Coming soon
三津凛
前編
さようなら、は正しい言葉なのだろうか。
それは人間が言う言葉だ。私はほんの少しだけ、考えた。人間が自由であることは多分、未来が分からないからだ。決まっていないからだ。
私の未来は産まれる前から、存在する前から決まっていた。
さようなら、は正しい言葉なのだろうか。
「また会える?」
アン=ソフィが不安気に私の袖を引っ張る。私は揺れる瞳に視線を合わせた。
「大丈夫、すぐ会えるわ」
嘘をついてはいけない。
だったら、余命僅かの人に本当の病名を告げずに「大丈夫だよ」と真実を告げてやらないのは、許されないことなのだろうか。
「倫理や規範は、それだけでは強固な存在だ。…だが、生身の人間達の中に放り込まれた途端に真っ白な面に染みが滲んでどこまでもグレーに……曖昧になっていくんだよ」
博士は顎髭を撫でながら、呟いた。
「それは、人間が曖昧な存在だからですか?」
私は不思議に思う。
「そうとも言えるね。…一番難しいことについて、考えたことはあるかい?」
「いいえ」
博士が愛おしそうに、私の髪を撫でる。以前読んだ童話の「お父さん」という存在は、こういう感触を与えてくれるものなのだろうか。
「何が徹底的に間違っているのか、分からないことだよ」
「博士にも分からないんですか?」
「……もちろん」
そこでほんの少しだけ、博士は哀しそうな顔をした。何を迷うのか、間違うのか、私には分からない。
あぁ、私には分からないことだらけだ。
そういうものと鼻先を突き合わせると、底が抜けたように笑いたくなる。
「博士、私には分かりませんよ。なんにも」
「そうだね。…でも、それが幸せなんだよ君にとっても、多分私たちにとってもね」
博士はいつも通り私の身体を丁寧にチェックしていく。血液の成分を調べ、脳波を診断し、心臓やその他の内臓の動きを漏らすことなく記録していく。
「最近、楽しいことはあるかい?」
「えぇ。助手のラルゴが東洋の詩人の作品を教えてくれたの」
「そうか」
「彼女は自然に対してとっても優しい視線を向けてるの。ねぇ、博士。午後は牧場に行ってもいいかしら」
「あぁ、昼寝した後なら好きにしても良いよ。太陽光に当たるのは精神衛生上もとても良いことだからね」
博士はいつも優しく笑う。目尻に皺が寄っている。私はこの皺が好きだった。
「博士」
「なんだい?」
「どうして、人は死ぬのでしょう」
博士はこうした会話も、多分全て記録している。何のために記録しているのかは分からない。親という生き物は、子の成長を逐一記録すると助手のラルゴが漏らしていた。
でも博士はお父さんでも、お母さんでもない。
「人だけじゃない、生き物はみんないつかは死ぬんだよ。命とはそういうものだ。いつか死ぬから、生き物なんだよ。……もちろん、君も必ず死ぬんだよ」
「それは分かっています。ラルゴの教えてくれた東洋の詩人は、自殺しました。それはどうしてなのですか?」
博士はしばらく黙って、静かに私の頭を撫でた。
「往往にして、死ぬことよりも、生きることの方が…生き続けることの方が、残酷だからだよ。憶えておきなさい」
「はい」
私もいつか死ぬ。
博士は気を遣ったのだろうか。「いつか」と曖昧なことを許されるのは、人間だけだ。私にはその「いつか」はない。
「……博士は、生きる意味について考えたことがありますか?」
博士はじっとこちらを見て、手元のノートに何か書きつけた。
「もちろんあるよ。だから、私はこういう研究をしているんだろうね」
私のような誕生は、人間の持つ言葉に置き換えると何なのだろう。
「博士、私のような誕生とはどういう意味……言葉で表現することができますか?」
博士は微かに目を細める。そして、静かに告げた。
「運命だよ」
博士との約束を守り、私は昼寝を取った後に研究所から少し離れた牧場に行った。
羊の声というのは、泣き声に似ている。今日はよく晴れている。太陽は高いところにある。鳥は冬をもう忘れたように恋を探している。呑気なてんとう虫が目の前を横切っていく。
木の柵に手を置いて、羊の群れを眺める。鈍重な綿が集まったり離れたりしているようで、おかしさがこみ上げてくる。
私はしばらくその纏まりのあるようでない蠢きを観察した後で、軽い目眩を覚えた。誘われるように木の根元まで歩いて腰を下ろす。
羊が鳴く。私の遺伝子も呼応して鳴くだろうか。
私は誰なの、何を思うの。
宗教は荒野で生まれたと、ラルゴが言っていた。そういう啓示は、私にもやってくるものなのだろうか。
ラルゴがくれた東洋の詩人の詩集を開く。
ふしぎ
わたしはふしぎでたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかっていることが。
わたしはふしぎでたまらない、
青いくわの葉たべている、
かいこが白くなることが。
わたしはふしぎでたまらない、
たれもいじらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。
わたしはふしぎでたまらない、
たれにきいてもわらってて、
あたりまえだ、ということが。
私が産まれたのは運命だった。そこから導かれるものも、同じように運命だ。
一人の命から、たくさんの人の命が救われる。それは正しいことなのだ。当たり前のことなのだ。
それでも、やっぱり不思議なことなのかもしれない。
「当たり前だ」
私は言葉をなぞってみる。
ふと羊たちの方を眺めると、一人の女の子がしゃがみ込んで何か話していた。私は興味を惹かれて、詩集を閉じて立ち上がった。
「ねぇ、何してるの?」
女の子は私に気がつくと怯えたように立ち上がる。そろそろと後ずさって、背を向けようとした。
私は一匹の小さな子羊が、不安そうに女の子を見て鳴いているのに気がつく。
「…羊たちはあなたにまだ行って欲しくないみたいよ」
「え…」
女の子は私を見た。
「いつもこんな風にお話ししてるの?この子達はとってもお喋りしゃない?でも、羊の鳴き声って泣いてるみたいで少し哀しくなっちゃうの。あなたはどう?」
女の子は内に籠る言葉を探るように俯いた。そして、意を決したように唇を開いた。
「……私はそうは思わないわ。歌ってるみたい、って私は感じる。あまり上手に歌えない子もいるけれど」
女の子は滑らかに言う。
「優しいのね。…ねぇ、名前はなんていうの?」
「アン=ソフィ。…あそこの研究所で、お父さんが働いてるの。あなたの名前は?」
「名前って、なに?」
「え?」
アン=ソフィは困ったように笑った。
「…私は博士たちから、HS50って呼ばれてるわ」
「変わった名前なのね」
アン=ソフィは首を傾げた。
「そうかしら、ふふ」
私はよく分からず、このことも博士に聞いてみようと決めた。
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