高瀬雅也#4
計算が狂ったのは、麻里絵がいつもより早く買い物を切り上げたことだった。
そうして俺は一命を取り留めた。
病院で目覚めた俺は、体の自由が効かなくなっていた。首から下の感覚が戻ることは望めない、残念ながら、と医師に告げられた。何故助けたんだ、そう言って麻里絵を何度も詰った。
それからのことはあまり覚えていない。
気付いたら会社は退職手続きが済んでおり、自宅での介護準備が整えられていた。
この先の人生、俺はどこに行くにも何をするにも人の手を借りねばならない。一番居たくなかった自宅に縛り付けられ、あれだけ避けていた麻里絵に頼って生きるしかないのだ。自分で死ぬことすらもうできない。
そこには絶望しかなく、麻里絵に幾度となく「殺してくれ」と懇願した。
その度に麻里絵はあやすように微笑み「私にはパパが必要だよ」と繰り返した。
麻里絵に対する感謝の気持ちが芽生えてもよかったはずだ。あれだけ欲しがっていた子どもも俺と結婚している限りもう望めないだろうに、一生介護が必要な俺に寄り添うと言ってくれている。
でも、俺は心のどこかで「俺がこんなことになったのは麻里絵のせいだ」と思っていた。
麻里絵が子どもにこだわったせいでストレスが溜まり自殺未遂をした。麻里絵が自立しないからいつまでも離婚できなかった。そもそも麻里絵と結婚なんてするんじゃなかった。あの時、スーパーに行く麻里絵に付き添っていなければ俺の人生はどうなっていたのか……。どこでもいいからどこかの分岐点に戻ってやり直したい。そんなことをベッドの上で考えながら日々を無為に過ごしていた。
そんな生活に変化が起こったのは、新しいヘルパーさんがやって来たことがきっかけだった。
河村さんというその女性は俺より2歳年下のバツイチで、麻里絵とは真逆のサッパリとした女性だった。麻里絵が留守にする時は近くに住む河村さんがやって来る。俺の身の回りの世話をしながら軽口を叩いて俺を笑わせる、そんな彼女にいつしか好意を抱いていた。
とはいえこちらは一方的に世話をされる身で、恋愛なんてとてもじゃないができるような立場ではない。芽生え始めた淡い恋心はひっそりと心の奥にしまっていた。
ある日、麻里絵が役所に何かの手続きに行くと言って外出し、河村さんはいつも通り俺の身の回りの世話を始めた。
何かして欲しいことはないか、そう尋ねられたので「枕元で本を読んで欲しい」と頼んだ。
出張が多かった俺は読書が唯一の趣味だったのだ。
河村さんが選んだのは、有名な恋愛小説だった。主人公が好きな人に想いを告げる場面で、思いがけず涙が溢れてしまった。見られたくないのに涙を拭うことすらできない自分が歯痒く、いつしか号泣していた。
河村さんは本を椅子に置き、俺の涙を自分の袖で拭ってくれた。そして「感受性が豊かなんですね」と笑った。もちろんそんな涙ではないことに気付いているのに。
そうして河村さんは俺の頭を撫でながら言った。
「そういうところ、好きですよ」
それから二人きりになる時間があると、必ず本を読んでもらうことにした。そしてその感想を言い合い、時には議論もした。その時間はかけがえのないものとなった。
二人の時間を捻出するため、麻里絵に大検を受けるよう言った。麻里絵の将来のためと言いながら、勉強を見てやることもした。
みんなより数年遅れながらも、晴れて大学に合格した麻里絵は俺の身を案じながらも、新しい生活に胸を躍らせているようだった。
同時に河村さん(その頃には既に「マドカ」と呼んでいた)が自宅のリフォームを始めたと言い出した。離婚した元夫から慰謝料代わりに受け取った家らしいが、介護ベッドを置けるスペースを作ったのだと言う。
誰のため、とは聞かなかった。お互い何も言わなくても想いは通じ合っていた。
その証拠に、マドカは俺がキスしたいと思ったタイミングで必ずキスをくれた。
俺にとっての希望は彼女の存在だけだった。
麻里絵から離婚を告げられた時、やっと解放されると安堵した。
だが、麻里絵の深く黒い瞳を久し振りに見つめて、麻里絵もずっと囚われていたのだと気付いた。
突然家族を失い、自分を愛していない男と結婚し、自分が得られる新しい家族を必死に望んだ。
その結果得たのは、体が不自由で妻を思いやりもしない夫だけだったとは。
若い娘には辛すぎる人生だ。
だからこそ、麻里絵の方から俺を捨てることができて、他に幸せの道があるかもしれないという可能性に自ら手を伸ばすことができて、本当に良かった。
かつて、俺が一緒に住まないかと尋ねた時の麻里絵の返事を思い出していた。
叶うことはなかったが、あの時の麻里絵の気持ちにもっと寄り添ってやれていれば、結果は違っていたのかもしれない。
『私、うまくやっていけそうな気がする。あなたとなら』
あなたとなら。 なっち @nacchi22
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