廻葬

すぴか

 あれは吐息も白く濁る冬の日であった。

 凍える身に愛用の外套がいとうを纏わせ、眩い白銀に足跡そくせきを刻んでいく。一つ進めば心地の良い鳴き雪なきゆきが聴こえ、儚く散るように街に溶け込んでいった。


 余が不老の誓いを交わし、三度目の師走を迎えた頃。時空を旅する奇妙な帆船は、我が祖国である独逸どいつに停泊していた。

 街並みはすっかり変わっており、大好きだった玩具屋おもちゃやの看板は下げられていた。その代わりと言わんばかりに、隣の空き地だった狭苦しい一角に、小洒落た酒場がひっそりと建っている。

 視線を泳がすたび、見知らぬ土地に踏み入れてしまったかのような錯覚に陥ってしまう。だが、あの日の余は潰れた玩具屋も、小綺麗な酒場も心底どうでもよかった。

 余が求めていたのはそんな些細な変化ではなく――愛する片割れとの再会。それだけだったのだ。


 暫し歩き続け、気が付けばもうじき日が沈むという頃合になっていた。今日も会えずじまいかと落胆し、道途を引き返そうとした、その時のことだ。

 耳障りな羽音。喧噪の巷でも余の耳にしかと届いた音。

 余は立ち止まり、そして惚けたとぼけたように小首を傾げた。


 はて、こんな息も凍る日では、働き者の虫たちも巣の中で暖を取っているはずだが――と。



 余は羽音を追いかけた。一年と九か月の間、幾度となく聴いた哀しい音を、必死に。

 息も絶え絶えに走る。そうして辿り着いた先には、朽ち果てかけた大廈たいか一棟ひとむねあるだけだった。

 忌々しい蟲の羽音は近く、余は少しばかり後悔の念に駆られた。

 独りでは蟲を狩ることもままならない。独りでは救うことなどできない。余は独りでは何もできない無力な人間なのである。

 だが、余が引き返すことはなかった。愛する古巣の民たちが、今も尚、止まらぬ感情に苦しめられているのだ。放っておけるわけがなかった。


――其れでも帰るべきであった。真を知らぬほうが幸せであった。

 其の先に、此れ迄のような生易しい世界など広がっていないというのに。

 だが、ちんけな余がじつを知るわけもなく。一つ、また一つと屋上への階梯かいていを登っていった。そして、赤錆に塗れた戸の手を捻ってしまったのだ。

 

 紅柑子べにこうじに染まるシャルロッテンブルクの街と、金網の先の酷く窶れたやつれた己の片割れ。怒号する非難の声と、神に縋る愚かな叫び。

 嗚呼、変わってやりたかった。美しい陽の光に包まれ、宙に舞う姿はあまりにも残酷な景色であった。

 鮮やかな走馬灯まわりあんどが駆け廻る。まるで自分の最期の時のように。片割れとの記憶は、どれもつまらないものばかりで、思わず笑ってしまいそうだった。だが――


 そんなつまらぬ時間を過ごすことさえ、もう叶わなくなってしまった。



 其れからのことは記憶にない。気が付けば船の炊事場でやいばを首に宛てがい、左腕を緑髪の少年に掴まれていた。


「やめろ、少し落ち着け……」


 少年の呼吸は乱れており、焦燥とした表情を浮かべていた。


「……君、は」


「はぁ……気が付いたか」


 葡萄の実のような、鮮やかで、そしてどこか淋しげな彼の瞳を見つめる。其れだけで蒼惶そうこうとしていた心が和らいでいくのを感じることができた。

 少しして、だいぶと落ち着いてきたかと思えば、小さな疑問が脳裏にぽつぽつと浮かんできた。


 この少年は何故、余の腕を握っている?

 何故、余は刃を手にしている?


 恥ずかしいことに、あの時は酷く混乱していて、状況を上手く飲み込むことができていなかった。

 いい大人が其のような調子では、幼子に示しがつかないではないか。過去の自分を鼻で笑ってやりたくなる。


「此処は、船か? 余は何故炊事場で……」


「……お前、傷だらけで帰ってきたと思ったら、突然その場で泣き叫び始めたんだよ。鼓膜が潰れそうだったし、ちょっと声掛けたんだけど、無視してキッチンまで走り出して……それで、嫌な予感がして、追いかけてみたら包丁を首に……」


「嗚呼……成程……」


 刃を下ろし、余の腕を掴む手を優しく払う。其の時の彼は、大仕事で疲れ果ててしまったような顔で此方を見ていた。


「……すまない少年、面倒をかけてしまったな。もう大丈夫だ」


「いや、まあ……何があったか知らないけど、あまりその時の感情だけで――ううん……とりあえず俺はもう戻るから」


 少年は立ち上がり、傍に置いていた一冊の本を抱える。そして静かに部屋から出ていった。

 此の時に名を尋ねておけば良かった、と今では思っているのだが、片割れを――双子おとうとを失った、守れなかった事実を受け入れるのに必死であった余に、そんな暇はなかった。




「あっはっは、矢張り何度思い出しても滑稽な話だなぁ」


「……お茶飲んでる時にする話じゃないと思うんだけど?」


「余のとっておきの笑い話であるぞ! もっと笑ってくれても良いではないか……」


 あの日の少年――三栞 涼とは今では時偶ではあるが、共に茶を嗜む仲となっていた。


「僕も――涼が出ていった後かな。君を見つけたけれど……僕たちがその話を笑い話だ、って受け取るのは流石に無理があるよね」


 この艶やかで淡い金髪を持った美青年、ハニー……もといラファエル・羽生も茶会の仲間である。彼は涼が炊事場を去った後、呆然としていた余に話しかけてくれた青年である。

 彼のがなければ、こうして誰かと茶を飲むことなどなかっただろう。此の二人には感謝してもしきれぬ。


「それにしても、ジークから話し始めるなんて珍しいね、しかもあの日の話なんて」


「嗚呼……六年の間、ずっと考えていたことが昨日漸くようやくまとまってね。いやぁ、長い悩みであった……」


「へぇ、ハニーお兄さんに話してない悩み事があったんだね? 言ってくれてもよかったのに」


 紅茶の水面みなもに映る自身の顔を見つめ、そして一つ小さなため息を吐いてみせる。


「いいや、本当にどうでも良いことなんだ。だから、其の悩みが解決した記念に一つ笑い話を披露してやろう、と思ってね」


「だから笑えないんだよなぁ……」


「ふふ、まあ話してくれるならいくらでも聴いてあげるからね」


 嗚呼、いつも通りの二人との時間だ。余はこの時間だけは少し長くても良い、なんて思ってしまっている。

 だが屹度きっと、此の時間は永遠には続かない。不老の契約は結局は意味を成さないのである。何故なら――



(……我らは世界に嫌われているのだ)


 我らを嫌う世界はいつか、蟲を扱い、我らを殺しに来る。此の帆船を時空の彼方へ沈めてしまう。

 この船の者たちは皆、選択を誤ってしまった。契約なぞ、してはいけなかったのだ。

 皆、世界に――嫌われてはいけなかった。



「はぁ……いや、楽しかった。徐々ゲエムの時間だし、今日は此の辺でお暇するよ。また、楽しい話を聞かせておくれよ。じゃあ……」


「またね」

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廻葬 すぴか @Supi_ca

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