第2話


『ちょっと保育園まで送ってくるから留守番してて』

『るすばんしててー! かえってくるまでちゃんといてね? ぜったいだよ?』

 そう言って二人が出かけていったのがつい先ほど。出ていく二人を、ジーノは信じられない気持ちで見送った。

 無防備にもほどがある。何か取られでもしたらどうするつもりだ。

 だがこちらとしては僥倖ぎょうこうだ。今のうちにあの男の素性を調べておこう。後々、脅迫できる材料があれば尚良し。

 そう考えて部屋を見回す。部屋は驚くほどに質素で、物がほとんどなかった。小さな子供がいることを考えるといっそ不自然なほど。

 土壁がところどころ剥がれ、畳もぼろぼろの六畳二間の安アパート。部屋の中にあるのはカラーボックスが二つと大きなパイプベッドが一つ、折れた足をガムテープで補強したちゃぶ台と小さなテレビ。衣服は必要最低限しかないようで、カラーボックスで十分に事足りる分しかない。

 押入れを開ける。上段には大きめのリュックサックが一つ。中を開けてみると、子供の着替えと非常食が入っている。下段には開けられたままの空のスーツケース。おそらく、これはいつでも入れられるようにわざと開けたままにされているものだろう。

 やはりおかしい。小さな子供と住んでいるにしては荷物が少なすぎるし、これではまるで、いつでも逃げられるように――

「ただいまー」

 突然ドアが開いてびくりとする。開けたままの押入れを閉める暇もなかった。そうしてジーノはやはりこの男が只者ではないと確信する。

 今、帰ってくる気配に気づかなかった。警戒心の塊のジーノに気づかせないなんて、普通では考えられない。

「貴様、何者だ」

 不躾なジーノの言葉に、男は驚くでもなくふふっと笑った。

「それはこっちの台詞じゃないかな? 君こそ堅気じゃないよね?」

「…………」

「お、黙秘権? 君のその肩の怪我、治療したのは俺だよ? どう見ても銃創じゅうそうだ。日本は一般人がいきなり銃で撃たれるような物騒な国ではないはずなんだけど」

 相変わらずのほほんとした口調だが、だるだるのジャージのポケットに手を突っ込んだままの男にはまったく隙が見られない。もしも今飛び掛かったとしても、肩を負傷しているジーノでは勝ち目がないだろう。

 ジーノよりも小さく細い体のくせに、半袖のTシャツから伸びている腕にはしなやかな筋肉がついているのが分かる。おそらくパワーよりスピードが厄介なタイプだ。

「……聞いてどうする」

「んー、俺としては面倒に巻き込まれたくないからとっとと出ていって欲しいけど、いかんせんうちの姫が君のことを気に入っちゃってるしなあ」

「貴様の娘か?」

「ちょっと、日本語間違って覚えてない? さっきから君、まだお互いのことをよく知りもしないのに貴様とか失礼すぎるよ? 少なくとも俺は、ほっといたら野垂れ死んでたかもしれない君を、わざわざ家に入れてあげて、わざわざ傷の治療もしてあげて、わざわざ布団を譲って寝かせてあげたんだから」

 わざわざ、という言葉に力を込めて強調してくる。ジーノを挑発して試しているようにも思えた。口調とは裏腹に、逃げ道を塞ぐように部屋の入口の柱にもたれた男は、ジーノの一挙一動を見逃さないように観察する冷静さを持っている。

「お前の……」

「却下」

「…………」

「様をつけろとは言わないけど、今現在俺は君と同等か、何なら君より立場が上なぐらいな訳だよ。何せ命の恩人だからさ。そんな人に対してお前っていうのはどうかと……あ、もしかしてただ日本語を理解してないだけだったならごめんね?」

 男の口元が、ひどく馬鹿にするみたいににやっと歪む。こいつ、完全に分かった上で言っている。頭にきたが、感情的になることは状況を悪くするだけだ。

 まだ外にはジーノを探している奴らがいるかもしれない。この怪我では抵抗してもすぐに捕まるだろう。せめてもう少し腕を動かせるようになるまでは、ジーノは何としてでもここに居座らなければならない。

「君の」

「はいはい」

 男が満足そうに頷く。合格らしい。

「君の娘なのか?」

「ははは、どう思う?」

 こいつはジーノの一番嫌いなタイプだ。人当たりはよいが、実際自分の腹の内はなかなか晒さない。

「だって、家族構成をお披露目するほどまだ仲良しじゃないし?」

「…………」

 男の言うことは正論だ。ジーノなら、今日会ったばかりの相手に自分の家族構成など話さない。だがそれはジーノの世界の常識であって、普通の生活をしている人間はそこまで警戒心が強くないはずだ。この部屋の状況といい、やはり男には何かある。その何かが、ジーノにとって吉と出るか凶と出るか。

「俺は君の名前すら知らないしね」

 自分も名乗ってなどいない癖に、よく言うものだ。

「……ジーノだ」

 偽名を使うことも考えたが、この男には嘘がすぐにバレる気がした。そしてたぶん嘘がバレた時点で、この家を追い出される。それほど警戒する何かが、この男にはあるのだ。

「なるほど、ジーノ。ではジーノ、今すぐここを出てどこか別の場所に行けそうか?」

「行けるなら、お前達が――」

「はいやり直し」

「……君、が……さっきいなくなっていた間にそうしている」

「だよね。俺も、出かけてる間にいなくなっててくれないかなあって思った。そしたらうちの姫には残念だったなあって言うだけで済むし」

 正直な男だ。だがそれで、男が自分をこの家に入れた理由が分かった。これだけ警戒心の強い男だ。おそらく一人だったとしたらジーノを家に入れたりはしなかっただろう。あの子供が自分をこの家に入れたのだ。どうやら男はあの子供にすこぶる甘いらしい。

