書評4.天狗はわかってあげない
我々は社会の中で、忖度しながら生きています。
そして、忖度するというのは、疲れることです。
サルですら、群れの中にいる間は一定のストレスにさらされます。
サルも我々も群れで生きる以上、他の個体との関係は生死にかかわります。
自分の立場を危機に陥れないよう、注意しながら慎重にふるまう必要があるので、それは疲れるわけです。
ならば群れを離れて暮らせばいいじゃないかという話になりますが、もちろんそれはそれで別の危機があります。
天敵に襲われる確率が高まったり、遠い距離を移動するのに不利になったりするわけです。
人間も、サルも、単独でいるリスクと、群れでいるストレスと、そのバランスを計算して、ちょうど生きやすい規模の集団をつくります。
その点で、天狗は我々と違います。
単独でちょいと簡単に生きていく能力を持っているために、他の個体に忖度しなくて済むわけです。
書評4.『趣海坊天狗譚』 作者 みりあむ
https://kakuyomu.jp/works/1177354054885716644
とても、とても面白い。
図書館で借りてきた本を読むときのように、心穏やかに安心して最初から最後まで楽しんでしまった。
と書くと、まるで図書館よりもカクヨムを一段下に見ているようではある。
ただ、私としては「楽園というのはきっとひんやりと静かな図書館のようなところに違いない」と思っている類の人間なので、これはある程度、仕方ない。
もはや生い立ちの問題なので、ここはご容赦願いたい。
この『趣海坊天狗譚』 という小説、まず魅力的なのは、趣海坊の人物造形だ。(「人物」ではないが)
趣海坊は人ではないので、世事やしがらみを知る必要がない。
知る必要がないから、会話をしていても相手のことなど慮らない。
そこがよい。
ただ自分が思ったことを、そのまま言う。
この態度から、学びたいなと思う。
別に相手がどうであろうと自分の都合には関係がない時、相手の立場や心情など、配慮する必要もないわけだ。
(まぁ人の世というのは恐ろしく複雑だから、どこで何がめぐりめぐってくるかわからないから、人間はたいがいどこでも誰にでも、配慮しなければリスクはあるのだけれど)
さらに目覚ましいのが、象徴の扱い方。
芸術が人を喜ばせたり、何らかの美を感じさせる時、だいたいそこに何らかの秩序やルール、法則というものがある。
音楽に秘められた数学的バランスであったり、絵画に秘められた構成の比や色彩同士の関係であったり。
文学の場合は、象徴の配置に、しばしば美しさがある。
言葉というものはそれ自体が象徴であり、その言葉を操作して、さらに上位のメタ象徴とでも言うべき象徴が提示される。
そのメタ象徴がいくつも並ぶことで、さらに示されて伝わる意味があり…。
という風に、優れた文学はできている。
たとえばこの小説で「米!」というものがバシッ!と置かれた位置。
かつての米といえば租税の単位の一つであり、経済の中で通貨にも近い価値を持っている。
何より、農耕の作物なので、たくさんの人々の協力と労働の結果として実るものだ。
米をめぐって、人々は役割分担をし、資源配分をし、利益配分をし、政治的駆け引きや価格調整を繰り広げ、祭りや祈りをささげ、泣いたり笑ったり怒ったり悔んだりする。
つまり、人の世のしがらみの象徴なのである。
で、しがらみの象徴であるこの「米」を趣海坊が食うと…。
「ばかばかしい。食うものひとつでそいつの価値など決まるものか」。
などと趣海坊はうそぶく場面もあるのだけれど、複雑なこの世では、どこで何がめぐってくるかわからない。
そういう法則を全部覚えられるように人のアタマはできていないから、しばしば知恵を象徴に込める。
たとえば肉食(にくじき)の禁止という戒律一つにしても、栄養価や、そもそも万物のエコロジー的な流転を考えれば、たしかにばかばかしいと言えばばかばかしい。
しかし古くからの教えや戒律で禁止されているような場合、人はやはりその行為に対して慎重になる。
もはや謂れや所以を見失われた伝承や戒律ある場合、そこにどんな知恵と背景が込められていたかわからないからだ。
それに逆らってみたら、どんな結果になるかわかったものではないから、恐ろしい。
という、「戒律や慣習には知恵が込められているから、おいそれと破るべきものではないですよね」、という話が一方にありつつ、「それでもやっぱり、おかしい決まりや慣習は変えていかねばあかんですよ」、という話も他方にはある。
戒律や伝承の「逆らえない」という側面は、人の行動を制御したり統治したりする上では非常に便利なものでもあって、時には恣意的に、誰かにとって便利に都合よくつかわれている場合もあるからだ。
「差別」というのはその一種とも言える。
ある一定のレッテルを貼って一部の人々の行動を制限すると、それ以外の人々にとって、非常に便利なものだったりする。
しかも、それ以外の人々の中でも、さらに限られた一部の人々にとってはなおのこと便利だったりする。
そうすると、その利益を享受する人たちは特権を手放したくないから、上手いことその制度を慣習化したりする。
その際にも象徴が上手く扱われて、いつの間にかその慣習を裏付ける物語や意味づけがされていたりする。
やがてあまりにもその慣習が社会に根付くと、人にとって当たり前の文化のように社会の中に深く深く根付いて、もはやそれ以外のあり方など考えられなくなったりするものだ。
それに抗い、不正を浮き彫りにし、人々の思考に深く根付いた慣習を対象化して目に見えるようにするのも、しばしば文学だ。
すでにある慣習や文化の中に埋め込まれた物語や意味づけを構成している象徴について、新たな角度から語り直して、これまで見えていなかった別の意味を見えるようにする。
さらには、それらを正しく扱える方法や、解体する方法を見つけ出す。
象徴を適切に扱うことで、ぼんやりと眺めているだけではたどり着けない地点まで、人の思考を連れていく。
(たとえば『趣海坊天狗譚』では、趣海坊が一種のトリックスターとして、慣習や文化を象徴する出来事や言葉に対して「なぜ?」と問いかけていく)
徳本という人間は、そういうことのできる人間、だまったままでは変わらない人の世をいくらか変えることのできる逸材であって、そういう人間はなかなかいるものではない。
そういう優れた仕事をするには、人の世を深く深く見通す必要がある。
そんな徳本の姿を見て、趣海坊は気づくわけです。
人の世事がさっぱりわからない天狗が人の世で何をしても、結局は半端にしかならないのだろうと、思い至る。
そういう二人を見て、私は思うわけです。
徳本はそりゃあ立派な人間でとてもかっこいい。
だけどお気楽で怠け者の趣海坊は、気苦労も無く山で寝ながら空でも眺めて暮らして、いいなぁうらやましいなぁ。
私も天狗になりたいなぁと。
では明日、いつものように仕事に向かう私の目の前に、趣海坊が現れたら?
でもきっと、私は断れるものなら断ろうとするのだろうなぁと思います。
「俺ぁ人間でいるよ」と言ってしまう気がします。
やっぱり私は人間なのだなぁと、そこで実感します。
私が本当に趣海坊のようにお気楽に暮らせる性格ならば、夜中にこんな文章書いていないですよね。
本当に人間ってやつは、世事の気苦労が好きなものです。
書評4.『趣海坊天狗譚』 作者 みりあむ
https://kakuyomu.jp/works/1177354054885716644
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