佐倉温先生「首領ジーノは弱気な情熱家」

角川ルビー文庫

首領ジーノは弱気な情熱家

第1話

 油断は禁物であるということを、自分は誰よりも知っていたはずだった。

 そうであったはずなのに、何とも間抜けなことだ。ジーノ・ビスコンティは自らの失態しったいに苦笑を漏らす。

 左肩を右手で押さえると、生温かいもので手が濡れる。……血だ。じくじくと痛むそれは自分の油断を責めているようでもあって、ジーノはここのところ平和ボケしていた自分を自覚した。

 生まれた時からずっと、暴力と欺瞞ぎまんの中で生きてきた。信じられるものは己だけ。そう自分に言い聞かせてこれまでやってきたはずなのに。

 ふみだ。史の存在が、ジーノに変化を与えた。

 東雲しののめ史。ジーノの大事な妹の忘れ形見。今は自分とは少し違う世界で、愛情をたっぷり受けながらのびのびと育っている、ジーノの甥。

 初めはジーノを警戒していたはずなのに、今ではすっかりそんなことも忘れ、ジーノを見ると笑って駆け寄ってくる小さな子供。誰かの助けがなければ生きていけないような、何の力もないその子供が、冷え切っていたジーノの心を脅かした。……その結果がこれか。

『……っ、くそ……』

 血を流しすぎた。体から力が抜け、ジーノはその場にくずおれる。

夜に紛れたいところだが、日本という国はどこもかしこも明るすぎる。せめて少しでも目立たない場所へと、重い体を無理やり引きずった。

 すぐ目の前には古ぼけたアパートがある。そのアパートの奥、コンクリートの壁に覆われた行き止まりの暗がりにたどり着くと、ジーノは冷たいコンクリートに体を持たせかけてずるずるとその場に座り込んだ。

 誰かを呼ぶべきかと思ったが、こうなった経緯を考えればファミリーの人間は信用できない。

 今日、ジーノが日本でとあるパーティーに出ていたことは、ファミリーでもごく一部の人間しか知らないことなのだ。にもかかわらず、そのパーティー会場で襲われた。

 しかも犯行は場当たり的なものではなく、用意周到に準備されていたものだ。ジーノの手持ちの武器、警護の人数、逃げる経路まで読み切られていて、その全てを知る人物は限られた者しかいない。そしてその全てが自分の側近達だ。

 今の手負いの自分がファミリーへ戻れば、止めを刺されるだけ。誰が裏切り者か分からない以上、自ら手柄をやりに行くようなものだ。

 出しかけたスマホをスーツのポケットに戻す。そうこうしている間にもコンクリートの壁に熱を奪われ、ただでさえ血の気が引いている体が急速に冷えていく。

 このままでは危ないかもしれない。そう思った瞬間、頭に一人の男の顔が過ぎり、ジーノは小さく舌打ちをした。

 この状況でも助けてくれそうなおひとよしを知っている。だが、あの男を危険に晒せば常に一緒にいる駄犬が黙っていないだろう。

 それに何より、一瞬でも誰かに頼ろうと考えた自分の弱さに反吐へどが出る。

『……何だ、今日は満月か』

 ふと見上げれば、夜空に浮かぶ大きな月。皮肉なものだ。空を見上げるような生活はしてこなかったのに、こんな非常事態にのんびりと月を見ているとは。

 ……月が綺麗だ。ジーノの唇の端が僅かに上がる。何だか自分のしていることが馬鹿馬鹿しくなって、ジーノは目を閉じた。

 生きることに必死で、これまで自分の人生を振り返ることがなかった。だが史と出会い、ジーノは初めて自分の人生の虚しさを知ったのだった。

 空っぽだ。ジーノには何もない。きっとこれから先もそうなのだろう。

 だったらもういいのではないか。そう考えてジーノは自嘲じちょうの笑みを浮かべる。知らない場所で野垂のたれ死ぬのも、自分らしい最後かもしれない。

 ……その時だ。静けさしか聞こえなかった耳に、心地よい歌声が聞こえてきた。それは決して大きな声ではなかったが、誰とも知らぬその声は、一人きりで死んでいくはずのジーノの胸をじんわりと温かくする。

 この曲は、アメイジング・グレイスだ。切なげに響くその声に耳を傾けながら、ジーノは自らの終わりを覚悟した。

 すると、唐突にその歌が止まった。

「……ねえねえ、ゆうちゃん、あそこでだれかねてるよ?」

「ん? ほんとだ。おい、こんなところで寝てたら風邪引くぞー?」

 肩を揺すられ、ジーノは緩慢かんまんな動作で顔を上げる。そうして、目を開けて飛び込んできた光景に息を呑んだ。

『……天使? いや、私のもとに天使が来る訳がないから、悪魔が迎えに来たか』

 この世のものとは思えない美貌が、自分を見下ろしている。黒髪に、黒目が印象的な大きな瞳。少しとがった顎のラインが扇情的せんじょうてきで、こんな悪魔になら魂を売り渡しても構わないと思った。

