書評3.「語ること」と「伝えること」の違い
前の書評で、「自分のために言葉を使う」ことの魅力について書きました。
しかし言葉の主な用法は、誰かに向けて使うことです。
書くときも、話すときも、相手がいるのが普通です。
語りかける言葉というのは、それだけで耳を引き寄せます。
小説はたいがい物語です。
物語は「ものを、かたる」ものです。
人は太古より「ものをかたって」きました。
「ものを、かたる」という、その行為自体に、人を引き寄せるパワーがあります。
焚火の傍らで長老がかたる物語は、世代を超えて、時の洗練を経た「選ばれし物語」でした。
安心して、そこに込められた意味や重みを咀嚼する態度で聞けました。
しかしネットに散逸する無数の物語には、なんとも千差万別のバランスがあります。
物語のあり方は多種多様で、接し方もまた一筋縄ではいきません。
書評3.『空蝉(うつせみ)』 作者 野沢 響
https://kakuyomu.jp/works/1177354054882489768
美しい語り口は、ただそれだけで魅力的だ。
小学4年生だった当時を振り返りながら語られるこの『空蝉(うつせみ)』という物語は、その語り口の魅力だけで、物語を読む楽しさを教えてくれる。
「もの」を語り、「こと」を語り、「おもい」を語る。
では、その丁寧な語り口でいったい何が語られたのか。
これが見事に、「わからん」のである。
語るべきことをおそらく語り終えているのだろうけれど、そこでいったい何が起こっていたのかが、さっぱりわからない。
その理由の一端には、これは「わからん」ことを語っている小説だから、ということがある。
この小説では、小学校4年生の主人公の視点に徹底的に寄り添って、物語がかたられる。
なので、小学校4年生にとって「わからん」ことは語られない。
小学校4年生にとって「わかる」現実だけが丁寧に語られた結果、読者にもそれ以上のことは「わからん」状態になる。
大人になってから子供のころの忘れられない記憶を語るときにありがちな、「今から思えばね」という解釈も差し挟まれない。
「子供の視点だから、わからない体でかいているけれど、まぁ普通に読者も大人ならその背景ぐらいはなんとなくわかるよね」みたいな話でもない。
ただただ、小学校4年生にとってわかったことだけを、丁寧で緻密な語り口で語っていく。
背景はさっぱりわからない。
なので読後感としては、「当時の私にはわからない出来事だったけど、大人になってもまだわかりません」という、誰にもわからない出来事について、丁寧に丁寧に聞かせてもらったという、不思議な気持ちが残るのである。
きっと読み終わる頃には何か「わかる」だろうと期待していた私としては、ずいぶん戸惑った。
語り口が丁寧で魅力的で、しかもあらゆる思わせぶりな仕掛けがあちこちに配置してあるので、勝手に信頼をおいていたのだ。
「何か腑に落ちるものが、どこかに用意されているに違いない」と、勝手に思い込んでいた。
見事に肩透かしを食らってズッコけてみて、なんとなくインターネットの無闇に茫漠とした広さを感じたのであった。
まぁ、出版されている物語にも、いったい何の話だったのかさっぱりわからないものはたくさんあるのだけど。
書評3.『空蝉(うつせみ)』 作者 野沢 響
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