あの美しい、穏やかさに満ちた朝

御手紙 葉

あの美しい、穏やかさに満ちた朝

 僕は朝、とても心地良い木漏れ日に目を覚ました。窓のすぐ前にある木の枝の隙間から光が降りていて、僕の顔を照らしていた。

 まるで光が螺旋状に折り重なっているように、その木漏れ日は透き通っていた。この木漏れ日を見る度に思い出す。あの美しい、穏やかさに満ちた朝のことを。

 でも、その朝をもたらす僕の宝物はどこかに飛んで行ってしまった。今ではどこかの街の片隅で風と共に漂っているかもしれない。そして、綺麗な声で囁くのだ。

 僕の名前を。

 下らないことを考えていたことに気付き、僕は頬を軽く叩くと、すぐにベッドから立ち上がって居間へと赴いた。

 夏だが涼しい空気が廊下に溢れていて、僕はそっとドアを開いて中に入った。明かりは点けなくとも、カーテンから零れる朝の光が居間を照らしていた。それはまるでシーツに染み付いた誰かの温もりのようだった。薄っすらと生活感漂う居間には、僕の息遣いが今にも掻き消えそうな命のように、弱弱しく響き渡っていた。

 僕はどことなく喉の乾きを感じながら、冷蔵庫からアイスティーのパックを取り出してグラスに注いだ。一口飲むと、少しましになった。

 窓を少し開けて風を通すと、冷たい風が吹き込んでくる。僕はそのままキッチンに行ってサンドイッチを二人分作り始めた。テレビの上の壁時計を見遣ると、もう少しで彼女が起きてくる頃合いだった。

 僕は急いで薄く焼いたトーストにレタス、ハム、チーズ、トマトを挟んで軽くスパイスをかけて二つにそれを切った。バナナをミキサーに入れてジュースを作る。彼女の好物なのだ。

 僕も彼女の習慣に合わせるにつれ、バナナジュースを朝食の際に飲むことが定番となってしまった。

 カーテンがひらひらと揺れて風がキッチンまで流れてくる。それは穏やかな朝そのものだった。でも、僕の心はどこか曇っていて一向に晴れなかった。

 心に違和感を感じながらも、僕は朝食の皿をテーブルに並べて彼女が起きてくるのを待った。彼女は大体休日には八時きっかりに起きてくる。でも、五分、十分と過ぎても一向に居間のドアが開く気配はない。

 僕は起こしに行こうかと立ち上がりかけたけれど、そこで唐突に――全てを思い出した。

 彼女が起きてくることなど有り得ない。何故なら――もう遠いどこかへと一羽の鳥となって旅立っていってしまったから。

 逢いたかった。そして、まず言いたい。「おかえり」、と。

 そして僕は彼女の体が軋むほどに強く抱きしめるに違いない。

 でも、それは叶わないのだ。

 僕は自分の分の朝食を少し口にしたが、喉を通らず、そのまま皿をキッチンのゴミ箱に戻してしまった。

 また喉が乾いてきた。僕はバナナジュースだけ全て飲み干し、一息ついた。

 でも、向かいの席に並べられた朝食の皿は片付けることはできなかった。それは誰かにフォークを当てられることを待っている。でも、無人の席をただ僕の濁った息遣いが微かに震わせるだけだ。

 彼女はもう戻ってこないのだ。あの栗色の長い髪は鳥の羽になって空の垣根を越える翼となってしまったのだ。

 僕は席から立ち上がり、窓際のソファに腰を下ろしてコンポをかけた。中にはクラシックのCDが入っていたらしく、モーツァルトの曲がひっそりと流れ出す。しかし、その穏やかな朝を象徴する曲は僕の心のドアを何度も拳で叩いた。

 ここから出て来い、と。

 でも、僕には彼女の姿しか見えていない。もういない彼女の、その幻影を求めて、彼女の為にサンドイッチを作るのだ。でも、もうやめにしなければならない。扉は開けられ、僕は新しい一歩を踏み出して、新しい朝を迎えなくちゃいけない。

