後編

それから、私は毎日午後になるとあの牧場へ行った。アン=ソフィとも仲良くなれた。

彼女は羊たちを眺めながら、私に教えてくれた。

「私ね、人と話すことがとっても苦手なの。吃っちゃうの、それで学校にも行けなくなったわ。みんな馬鹿にするんだもの…」

私は学校がどんな所か分からなかった。でも、アン=ソフィのような子どもたちが多分わんさか、ちょうどこんな風に木の柵で囲われた羊たちのように溢れているんじゃいだろうか。

「不思議の国のアリスを書いたルイス・キャロルも吃音だったわ。何も恥ずかしがることはないと思う」

私は笑ってアン=ソフィを見た。羊が鳴く。その響きを聞いて、歌っているようにも聞こえると思った。

アン=ソフィは不思議そうな顔で続ける。

「動物の前だと、ちゃんと喋れるの。だからお父さんが私をここに連れて来たの。あなたは人間なのに、どうして私はちゃんと話せるんだろう」

私はふふっと笑った。

「私は半分、羊の遺伝子なの。人間でも多分動物でもないのに、不思議ね」

アン=ソフィはよく分からない顔をする。

「大丈夫、私だってよく分からないもの…」

私はその時、ちょっとだけ嘘をついた。どうしてそんなことを、アン=ソフィにしたのかそれだけが分からなかった。


東洋の詩人の詩集を、私は広げて読んだ。アン=ソフィは目を閉じて、耳を澄ませる。呑気なてんとう虫が、私たちの頰を横切って飛んでいく。


こころ

おかあさまはおとなで大きいけれど、おかあさまのおこころはちいさい。


だって、おかあさまはいいました、ちいさいわたしでいっぱいだって。


わたしは子どもでちいさいけれど、ちいさいわたしのこころは大きい。


だって、大きいおかあさまで、まだいっぱいにならないで、いろんなことをおもうから。


「ねぇ、お父さんやお母さんってなに?」

アン=ソフィに私は聞いてみる。

「自分を産んでくれた人…じゃないかな」

「私のお母さんは羊で、お父さんは人間の誰かなのかしら」

「そうなるのかしら…」

私は詩集を閉じて空を仰ぐ。

羊でも、人間でもないかもしれない。混ざり合った生き物をなんて呼ぶのか分からない。博士たちも分からないのかもしれない。

だから、私にはアン=ソフィのような本当の意味での名前がないのかもしれない。

博士は名前の由来をこの前教えてくれた。

「君には人間と羊の遺伝子が入っているからだよ。数字はそれぞれの遺伝子の半分の数を合わせたものだよ」

博士は淡々と教えてくれた。

「名前は、みんなそういう風に決められるんですか?」

「君たちのような存在には、そういう風にして名前を付けるよ」

博士はそう言って、背を向けた。


心臓が取り出される日が、私にとっての最期の日であることは随分前に教えてもらった。私の身体は世界中の未来を待つ人のために分けられていく。それは多分「運命」だった。

私はそのためにのみ、産まれたのだと最近になってようやく気が付いた。

だから、半分半分なのかしら。

「完全に人間ではダメで、羊でもダメだったのかしら」

「どうしたの?」

アン=ソフィが私を見上げる。視線を合わせると、アン=ソフィの瞳が微妙に焦点が合っていないことに気が付いた。

「……ねぇ、アン=ソフィ。あなた、目が見えなかったの?」

「……完全に見えないわけじゃないの。弱視なの、生まれつき。もう慣れたわ」

明るくアン=ソフィは言い放つ。

運命は多分変えられない。

来週、一番大きな検査があると、博士は教えてくれた。それを受けたら、もう太陽の下には出られない。誰にも会えなくなる。

私は小さい。ちょうど、呑気なてんとう虫みたいに。


わたしは子どもでちいさいけれど、ちいさいわたしのこころは大きい。


だって、大きいおかあさまで、まだいっぱいにならないで、いろんなことをおもうから。


お母さんが誰なのか、私は知らない。

いろんなことを思うから。

私は誰なの、何を思うの。

「ねぇ、アン=ソフィ。私ね、一週間くらいここに来れなくなるわ」

「…そうなの?寂しいわ」

アン=ソフィは俯く。

博士にたった一つだけ、お願いしてみようと決めた。

「ねぇ、私に名前を付けてくれない?アン=ソフィ」

「でも……」

「ふふ、あなたに付けてほしいの。ダメかしら」

「そんなことないわ。……ちょっと考えさせて、とっても素敵な名前を考えるから」

私たちはしばらく何も言わなかった。アン=ソフィは一つ息を吐いて、私の名前を呼んでくれた。

「アグネス。ラテン語で、神の子羊ってアニュス・デイって言うでしょ?そこから、読み方を少し変えて付けたの。…アグネスは半分羊だから、ぴったりだと思ったの」

アニュス・デイ。アグネス。

博士がたまに呟く一節が不思議とよみがえる。でも、何を言っていたのかは思い出せなかった。

