第3話 ばちあたり

こんな事になるなんて、思ってもみなかった。


まず、目が合わせられない。

だから、ずっと俯いて下のテーブルの模様をただぼんやりと眺めていた。

先生の銀髪の髪が揺れて、先生が赤いソファーに腰を掛けている。喫茶店に連れ込まれて、ここに俺も腰を掛けている。昼間だけど窓が小さく、その光の大半は入ってこない。薄暗い店内で、いつでも夜の雰囲気を演出しているのだろう。その中で各テーブルを照らすためのレトロなランプが灯されて、天井には梁があるお洒落なところだった。若者客やカップルで訪れている人が多く、少しの雑音と店内のBGMでよい雰囲気を作り出しているのに、それを完全に切り離したかのようなものを感じさせられる。

自分が今いる場所がまるで二人だけの世界になったような感覚にさせられて……手から滲み出る汗が止まらない。


緊張の原因は、榊原先生の落ち着きのある瞳が真っすぐこちらをずっと見つめてくるから——————それが怖かった。










その日は肌寒くて、空は厚い雲で覆われていた。灰がかった薄汚い空で、アスファルトも点字ブロックも全部が薄暗くどんよりと沈んで見える。

髪を切ることをしていないから、今は肩につくくらいまである。魔術の力で身支度を終わらせて、髪は高い位置で結ってある。ポニーのしっぽのようにゆらりゆらりと揺れているから、長い黒髪を見てソウマが女の子みたいだと言って喜んでいたなと、ふと思い出す。


魔界へ行く前の自分は、ここからよく魔術省本部へ通勤していたものだ。その道は全てが懐かしくて、今でもその幼なじみが死んだことをまだ受け入れられずに、アイツがいた景色を脳内で再生しながらその道をゆっくり歩く。


魔術省黒魔術課を辞職して、そろそろ1か月が経過する。

ずっと、自室で閉じ籠っていたから外の世界を歩き回るのは随分と久しぶりである。




3週間ほど前、悪魔との契約を済ませ、ついに黒魔術の実験に手を出した。悪魔に身体を乗っ取られるようなことはなかったが、身体の負担は酷くかかった。

今は、悪魔を自分の身体に取り入れて共存する形で契約を結んでいる。悪魔は悪魔で、魔界でしか暮らせない生き物だから、死なないために俺が飼わなければならない。悪魔の交換条件は人間の力だと言うので、実験的には非常に好都合だった。

眼球でも心臓でも、腕でもなんでも差し出してやろうと思っていたが、悪魔は弱体化が進みすぎていて、そんなものを貰っても何も使えないと訴えた。


『お前の中に住まわせろ』


と、悪魔は言った。

悪魔を生かす代わりに、どんな実験内容でも応じると契約を結んでくれた。

どちらかがそれを破った際には罰が下る。覚悟の上だった。


契約に必要な黒魔術の儀式を行い、俺はかつてない出血を体験したしそのまま死ぬのではないかと思っていた。

全てが完了した後に、鏡で自分の顔を見れば、目からも鼻からも口からも血が溢れ出していて、ついに終わったんだ…と感動した。さすがに黒魔術を使って、自分の身体で悪魔と契約を試す魔術研究家はいないので、世界初の試みだったのかもしれない。負荷がかかって術者が死亡する恐れのが非常に高いから自殺行為と言ってしまえばその通りである。


全身の痛みに耐えきれず、すぐに沈痛魔法を使ってから水で顔を洗うと、血液で見えなかったものが見え始めた。明らかに身体の見た目が変わっている。

大きな紋様が右目の下に刻まれ、右手の甲にも大きく紋様が入っている。

よく目立つ位置にそれは刻まれている。顔だったら誰でも変化に気づいてしまうだろう。とはいえ、もう誰かと呑気に飯を食うことも、気軽に遊びに行くことも、恋愛もすることはないだろうから、このまま一人で研究して死にゆく身としての覚悟が刻まれて、別に困ることは無いだろうと思った。