「子供を甘やかしすぎるのはよくないぞ?」

 揶揄やゆするつもりで言うと、男はそれに怒るでもなく、壁に数枚だけ貼っている写真に近づき、子供の写真を見つめながら自嘲する顔で笑った。

「俺はね、あの子の願いは全部聞くって決めてるんだ」

「全部? それはまたえらく甘やかすものだな」

「いや、こんなもんじゃ全然足りない。俺があの子にしてしまったことを思えば、全然」

「……?」

 一瞬、男が何かに憎悪を向けるような表情をした。だがそれはすぐに掻き消えて、男はのほほんとした表情に戻る。

「それよりも、どれぐらいでここを出ていけそう?」

ジーノはそこで考える。今現在日本にいる知り合いと言えば、ファミリーの人間以外では甥である史が生活している東雲組しかない。

 東雲組は日本のやくざ組織で、史の戸籍上の父親である東雲賢吾に連絡すれば、保護して貰えるだろうとは思う。だが死んでもあの男に借りは作りたくないし、自分が行くことで史に迷惑をかける訳にはいかない。史を守るというのは亡き妹の願いで、自分が史を危険に晒すなどというのは言語道断だ。

 自力で裏切者を探す。そのためには、まずは最低限この怪我を治す必要がある。

そして、ジーノはひとつ気づいていた。

「君は面倒に巻き込まれたくないと言ったが、何か理由があるのだろう?」

「…………」

 質問に質問で返すジーノに怒りを露わにするでもなく、表情も変わらなかった。だからこそ、その微笑みが内心を隠すためのポーカーフェイスであるということが分かる。

 それなりに場数は踏んでいるようだが、相手の嘘を見抜けなければそれが死に直結する人生を送ってきたジーノとは、おそらく味わってきた修羅場が違う。

「ほう、今度はそちらが黙秘権を行使する番か? 私はそれでも構わないが。さっき君達が出かけている間に家の中を少し調べさせてもらったが、この家は荷物が少なすぎる。いつでも逃げ出せるようにある程度まとめられているな。私はこの時点で君達が誰かから逃げているという仮説を立てたが、もしそれが当たっている場合、君達は目立ちたくないと思っていて、この辺りで問題があると困るはずだ」

「…………」

 男の口元は笑みを浮かべたままだが、沈黙は肯定と同じだ。ジーノはその答えに満足して、男に取引を持ち掛けた。

「そこで君達に提案がある。私の傷が治るまでここに私を匿え。そうすれば私が、君達をどこへでも逃がしてやろう」

「……俺達の状況も知らないのに、よくも自信満々にそんなことを言えるよな」

「君達がたとえどんな状況であったとしても、この傷さえ治れば、私にはそれをどうにでもできる自信がある」

 相手に了承させるためのフェイクではない。今やジーノの息がかかった者は世界中で商売をしている。もちろんその中には各国の裏社会に精通した者が多くいるから、ジーノがファミリーに戻りさえすれば、たとえこの世界のどこであろうと、人間二人ぐらい簡単に生かすことも殺すこともできるだろう。

「ちなみに断ったら?」

「私はこの怪我を抱えて外に出て、ほどなくしてこの怪我を負わせた相手に捕まるだろう。そうしたら私は君達のことを話すだろうな。痕跡を消すために君達がどうなるかは、私の知るところではない」

「……それって、ただの脅迫じゃないの?」

「私にはそういう意図はない。そう感じるのは受け取る側に問題があるのではないか?」

 カラーボックスの中にある子供服に触れ、ジーノは男に視線を戻す。

「悪い取引ではないはずだ。何から逃げているのか知らんが、あんな子供に、いつまでも逃亡生活をさせる訳にはいかないのではないか?」

 男はジーノをしばらくじっと見つめ、それからくしゃくしゃと髪を掻きむしってはあと溜息を吐いた。

「……参ったなあ。君を拾った時から、何か嫌な予感はしてたんだよなあ」

「取引成立、と思っていいな?」

「……不本意だけどね。君がどこの誰だか分からない以上、言うこと全部を丸ごと信じるなんてできないけど、こちらとしては問題を起こされたくないし、うちの姫が気に入っている以上、無理に追い出すこともできない。それならまあ、受け入れたほうがましかなって」

 男が手を差し出してくる。ジーノとしてはそんなことはしたくもなかったが、日本ではこれが契約の証のうちに入るのかもしれないと、渋々男の手を握り返した。

「改めまして、俺の名前は優。漢字が分かるかどうかは知らないけど、優しいという漢字でゆうと読む。そしてうちのお姫様はカタカナでサラ。短い間にして欲しいけど、とりあえずよろしく」

 ジーノはそれには答えず、握ったままの優の手をぐっと引き寄せ、利き手ではなくともそれなりに力は使えることを暗に示す。寝首をかかれるのはごめんだ。

「分かってはいると思うが、私がここにいることは誰にも話すな」

「分かってはいると思うけど、この部屋から一歩も出ないように」

 誰もが震え上がるジーノの冷ややかな声に、優は動じるどころか面白そうに言い返してきた。あくまで主導権をこちらに渡す気はないらしい。

「それから、君がどこの誰だかは知らないし興味もないけど、サラに対して命令したり脅したりしたら、その時はこの取引は無効だからね。すぐさま君を探している連中に引き渡すことにするからそのつもりで」

「……いいだろう」

 そうして、奇妙な共同生活が始まったのである。


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佐倉温先生「首領ジーノは弱気な情熱家」 角川ルビー文庫 @rubybunko

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