 でも、心の踏ん切りは付かないのだ。

 それは一度閉じてしまった扉が、鍵を解かないと開けられないように、答えを見つけなくては永遠に閉ざされたままのものなのだ。僕はただ、彼女に会いたかった。

 最後に一度だけ会いたかったのに、空白の時間は僕の心を蝕み、彼女が発見された時には手遅れだった。

 クラシックはただひそやかに、居間のテーブルの上を跳ねていた。僕の鼓動もクラシックに合わせ、心地良くリズムを刻むのに、僕は笑顔を作れない。蝋で固められた笑顔は、暖かな温もりでしか溶かせない。彼女の掌の温もりだけを、僕は求めている。

 そうしていつの間にか眠りに落ちこんでいたらしい。

 ふと、誰かが僕の傍らに立っている気配があった。振り向こうとしても体は動かなかった。僕はただ眠くて、そしてそこに立つ誰かを必死に求めていたのに、心は岩のように固まって動かない。

 少しでもいい。貴方に会いたい。貴方の笑顔が見たい。貴方の鼓動を感じたい。

 僕は最後の力を振り絞って夢の中で――現実との境界で首を横へと向けた。すると、そこには何も影はない。しかし――。

 ふわりと、その栗色の長い髪が宙に流れ、そよぎ、風に乗って窓の外へと消えていくのがわかった。

 僕がずっと彼女の髪を梳いていたように、その栗色の髪は僕が求めている彼女のものだ。だから僕は――。

 髪が流れて、僕の頬を伝い、胸に落ちていく。


 *


 目を覚ますと、クラシックはまだ続いていた。少しだけ部屋の中が暑くなり、外で蝉の合唱が始まっている。

 僕も寝汗を掻いていた。でも、頬を流れていく汗だけは、汗ではないように、とても冷たく、滑らかだった。

 僕はゆっくりと起き上がり、そこへと振り向き、じっと見つめていた。誰もいない空白に、確かに気配が残っていた。

 ただ最後に――彼女の長い髪だけが僕の心に残った。自然と扉は開いていて、そこから僕は外界へと顔を覗かせていた。

 僕は目を閉じ、大きな深呼吸をした。そして、それを何度も繰り返した。胸の中の鉛や鉄屑は袋が破けて転がり出たように消え、代わりに心地良い風が吹き込んできた。

 そして、僕は無性に腹が空いてきた。彼女の為に作ったサンドイッチを口にすると、その席に座って物凄い勢いで食べ始めた。

 彼女がいなくなってから食事も喉を通らなかった僕は、夢の中でもいい、彼女と出会えたことに、涙を感じ、サンドイッチを胃の中に収めていった。

 彼女が好きだったそのサンドイッチは、僕の好物でもあり、彼女が朝、ガッツリとそれを食べているのをどこか心地良く感じていた。そして今は、僕は彼女のようにサンドイッチを食べ続けている。

 思えば、僕は彼女のことばかり考えていて、そしていつも彼女に逢いたいと思っていた。でも、彼女と出会えて、また胸の中に風が流れ始め、その理由のない穏やかさがすぐに僕を満たしていった。

 僕も前へ進まないといけない。

 僕は彼女がいなくても、彼女がそうだったように、ちゃんと地に足を付けて、歩き出さなくてはいけないのだ。それは彼女がいつも言っていたことで、今の今まで忘れていた。

 僕が彼女の隣に並ぶ為にも、僕はサンドイッチを食べて、仕事に向かい、日常を過ごす必要があるのだ。僕は皿を洗って棚に仕舞うと、自室へと向かった。

 近くに中華の店があり、そこに僕らはよく日曜日の昼に訪れて食事を取っていた。その日常をまた共有したくなったのだ。

 Tシャツとジャケットに着替え、ジーンズを履き、バッグを手に取って僕は玄関へと向かった。そして、脱ぎ散らかされた靴を元の位置に戻し、その中のスニーカーを選んで履く。それから、後ろに振り返って彼女に言った。

「行ってきます」

 僕が外へと出る刹那、ふわりと栗色の髪が僕のうなじを掠めた気がした。

 あの、美しい、穏やかさに満ちた朝が戻ってきた。


 了

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