高瀬雅也#3
俺の腕に弾かれた麻里絵がテーブルに勢いよくぶつかるのを、俺は他人事のように眺めていた。それはほんの一瞬の出来事だったはずなのに妙に長く感じられた。
テーブルの側でうずくまる麻里絵を見て初めて、とんでもないことをしてしまったのだと気付いた。麻里絵の足元には血溜まりができていた。
「いやだぁぁ」
麻里絵が泣いている。
慌てて麻里絵に駆け寄り、携帯電話で救急車を呼んだ。
「大丈夫か!?」
救急車が到着するまで声をかけ続けた。
だが、麻里絵は一度も俺と目を合わせなかった。
「お子さんは残念ですが……」
その医師の宣告を俺は病院の廊下で聞いた。麻里絵は病室で眠っている。
二日後、目を覚まし俺を見た麻里絵は俺に言った。
「おはよう、パパ」
子どものことを告げなくては。そして謝らなければ。
「麻里絵。俺のせいで子どもがいなくなってしまった。本当にすまない」
もっといい言い方があったのかもしれない。
麻里絵の表情が凍った。
「え?」
「流産したんだ」
麻里絵はゆっくり二度瞬きをし、そしてゆっくり口を開いた。
「そう」
ショックを与えてしまったかもしれないが、どうやら受け入れられたようだ。
「とにかく今はゆっくり体を休めて……」
「ねぇ、パパ。退院したらちゃんと供養しようね。そして早く私の体の中に戻ってきてもらおうね」
正直、ゾッとした。
泣き喚くなり落ち込むなりするならまだ理解はできるし寄り添うことだってできるかもしれない。しかし、流産を告げられてすぐ次の妊娠のことを考えるなんて。
つまり麻里絵にとって子どもも俺同様家族のピースでしかなかったのか。
麻里絵の体は徐々に、だが確実に回復していき、ついに退院の日を迎えた。
家に戻ると麻里絵は早速高校の退学手続きを始めた。何度か説得したが「今の私に必要なのは学校じゃない」と言って聞かなかった。
退学手続きが完了すると麻里絵の強い要望で亡くした子の供養をしたが、寺からの帰り道でまた「ねぇパパ、子どもが欲しい」と言い出した。
まだ早いと言ったが、釈然としない様子だったのが空恐ろしかった。
そんな生活も半年を過ぎ、麻里絵の異常な子どもへの執着も落ち着いたかのように見え始めた頃、新居が完成した。
タイミング悪く一ヶ月の海外出張に行くことになった俺は、麻里絵に引越しの段取りを全て任せることにした。
出張から戻り、麻里絵の待つ新居に足を踏み入れると、そこには完璧な『家庭』が待っていた。キレイに整えられたリビング、真新しい家財道具、そしてあるじのいない子ども部屋。『俺の家』ではないと強く感じた。
いるべきではない場所にいる不快感、そして執拗に俺を『パパ』と呼ぶ麻里絵の執着にストレスが蓄積していくのを感じていた。
それがある日とうとう仕事のミスとして表れてしまった。
防げるミスだった。だが結果的にそれが元で、俺は閑職に追いやられることになってしまった。
やりがいのない仕事に同僚たちの憐れむような視線、そして何より異動になったことにより帰宅時間が早まったのが一番辛かった。
給料も下がったのにローンを払わなければならないので、満足に寄り道することもできない。
『ねぇパパ』
繰り返されるその呼びかけを止めさせる気力すらなくなっていった。
その頃には正常な判断能力もなくなっていたのかもしれない。ただそこから、日常から逃げ出したかった。
そうして俺は子ども部屋で首を吊った。
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