第14話 夢幻の切れ端


 記憶の中枢の扉を開くと、そこからは先程と同じように暗がりから不気味なオルゴールの音色が聞こえてくる。

 その旋律はぐるぐると揺れ動くような軋みを感じさせ、全細胞を揺らすように異形の世界が顔を見せ始める。


 辺りはもはや、生物の体内のようだった。壁や床は不気味に蠢く赤い肉の壁、中心には穴を開けて液体を敷き詰めたような不可解な水瓶、その辺りに立ち尽くす瑠璃の姿があった。

 今まで気味の悪い世界ばかりだったが、この世界は一際異質だった。光は存在しないのに、今までのどの世界よりも鮮やかな色彩を話しながら、壁や床の襞は人外のスピードで激しく犇めきあっている。そこを記憶の中枢などと形容すること自体が不自然であり、この場所にぴったりな言葉は「地獄」のみである。

 加えて、天井には逆さまの状態で肉壁に体を半分埋めている、オルゴールを回す者がひっそりとこちらを見つめながら笑っている。表情の一切読み取れない、もっと言えば皮を剥いだような顔でこちらを見ているだけなのに、今にも声を上げて笑いそうな気味の悪さが心を軋ませる。


 そこで、初めて気がついた。オルゴールを回している存在と、音が一致していない。

 この狂ったオルゴールの音色を鳴らし続けているのは、天井にぶら下がる奇怪な存在ではなく、自分自身であったのだ。この狂気に満ちた世界と同じ意義を持ち、僕自身を目覚めさせることを目的に存在していた、ただのオブジェクトだったのだ。


「この場所は、死後の世界なんてものじゃなかった……そうだったんでしょう?」


 独り言のようにそうつぶやいてみると、水瓶の辺りにいた瑠璃は、驚いた調子で振り返り、その鮮やかな薄い髪色を翻して近づいていくる。

「折人……? 何を言ってるんだ? 何を見てきたんだ?」

「君も、管理人なんかじゃない。この顔も、君のものじゃない」


 近づいてきた瑠璃の頬に触れながらそう言うと、瑠璃は露骨に驚いたような顔をして、自らの顔に触れ、更に訪ねてくる。


「これは……誰だ?」

「それは、優一の顔だ。髪の毛も、声も、瞳も、全て瓜二つ」

「な、何故……」

「きっと君も、僕なんだよね? だからこの世界にいる。もう、全て思い出したんだ」


 そう言って、僕は瑠璃の顔に触れた。頬を両掌で優しく包み込むと、瑠璃は未だに信じられないと言った表情で、ゆっくりと僕の手に触れ、固結びを解くように腕を払い除け、ゆらゆらとした動作で水瓶の水面に自らの顔を映した。

 すると、その瞬間けたたましい慟哭が響き渡る。声の主は瑠璃であり、その声に引き寄せられるように僕も彼に続いて水面に視線を落とした。

 それを見て、僕自身言葉を失ってしまう。


 水面に浮かんだ瑠璃の顔は、天井の肉壁に体を埋めているオルゴールを回す存在と同じく、皮膚を引っ剥がされたような異形の顔になっていたのだ。

 それだけじゃない。水鏡の彼だけではなく、実物の彼も同じように、全身の皮膚を剥がされたような状態になっていて、衣服は一気に血に塗れ、禍々しい赤色に変色していく。

 驚くべきは、彼の体から離れた皮膚がまるでダイアモンドダストのように神々しい光をあげて、ゆっくりと空中を舞っていく。やがてその皮膚の片鱗は、上部にいるオルゴールを回す者の皮膚と混じっていき、それは完全に優一の外見を模していくように、今度はオルゴール奏者の外見が変わったのだ。


 まるで体をそのまま入れ替えたように、オルゴール奏者は優一の顔でゆっくりとオルゴールシリンダーに手をかけている。

 そして、彼はこちらに向かって小さく笑っているような気がした。それは、先程までの不気味な彼と同じように、優しく、痛々しい笑みだった。



 しかしその一方で、顔を失った瑠璃は苦しそうに声を上げ、僕に縋り付いてくる。


「あぁ……俺は、一体……折人、助けて!!」

「……瑠璃……、君は僕の、なんなんだ?」

「はぁ……ずっと、折人のことを救おうとしたんだ……」

「僕の、ことを?」

「折人の現実は、あまりに残酷だった……たった一人で生き続けようとする折人を、ずっと見ていた。だから、救おうとしたんだ……きっとね」


 最後の言葉を聞き、恐らく彼自身も自分の存在について正しく理解しているわけではないようだった。

 だからこそ、僕は強烈な罪悪感を覚えた。もし、本当に君が僕を救おうとしていたのならば、僕は瑠璃に対してひどく残酷な運命を与えていたのだろう。

 一体、君が僕の中の何を示しているのかはわからない。だけど、もう君だけが苦しむことはない。少なくとも、僕はもうすぐ死ぬ。だから、君だけを一人にすることはないよ。


「ねぇ……瑠璃」

「あぁ……折人?」

「僕たち、きっとこれからも一緒だよね」

「え……?」

「僕は、いや、僕らは壊れすぎたんだよ。大切だった人さえも、この手で……殺めてしまった」

「折人……?」


 ふと、けたたましい音が聞こえてくる。

 不気味な音色だった。僕らを嘲笑するような音。多分これはアラベスク第1番の旋律を崩したものだった。というよりも、正しい旋律と崩壊した旋律が交互になっているようだった。


「きっと君も、苦しかったんだよね。君にこんな選択肢をさせてしまった僕を許してほしい」

「何を……?」


 僕は、血塗れの彼の体を抱きながら、ともに水瓶の中に落ちていく。

 大きな水の音と、隣り合うように聞こえてきた名前を呼ぶ声が泡沫の中に消えていく。視界は淡い泡と白色の水に溶けていくようで、一気に自分がどうなっているのかわからなくなる。

 それでも、僕は確かに、掴んだ瑠璃の腕を離さないように握りしめていた。


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煉獄のオルゴール 古井雅 @pikuminn3

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