それほどの実験をして、自分が死なずに生きていたのは、黒魔術に対してそれだけ適応できる珍しい体質だからである。それを買われて魔術省黒魔術課の魔界調査班に抜擢されたのだ。だから、自分以外の同僚が今も生きていて、同じ実験をするとなれば当然皆にもできることだろう。




契約による負荷でできた両目の充血がようやく治ったので、たまには身体を動かさなければと、無理やり重い体を動かして、外を出歩いていた。

少し前まで前線で戦いまくっていた生活をしていたから、本能的にやらなければならない気がしてしまう。筋肉は現役時代に比べてどんどん落ちて、痩せる一方だ。1か月の間ですでに5kgは落ちてしまった。元から痩せ体質であったのに、そこについていた肉がさらに落ちてしまうなんてあんまりだ。と学生時代の自分ならがっくりと肩を落としていそうだが、今はもう自分の体重とか数字で気分が左右されることはない。もう自分の身体のことなど、どうでもいいものなのだ。

げっそりしたというか、まともに食事を取らずに生きているから、栄養面も健康面も何もかもめちゃくちゃだ。

生きる気力をかろうじて実験のために繋いだに過ぎないから。生きた屍と化している。

それでも筋肉のために運動を取り入れようだなんて、本能的に感じ取ったなんて、

この今の状況でもなお、まともな人間のような思考をしているからおかしい。


どうせこれから死ぬんだし、

今何をしたって意味が無いだろう。


と、頭の中でもう1人の自分がそう言って、酷く冷めた目でこちらを睨んでいる。まともぶるなよ、と嘲笑っていた。

自分でも自分の行動がよく分からない事がある。毎日毎日なぜ今日は死なないのか考え、



————やっぱりもう楽になってしまおうか、

なんて考える。



考えを放棄して欲望のままに生きるなら、迷わずその選択をする。

しかし、そうもいかない。まだ魔術省にいた頃の役目というか、責任を感じてしまう。ここで楽になる事を選んだら、死んでいった同僚達の意志を踏みにじるような気がして、許せない……。


自分が自殺したあとのことを思うと、心配になる。誰かが死の確認をしに来て、火葬して終わりじゃない。

そんな普通の人みたいな扱われ方はされないだろうということだけ理解している。

この身体だけでも全然、何百億という値が付きそうだ。

やはり、自殺は許されない……。


勝手に死ねば魔術省も政府も黙ってないだろう。この身体は黒魔術を扱える、日本の武器なのだから……。いざとなればどんな手を使ってでも拘束なり強引に死なないようにするだろう。もしかしたら既に身体に小型カメラでも追跡魔術でもかけられているのかもしれない。自宅に国家権限を使った監視が張り巡らされていても全くおかしくは無い。

今こうして閉じ籠っていた部屋を抜けて外を彷徨っているのも、監視されている感覚を少しでも振り払うためだったのかもしれない。



どうせ死ぬなら、最後は研究に捧げよう

……なんて言葉は綺麗事をただ並べただけで。


本当は、身体の方は沢山、死にたいと訴えてくる—————。


—————腕や首に巻かれた包帯。その中にある無数の傷は何度も何度も葛藤しては、少しだけでも……と、刃物を滑らせたもの。

死んじゃいけないことは頭では理解している。でも、それは理性で懸命に押さえつけているだけであって、いずれ何かの拍子に崩壊してしまうのだろう……。このままだと危うい……。

同じことを何度も何度も繰り返し、傷の上にまた傷を重ねて、日に日に目も当てられない身体になっていく。ここまで堕ちるのに、そう時間はかからなかった。本当にあっという間に…。気が付いた時には、という感じだった。


それを今日は包帯で隠した上に大きなパーカーに身を包んだ。

顔と手元にある紋様を隠し忘れたが、これに関しては世界でも限られた人間にしか分からないので、大して気にしない。魔術による契約など黒魔術を知らなければ存在すら理解されない。非術者はもちろん、魔術士でさえも紋様を見たところでただの刺青としか考えられないだろう。