ただ今は、この美しい響きを私のものに抱きしめていたいと思った。

「素敵な名前ね。嬉しい」

私は立ち上がる。

さようなら、は正しい言葉なのだろうか。

それは人間が言う言葉だ。私はほんの少しだけ、考えた。人間が自由であることは多分、未来が分からないからだ。決まっていないからだ。

私の未来は産まれる前から、存在する前から決まっていた。

さようなら、は正しい言葉なのだろうか。

「また会える?」

アン=ソフィが不安気に私の袖を引っ張る。必死に焦点を結ぼうとしていた。私は揺れる瞳に視線を合わせた。

「大丈夫、すぐ会えるわ」

さようならは言わない。



「君からお願いなんて、初めてだね」

「そうですね。…博士はアン=ソフィという女の子を知っていますか?」

「あぁ…マークの子どもだろう。確か生まれつき弱視だったはずだよ」

私は瞬きを一つした。

「ねぇ博士。…私は多分、人間でも羊でもないでしょう?」

「別の言い方もできる。人間でもあるし、羊でもある」

「ふふ、そうですね。……私の眼球を待っている人はいますか?」

「いいや、いないよ」

博士は悟ったようだった。

「だったら、アン=ソフィに私の眼球を提供して下さい」

「君はそれでいいのかね」

私は羊の群れと、アン=ソフィを思い浮かべた。

「私は約束をしました。すぐに会えるって…だから、どうしても彼女に提供しなくてはいけないんです」

「分かったよ…マークも、アン=ソフィも喜ぶだろうね」

博士は静かに俯いた。

私は動かない博士を不思議に思った。そして、しばらく経ってから博士が泣いていることにやっと気が付いた。

「大丈夫、博士にも私はすぐに会いに行きますから。私の運命って……私が生きることは、多分こういうことじゃないですか?博士」

「……その通りだよ。君は素晴らしい人だ」

「私は人間なのですか?」

「それ以外に、何と言えばいい?」

博士にも分からないことがあるんですね」

「もちろんだよ…。少し休みなさい。明日は早いからね」

「おやすみなさい」

私は、後ろで博士が呟くのを聞いた。


「まことに彼は我々の病を負い、我々の悲しみをになった。しかるに、我々は思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと……。

…しかし彼は我々の咎のために傷つけられ、我々の不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、我々に平安を与え、その打たれた傷によって、我々は癒やされたのだ……」


私は立ち止まって、振り返った。

「博士、それは誰の言葉ですか?」

博士が涙を拭いた。彼は多分この世界で一番優しく哀れな人かもしれないと私は思った。

「旧約聖書の一節だよ」

「分かりました。おやすみなさい」


その打たれた傷によって、我々は癒やされたのだ。

私は誰なの、何を思うの。

「私はアグネス。…大丈夫、すぐにまた会えるわ」



まことに彼は我々の病を負い、我々の悲しみをになった。

その打たれた傷によって、我々は癒やされたのだ。



アグネス、あなたはちゃんと約束を果たしてくれたわ。

世界が初めて開ける。呑気なてんとう虫の薄い羽根まで、あなたは教えてくれる。

世界はあなたと共にある。でも今は涙が止まらないの。


それでも、何があっても、私とあなたと世界は共にある。







作中引用

金子みすゞ


ふしぎ

わたしはふしぎでたまらない、

黒い雲からふる雨が、

銀にひかっていることが。


わたしはふしぎでたまらない、

青いくわの葉たべている、

かいこが白くなることが。


わたしはふしぎでたまらない、

たれもいじらぬ夕顔が、

ひとりでぱらりと開くのが。


わたしはふしぎでたまらない、

たれにきいてもわらってて、

あたりまえだ、ということが。


こころ

こころ

おかあさまはおとなで大きいけれど、おかあさまのおこころはちいさい。


だって、おかあさまはいいました、ちいさいわたしでいっぱいだって。


わたしは子どもでちいさいけれど、ちいさいわたしのこころは大きい。


だって、大きいおかあさまで、まだいっぱいにならないで、いろんなことをおもうから。



「旧約聖書より イザヤ書 53:4.5」

まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。


しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。



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