「……まずいな。これ、どう見ても階段でこけたような傷じゃないし、日本人でもなさそうだし、厄介事の予感がする。よし、見なかったことに――」

「だめ!」

「ですよねえ」

 緊張感のない会話にどこかのバカップルを思い出し、ジーノの口元が緩む。

 まったく、あいつらの顔を思い浮かべながら死ぬことになろうとは。……最悪だな。



 トントントントン。

 ……ここは、どこだ。

 トントントントン。

 規則的な音が聞こえる。

目を開けたジーノの目に映るのは、雨漏りでもしていそうなシミのついた古ぼけた木製の天井。

「あ、おきた!」

 小さな子供の声。一瞬史かと思ったが、史よりもまだ更に高いその声は馴染みのあるものではなかった。それが誰かを確かめようとジーノが視線を動かすより早く、ジーノの視界にひょっこり子供が顔を出す。

「おはよう、てんしさん」

 大きな瞳が印象的な少女。長くて茶色い髪を頭のてっぺんで団子状にしていて少し大人びて見えるが、おそらく史とそう変わらない年齢だろう。だが、間違いなく見たことのない顔だ。

 彫りの深い顔立ちは日本的ではない。言葉が違っていればここが日本であることを忘れるところだ。まあ、ジーノが言えた義理ではないが。

 自分の置かれている状況が分からず、ジーノはとりあえず日本語が分からないふりで首を傾げる。こういう時、見るからに外国人である自分の容姿は便利だ。英語で話しかけられたとしても、イタリア語しか話せないふりをしようと思っていると、子供が背後を振り返った。

「ねえゆうちゃん、てんしさんおきたよ!」

 その声に呼応するように足音が近づいてくる。

「お、目が覚めたんだ」

 声をかけてきたのは、ぼさぼさ頭に古ぼけた黒縁の眼鏡をかけた垢抜けない男だった。よれよれのジャージ姿で、両手にはフライパンと菜箸を持っている。前髪が鼻につきそうなぐらいに長く、男の表情が窺えるのは口元のみ。身なりはだらしなく、見るからに貧乏人だ。

「君、丸一日寝こけてたんだよ? お腹空いてるだろ、とりあえずご飯にしよう」

 何の気負いもない、のほほんとした口調の男を、ジーノはまるで宇宙人を見るような気持ちで眺める。

 何なんだこいつらは。どこの誰かも分からぬ男を家に入れ、あげくにこのフレンドリーさ。

 子供はともかく、男のほうはジーノの怪我がただの喧嘩や事故によるものではないと気づいているはずだ。そんな男を助けるなど、ジーノには到底理解できない。

 どんな見返りを要求するつもりだろう、と身構える。ジーノは普段から自分の身元に繋がるものは持ち歩かないようにしていた。携帯番号も全て頭に入っていて、履歴もその都度消すことにしているし、スマートフォン自体、他人名義のものだ。財布に入っているクレジットカードも全て偽名で登録されていて、ジーノに繋がるものなど何もない。

 自分がファミリーの人間である証拠はないが、スーツなどの身なりで金の匂いを感じ取ったのかもしれない。それならそれで使い道はある。金で動く人間ほど扱いやすい者はいないからだ。

