最終話
はるか頭上に浮かぶ漆黒の海を、薄墨に染まる叢雲が泳いでいく。木枯らしは止む気配を見せず、開けた田舎道を薙ぐ様にして暴れている。強風に煽られた枯葉が、車のフロントガラスを撫でるように散っていく様を視界の片隅で捉えながら、私は無心に車を走らせていた。
天気予報では今日の深夜から明日の朝にかけて粉雪が降ると言っていたが、この空模様だと今にも白雪の一つや二つが舞い降りてきそうに思える。
大通りへ通じる十字路に差し掛かったところで、信号が赤になった。周囲に車の気配は全くと言って無いが、私は律儀にブレーキを踏んだ。
私はバックミラー越しに、ちらりと弟の姿を見た。およそ十数年ぶりの外出だと言うのに、孝之は外の景色になどこれっぽっちも興味を見せず、汚れたジャージにマフラーだけという姿のまま、じっと下を向いたままだった。こうして見ていると、まるで肌色をした、物言わぬ石像を連れ出してきたように思えてくる。
「寒くないか?」
声が聞きたくて、他愛ないことを訊く私だった。だが弟は首を横に振るばかりで、声を発しようとはしなかった。あまりにも会話をしてこなかったせいで、声帯が退化してしまったんじゃないか。冗談でなく、割と本気でそう思った。
今、弟が何を考えているか、私には分からない。だが、私の差し出した『提案』を受け入れて、こうして後部座席に座っている以上、彼には『その気』があるということに他ならない。
ハンドルを握る手に、自然と力が入った。
今まで引きこもっていた分、弟の姿はとてもじゃないが、世間様に見せられるものではない。睫毛にまで到達するくらいに伸びた黒髪はボサボサだし、フケも目立つ。肌荒れも酷い。なにより首から下の体つきは、さながら豊潤なブドウを逆さまにしたかのようなでっぷり具合だ。とても、中学時代のバスケット・チームで、エースナンバーを背負っていた者と同一人物とは思えない。 おそらく、三十キロぐらいは太ったんじゃないだろうか。
「(俺の選択、アイツが知ったら、怒るだろうな)」
私に言いたいことを言いたいだけ伝えたもう一人の私――並行世界の木澤光一は、数時間前に私の前から姿を消した。今度はまた別の異世界へ跳んで、そこでまた弟の生き方を変えるために『私』に会うのだと、言い残して。
『数的に言ってまだまだあるんだ。アンタが考えている以上に、異世界の数は膨大なんだよ』
私はふと考えた。この現実世界と隣同士に存在している異世界のことを。そこには剣と魔法のファンタジーに彩られた世界以外に、こことは変わらない、ごくごく『平凡な』異世界もあるのだろう。そこに住む幾人もの『私』にもし会う事ができたら、私は尋ねてみたかった。
あんたは、弟の為にどんな選択を選んだんだ? と。
「兄貴」
後ろから突然声を掛けられて、「ひぅ」と、我ながらおかしな声が出た。しかし、それは当然の反応だ。部屋から連れ出してから今まで一言も喋ろうとしなかった孝之が、小さく掠れ気味にではあるが声を出したのだ。動揺しない方がおかしかった。
「な、なに」
私はバックミラー越しに弟の姿を見るのではなく、振り返って乗り出すようにして見つめた。
弟は、その濁った眼差しを控えめに私に向けていた。それが何とも居たたまれない気分に、私をさせた。
「信号、青」
「え、あ、あぁ!」
指摘されて初めて気づいた。信号が青になっていたことにさえ気づかなかった。
「すまん、すまんな」
早口で言ってから、アクセルを踏む。短い言葉ながらも、十数年ぶりに耳にした弟の声。それが、私の頭蓋の奥をひどく熱くさせた。
車を走らせて三十分後。駅からやや離れた場所に密集する住宅街に差し掛かったところで、目的の建物が見えてきた。
私が勤めている藤原特車。その本社ビル。四階建ての簡素なコンクリート造りのその建物の傍に、ちょっとした公園ほどの広さの駐車場があった。白塗りのハイエースやらキャラバンやらが綺麗に整列していた。それらすべてが、ウチが保有する次元跳躍車両である。
勝手知ったる庭だ。私は慣れた手つきでハンドルを操作し、車を駐車場の一角に停車させた。
「ちょっとそこで待ってろ。すぐ済ますから」
後部座席に座る弟にそう告げてから、私は車を降りて会社の玄関へ向かった。
少し、昔を思い出しかけた。
