹴とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の旅人と颯っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。


「いまごろは、あの魚も、料理されているよ」


 ああ、その魚、その寿司のために私は、いまこんなに走っ ているのだ。その魚を料理させてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。誠と意志の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。メロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。見える。はるか向うに小さく、村の寺が見える。寺は、夕陽を受けてきらきら光っている。

 メロスは疾風の如く寺に突入した。


「待て。その魚を食してはならぬ。メロスが帰って来た。いま、帰って来た」と大声で寺にいた群衆にむかって叫んだ。そこは妹の結婚の式場であった。すでに魚は客に振る舞われ、妹は徐々に青ざめてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、群衆を掻きわけ、掻きわけ、


「私だ! 食すのは、私だ。メロスだ。その寿司を食うべき私は、ここにいる!」


 と、大声で叫びながら、ついに卓上に昇り、皿に齧りついた。群衆は、どよめいた。不逞な奴。ゆるせぬ、と口々にわめいた。しかし、魚は食べ切られた後だったのである。


「セリヌンティウス。」


メロスは眼に涙を浮べて言った。


「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、君が若し私を殴ってくれなかったら、ここにいる立場さえ無いのだ。殴れ。」


 セリヌンティウスは、式場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから、腕に唸りをつけてもう一度頬を殴った。そして黙ったまま、もう一度殴った。群衆も腕を振り上げた。

 メロスは逃げ出し、妹はおいおい声を放って泣いた。

 賓客であった大名ディオニスは、群衆の背後からこの有様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに卓に近づき、逃げるメロスの金の玉袋と、残された魚の皮を交互に見て、こう言った。


「なるほど。あの逃げ足を追い越したのだから、確かに、光り物ほど足が速い」


 言われて、メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の大名を除かねばならぬと決意した。

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