 ジーノは黙ったまま返事をしなかったが、二人はそれを気にすることもなく勝手にちゃぶ台の上に朝食を並べ始める。

「ねえゆうちゃん、てんしさん、にほんごがわからないのかな?」

「さあ、どうだろう? 分からないふりしてるだけってこともあるしね」

 そう言った男が顔をこちらに向け、口元ににやりとした笑みを浮かべる。この男、のほほんとしているように見えてなかなか鋭い。

 見た目だけで相手を見くびってはいけないことを、ジーノはよく知っている。

「日本語は分かる」

 バレているのなら、黙っていても仕方がない。ジーノが一言だけそう口を開くと、男はうんうんと大げさに頷いた。

「まあ、いきなり目が覚めたらこんなとこにいたら、警戒するのが当たり前だよ。仲良くなるのは追々ってことで、とりあえず冷めないうちに食べよう。ほら、おいで」

 馴れ馴れしい態度を取られるのは業腹ごうばらだが、そういう気持ちをぐっと押し込めて、ジーノは男に手招きされるままにゆっくりとちゃぶ台に近づく。

 まだ相手の思惑もつかめていない以上、無駄に抵抗するのは危険だろう。

 男は丸一日寝ていたと言ったが、その程度で治るような傷でもなく、今も少し動かすだけで肩に激痛が走る。だが、それをおくびにも出さずにジーノは席についた。

 痛みを我慢することには慣れている。弱みを見せることが死に直結する世界で生きてきたジーノにとっては、長年しみついた癖のようなものだ。

「てんしさん、ゆうちゃんのつくったごはんはおいしいんだよ? えんりょしないでたくさんたべてね?」

「そうそう、俺のご飯は美味しいんだよ? はい、これが君の分」

 出されたのはおかゆだった。一瞬、誰だかも分からない人間が作ったものが食えるかと思ったが、それを察知したように男がスプーンを手に取ってぱくりと一口食べる。

「うん、優しい味。我ながら絶賛したくなるね」

 そう言って、男はスプーンでおかゆをもう一度掬い、今度はそれをジーノの口元に差し出した。

「毒なんて入ってやしないよ。そんなことをするぐらいなら、君が寝ている間にいくらでもそうする機会はあった。君ときたら、ぐうぐう寝こけて、俺が隣で寝てても気づかないぐらいだったし」

「…………」

 隣で寝ていただと? そんなことを許すとは失態だ。

 だが、確かに男の言うことには一理ある。ジーノを殺す機会ならいくらでもあったはずだ。男に心を読まれているようで面白くはなかったが、今はおとなしくしておくべきだとジーノは渋々口を開ける。

「……っ」

「美味しいでしょ?」

 ただのおかゆだと高を括っていたのに、その味はまさに絶品だった。ほんのりとした甘みと、おそらく魚介で取られた出汁。だがほんの少し崩れた表情を読まれたことが悔しくて、これまで食べたどの味より美味く感じたのは空腹のせいかもしれないと思い直す。

「普通だ」

 褒められるのが当然だと言わんばかりの自信満々な顔を見せられると、意地でも褒めたくなくなる。ついそっけなく返したジーノに対して、男は「素直じゃないなあ」と笑った。

 ぼさぼさの前髪が邪魔で顔の大半が分からないが、この男は口元だけでも十分に感情が分かる。腹が立つぐらいかはっと口を開けて笑うからだ。

 普段からなるべく感情を出さないようにしているジーノからすれば、自分の感情を丸出しにするなどというのは丸腰で外をうろつくようなもので、本来こういうあけすけなタイプは一番御しやすいはずなのだが、ジーノの直感がこの男を警戒する。

 何が気になるのか自分でも説明はできないが、この男はジーノの思い通りにはならない気がした。この手の直感は外したことがない。

「あ、いいないいな! さらもやりたい!」

 そう言った子供が自らの皿にある卵焼きの一切れを箸で半分に割り、えへへと笑いながらジーノの口元に運んでくる。

「これ、さらがだいすきなやつなの。おいしいからてんしさんにもはんぶんこしてあげるね?」

 半分こ。そう言って笑う子供の姿に、幼き日の記憶が被った。

『兄さん、これ美味しいから半分こしようね』

 アリア。今はもうこの世にはいない、ジーノの大事な大事な妹。

 ジーノの母親はシチリアンマフィアのボスだった父に見初められ、ほぼ幽閉に近い形で無理やりに妻とされた。ジーノとアリアも生まれた時からずっと幽閉され、逃げる気力を失わせるためか、食事は最低限しか与えられなかった。そんな自分達はずっと、何でも分け合って食べていて、それは今でも残るジーノの数少ない癖の一つだ。

「てんしさん? たべないの?」

 子供の声にはっと我に返り、促されるまま口に入れる。卵焼きは出汁が効いていて美味かった。だが過去を思い出すことはジーノにとって苦しみしかなく、それを飲み下すのに少し苦労する。

「ね、おいしいでしょ?」

 ジーノは決して優しい人間ではないけれど、女子供にいちいち突っかかる趣味はない。とりあえず子供に向かって頷くと、隣からにょきっとスプーンが突き出された。

「はい、じゃあ今度はこっち」

「おい」

 自分で食べるからスプーンを寄越せ。ジーノがそう言う前に、男がジーノの怪我をしたほうの肩につんと指で触れた。

「……っ」

「俺が思うに、君はこっちが利き腕だよね? 痛いのに無理したら治りも遅くなるし、ここは遠慮しないで甘えておきなよ」

 何が、甘えておきなよ、だ。偉そうに。

 だが、やはり侮れない男だと思った。ここまでジーノは手を使うようなことを何もしていないのに、ジーノの無意識の動作から利き腕がどちらかを感じ取っている。この男は一体何者だ。

「ほらほら、早くあーんして」

 子供に言うみたいな声を出されて一瞬本気で腹が立ったが、今この男と争うのは損だと自分に言い聞かせ、ジーノは渋々男に従うことにした。

 プライドでは命は買えない。手負いである以上、無理は禁物だ。だが……怪我が治ったら覚えていろ。


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