小学校時代の夏休み。『はやく遊ぼうよ』とせがむ弟へ向けて、こんな風に言い聞かせていたっけな。俺の宿題が終わるまで待っていろって。それで宿題を終えたら、二人揃って近くの河原へ出かけたものだ。岩陰に隠れているザリガニやカエルを見つけて……あの時の孝之は、本当に楽しそうに笑っていた。
溢れ出そうになる感情を必死にこらえながら、ドア脇に備えられているカードリーダーにパスワードを入力し、管理解除カードをかざす。電子音が鳴ってロックが解除されたのを確認してからドアを開けて社内へ。即座に人感センサーが働いて天井灯が点いた。目を瞬かせながらも階段を上がり、二階の事務室へ入り、自分のデスクの引き出しを開けた。
課長職の立場にある私にとって、業務時間外に会社へ侵入することなど容易だ。ましてや管理職の権限を利用して、次跳車の鍵を勝手に拝借することなど朝飯前である。
弟は異世界転生保険に加入していない。そして非保険契約者を次跳車で撥ねる行為は、れっきとした業務違反である。もし世間に露見した場合、重罰は免れない。疑似殺人罪が適用され、最高で死刑、最低でも無期懲役だ。
だがそれを考慮しても、私にはこの選択肢しか残されていないのだ。
弟を
早鐘を打つ心音を意識しながら、次跳車の鍵をポケットにねじ込み、ノートパソコンを手に階段を下る。玄関のドアを開けて外へ一歩踏み出した途端、晩秋特有の拒絶するかのような寒さが、やけに肌に刺さった。
「外に出て」
車の後部座席から弟を降ろす一方で、私はハイエース型の次跳車のボンネット部にノートパソコンを置いて、電源を起動させた。
やる事は一つだ。次元跳躍の数理的プロセスを滞りなく処理するためには、外部からのアシストが必須になる。それを決定するための特殊検索型ソフトウェア・プログラムを立ち上げる。
画面上部にナビゲーターバーが表示されるのを確認してから、次跳車のドアを開けて運転席に座り、車の電源ボタンを押し込む。車体を少しだけ揺らすように響く、冷却ファンとエンジンの抑えた唸り。それすらも。今夜だけは違って聞こえた。
パソコンから端子とケーブルを伸ばし、センターコンソールのマルチスロットに差し込む。コンソールの輪郭が、応答を示すように蛍光色を放つのを確認してから……
「あ」
キーボードを叩こうとしたところで、思わず手が止まった。
失念していた。
そういえば、孝之の希望を何も聞いていなかった。異世界のコースだけでなく、そもそも転移と転生のどちらを選ぶのかすらも。
彼を部屋から無事に連れ出せるかどうか、そればっかりが頭の中を占めていて、そんな初歩的な確認すら抜けていた。
「あの、孝之、ちょっと確認したいんだけれども、いいかな」
十一年ぶりの兄弟の会話。それなのに、どこかよそよそしい空気が漂う。
ぎこちなさを覚えながら、私はドアを開けてすぐ近くで手持ち無沙汰にしていた弟へ声をかけた。努めて明るく。これはあくまで儀式の一つなのだと、自分に言い聞かせて。
そうだ。これは現実世界で生きる場所を失くした弟に、新たな居場所を与えてやるための儀式なのだ。
「まだ希望聞いてなかったよな。どこがいい? 剣と魔法のファンタジー世界もあるし、スチームパンクの世界もあるぞ。VRゲームが出来るサイエンス・フィクションの世界に、神様と交流できる和ファンタジーの世界……群雄割拠の戦国乱世みたいな世界もあるけど、お前にはちょっとハードルが高いかな。あ、でも武将が全員女性の世界もあるから、行くならそっちがいいかな?」
誘うように小さく笑って見るが、弟はノートパソコンの画面をのぞき込んでいるままで、一言も喋ろうとはしなかった。会話が途切れるのがなぜだか無性に怖くて、私は夢中で口を動かした。
「そういえば、転移するのか転生するのか、それも選んでないじゃないか。どっちにするんだ?」
「……ん……」
「どうした? もうちょっと大きな声で言ってみろって。大丈夫だよ。落ち着いて。な?」
「……転生」
乾いた唇をナメクジのように動かして、弟は呟きを落とした。やはりそうかと、どこかで納得している自分がいた。
今の状態から異世界に旅立つ『転移』ではなく、生まれ変わってもう一度、最初から違う世界で人生をやり直す『転生』。
尋ねる前から予感はあった。おそらく弟は『転生』を選択するだろうと。