逆に、これを見て血の気を引いたような顔をしたり、何か知っているような素振りでも見せれば、そいつは同業者ということになるので、炙り出しに使える手段になる。


ひたすらに散歩をする。目的地なんてものは特に無く、ただ渋谷の街をふらりふらりと歩いていた。

虚無の感情で、目は死んだように虚ろだった。青ざめた酷い顔に濃く残った酷いクマ。睡眠なんてまともにできているはずもなく、健康とは程遠い日常を繰り返す。

どこに向かおうかも考えず適当に信号で立ち止まる。

有名なスクランブル交差点だ。

ただ時間が過ぎて痛みが癒えるのを待つかのように、意味もなく突っ立っていた。

街ゆく人々は平日の昼間らしく、仕事をする人間の格好をしている。女性も男性もオフィスに向かうのだろう。自分はとっくに仕事も何もないから、毎日が引きこもりニートであるが、経歴だけ見れば随分と働いたと思う。金には困らないくらい金はあるし、あとはもう働かなくても良い。そしてあとは死ぬまで実験を繰り返す…なんて完璧なのだろう。


スーツに身を包んだ人の中には大半が一般人だが、時々魔術士も混ざっている。魔術士は魔術士にしか見分けることが出来ないと、よく言われるもので特有のオーラを我々魔術士は感じ取ってしまう。魔術が扱える者から出るものはどんなに隠そうと思っても隠し切れない。魔術高専時代、渋谷スクランブルで何人魔術士がいるのか当てるゲームをして同級生とよく盛り上がったことを思い出す。今でもここ100人くらいの中でざっと数えてみたが、魔術士らしき人物は15人ほどいた。

見たらわかる。面構えが違うから。スマホ片手に操作しながらも魔術士っぽさはやっぱりあるみたいだ。

信号が青になって、人々が一斉に歩き出す。つられて自分もふらふらと歩きだす。都会の人間はみんな歩くのが速いとおのぼりさんは言うが、今は自分が弱っているから、周りがすごく早足に見える。自分も少し前までそっち側の人間だったのになぁとほんのり自分の劣りを感じ虚しい気持ちになる。

よく混んでいて、背中に手が当たったり、膝がぶつかったりして転びそうに何度かなった。前の人にも気を付けなければ思い切りぶつかってしまいそうで、少し弱っている人間には世界が速すぎた。

目が回りそうまである。

本当に調子が悪く、身体はおかしくなってしまったんだなと、ぼんやり考えていると、


「君、大丈夫?」


と中年の男性に後ろから声をかけられた。

どうやらふらつきすぎたところを目撃されていたらしい。こんな大勢人が歩いている中で、こんな自分に気を配るなんて、どんなお人好しなんだろうと、振り返り、


「すみません…」


と俯きながら目も合わせずに一言謝った。

すると今度は肩に手を掛けられて、「君……!霧島くんなのか…?」とやや大きな声で引き留められたので、思わずビビって見上げてしまう。


「……っ!」


目と目が合った時、俺はハッとした……。

そこに立っていたのはグレーのスーツに身を包んだ、見慣れた大人の顔。


「っ、榊原先生—————……」


顔を見て、その名前を口にしたのと同時に口元に手をやっていたので、自然と目に入ったのだろう。

榊原先生は眉間にしわを寄せて、バッ!と俺の腕をつかんだ。


「………ッ!!!!」


折れそうな勢いで強く掴まれた右腕が痛い。

先生の直感には大抵叶わない。

目を離さず、じっとそれを見つめては俺の顔を見た。


「……大丈夫かい。霧島君。」


先生がそう一言発する。

恐らくその言葉には複数の意味が込められている。

それだけでも、心臓がバクンバクン脈打ち、

サーッと全身の血の気が引いていったのを感じた—————。

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霧島カイトは掴めない 桜田なな @nana-lisa

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