だから、まだそれほど驚きはしなかった。
「今と、同じような世界に、転生したい」
予想外の要望だった。
私は耳を疑った。
パソコンの画面に向けていた視線を、反射的に弟へと向けてしまうぐらいに。
「……」
弟は黙したまま、私の顔をじっと見つめてきた。「なに遠慮してんだよ」と口にしかけた私に、そうじゃないのだと告げるかのような、無言を貫く態度。それは、私が知るどんな美辞麗句よりも雄弁に映った。
伝えるべき言葉は十分伝えたと言わんばかりに、弟は唇を硬く結ぶばかりだった。凍てつく夜風にその身を晒されて、だが彼は私から少しも目を逸らそうとはしなかった。
「……」
キーボードを叩こうとした手を止めたまま、私もまた弟を見上げて、必死に思考を巡らせた。今と同じような世界に転生したいと言った彼の言葉。その真意についてを。彼の言外に含まれる意味を拾い上げようと試みた。どんな気持ちと覚悟でそんな事を口にしたのか。
理解はできた。だが納得はできなかった。しかし、無理にでも納得しなければならないと、強く自分に言い聞かせた。兄貴なら、それくらいの度量の深さがあって然るべきだ。
「分かった」
短く答えて、パソコンのキーボードを叩く。
転生先の異世界一覧から、我々が暮らす文明社会と同等のレギュレーションを持つ世界を検索・選択する。
次跳車への異世界転生プログラミングを終えた私は、ノートパソコンを畳み、住宅街の一角を指差して、さながら送り出すような口調で言った。
「寒いだろうが、あそこで待っていてくれ」
言いながら、車のダッシュボードから懐中電灯を取り出し、弟の脂肪に膨れ上がった手に握らせた。
「準備が出来たら、こいつで照らせ。分かったな?」
「……うん」
弟は懐中電灯を受け取った後も、しばらくの間、その場から動こうとしなかった。代わりに視線を揺らし、わずかに唇が震えていた。寒さのせいではない。何かを伝えようとする意志の表れだった。
だからこそ、私からはあえて何も言わなかったし、何も訊かなかった。そうするべきではないように思えた。弟が口にしたい時に、口にしたいだけの想いを伝えてもらえれば、それだけで良かった。
「……兄貴」
弟の――孝之の眼がその時、少しだけ光を取り戻したように見えた。叢雲に浮かぶ月光の照り返しがそうさせたのでは決してなかった。
「兄貴のせいじゃ、ないから」
「え」
発言の意味を問い質そうとしたが、既にその時、弟は道の向こう側に走り去った後だった。しばし呆然とする。孝之が振り絞った言葉が、脳裡の奥で何度も反響し続けた。
「…………」
所定の位置まで走っていく弟の背中を見送ってから、アイドリング状態を解除。ハンドルを操作して、次跳車を車道に出す。住宅街の一角ということもあり、道幅はちょっと狭い。
仄暗い外灯に照らされて、蠢く一つの人影を目視で確認し、私は大きく息を吐いた。
人を轢き、次元を跳躍させる仕事に臨む際には、必ずこの光景を目にしてきた。
フロントガラス一枚を隔てて、こちら側と向こう側では、何もかもが違った。
立場も心の状況も、何もかもが。
ただ一つ、今この時だけは、一つだけ変わらないものがあった。
――兄貴のせいじゃ、ないから。
最期に交わせたその言葉だけが、今の私を生かしてくれていた。
妙にくすぐったい感触が頬をなぞった。
その時初めて、自分が涙を流していることを知った。
仄暗さに覆われた道の向こうで、一際輝く光があった。光は円を描くように、次跳車のボンネットを強く照らしてみせた。
遠くで、赤いジャージとマフラーを着た巨漢が、寂しそうに立っている。それが私の、たった一人の弟。木澤孝之の姿だった。
ハンドルを握り締める。弟の言葉を、何度も何度も反芻する。
息を浅く吸って、深く吐く。
吐きながら、ハンドル付近に設置されているスイッチを次々に入れていった。
《ディメンション・ドライブシステム・オールグリーン》
一粒の粉雪がフロントガラスに張り付いた。
私はまっすぐ弟の姿を見据えたまま、アクセルを踏んだ。
右足で、思い切り踏んだのだ。
転生稼業-これが私の仕事です- 浦切三語 @UragiliNovel
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