第13話 意義
辺りは再び闇に飲まれていた。先程の幻聴のせいで強烈な吐き気がこみ上げているが、ひとまず暗がりを彷徨うように、手探りで壁を伝っていく。
開けた空間の壁は、正体不明の物体に阻まれ上手く周縁をなぞることができないものの、それでも先に進むことはでき、徐々に世界の最奥に近づき始める。空間を時計回りに探っていくと、先に進める空間を発見するが、どうやら地下に続く階段が下に伸びているらしく、うっかりそのまま転落してしまいそうになる。
慌てて壁を握りしめ、なんとか体勢を整えることができ、ゆっくりと手探りでその奥をかき乱す。
しかし、当然のように自分が掴むのは空気のみであり、下へ下へと流れていく冷たい冷気はひっそりと自らの手のひらを這うようだった。
その感覚に一抹の気持ち悪さと、下から浮かび上がる嫌な熱気に苛まれるように、僕の胃の中はぎゅるぎゅると蠕動した。その音を聞けばこっちまで吐きそうになってくる。今にも、この真っ暗な地下に向かって、喉元にある吐瀉物を引っ掛けてやりたいくらいだった。
けれど、すぐにそんな事に意味がないことに気づき、階段を下っていく。
足を踏み込むたびに、僕はそこはかとなく感じる陰惨とした空気に触れる。
その空気に触れたのは今が初めてじゃない。そう、確信した途端、辺りを覆っていた闇が溶けていった。
「これが……僕の、最奥……」
辺り一面に広がったのは、一言で形容すれば「不安定」であろう。
細く続く階段には手すりはなく、狭苦しい壁いっぱいに刻まれているのは、枯れているのか、それとも咲いているのか曖昧なほど異質な朝顔の群れ。色は一切存在せず、苦しく呼吸するように蠢く大量の朝顔の隙間には、フォトフレームのような仕切りがあり、その中には自分が今まで見てきた映像が一人称視点で流れていた。
それと同時に、映像から流れてくる音が一気に辺りを掻き鳴らした。
「お母さん、お父さん」
「優一とずっと一緒にいられるなら」
「一人、一人、僕は独り」
「嫌、離れ離れは嫌だ」
「どうして僕のことを好きなんていうの?」
「もう、独りでいいから、希望を持たせないで」
「なら、一緒に……」
無数の音がほぼ同時に生じていき、それに合わせるように壁一面に広がっている朝顔は咲き、また枯れていく。何度も同じことを繰り返し、最終的にはフォトフレーム状の仕切りさえも飲み込み、記憶の境を曖昧にしていった。
これら一つ一つが、僕の記憶。今なら、すべて理解できる。
僕は、たった独りだった。両親は立派な仕事に就いていたけど、そちらばかりを優先して僕のことは置き去りのまま。
昔、聞いたことがある。僕が生まれたのはただの偶然であり、望んで生んだものではなかったという。だから、お母さんもお父さんも僕のことを放っておいて、仕事に打ち込んでいたんだろう。
幼い僕に生じた感情は、「疑問」のみである。クラスメイトが一家団欒を享受するたびに、心は死んでいった。
どうして僕は、あんな温かな家庭に生まれることができなかったのか。望んでこんな、苦しい両親を持ったわけではないはずなのに、どうしてお母さんは振り向いてくれないのか、わからなかった。
そこで出した結論はたった一つ、「何においても優秀であること」を目指し、僕は必死に学校生活を送った。死に物狂いで勉強して、だいっきらいな運動も好きなように見せようと、僕なりに努力していた。結果としてそれは、ある程度学校という組織には受け入れられたが、伸びていく成績に対して友達ができることはなく、クラスの中で浮いた存在になっていった。
気がつけば、僕は何も持っていなかった。たった一人だけで頑張ってきた痕跡以外には、本当に何もなく、「頑張ったね」なんて言葉をかけてくれる人は、機械的な先生だけだった。
そこで、ようやく僕はとある答えに行き着くことになる。
独りでは、何をやっても無意味である、と。
しかしそこから脱することはできなかった。今更、友達を作ろうと奔走しても、無意味だった。人とコミュニケーションを疎かにしてきたことが災いしたのか、はたまた無自覚に上から目線に同級生を見ていたのか、今になってはもうわからない。
残ったのは、ただひたすらに誰かの体温への渇望と、これからどのように生きていけばいいのかわからない絶望感。
強烈な孤独に苛まれ、僕はこれからも両親が、マシに思えてくれるほどの努力を見せることができるのかわからなかった。
いや、それすらも曖昧だ。僕は、この時点で両親に対してなんの期待もしていなかった。しかしその事実から目を背けて、「頑張れば振り向いてくれる」と思い込み、必死かつ盲目的に努力した。
けれどそれも長くは続かない。独りであるという絶望感と、自らへの失望は徐々に気力を消していき、努力することすらも奪っていった。
その時だった。君が、僕の目の前に現れたのは。
異国の血が混ざった君は、とても美しく、そして気高く見えたよ。それでいて、君は、どこか鬱蒼としていた。
物憂げ、という言葉もピッタリ当てはまるかもしれない。それだけの容姿と、聡明な頭脳に恵まれていて、尚且優しい父親もいて、どうして君はそんな物憂げな顔ができるのか、当初僕は疑問だったが、それもすぐに理解できた。
彼も、本当は独りだったのだ。人種的な問題により、人との関わりから爪弾きにされ、それが君の心に強く楔を打ち付けていた。さながら十字架を背負っているような君の闇に触れたとき、僕はどうしようもなく君のことを好きになった。
こんなにも、苦しみと対峙していることを悟らせない人が世界にいるのだと。
今思えば、これ以上の苦しみを抱える人は大勢いるだろう。しかし、それでも君にとって、その経験は酷く重いものだったはず。それなのに君は、必死にそれと戦っていた。逃げることなく。
だから、声をかけた僕のことを「友達」だと言ってくれたんだね。君なりの、人付き合いだったから。
そんな君が、いつからか僕の生きる意味になっていた。
君のためならば、どんなことでもできる。今でもそれを信じて疑わない。だけどそれは、裏を返せば君の重荷になりたくないという意志の表れでもあった。その意志に反発するように、僕は君のことを求め続けていた。
やがて、偏屈な愛へと姿を変えたこの感情は、やがて止める術もないま君と同じ道へと進んでいった。
本当は私立の中学校へと通うはずだったのに、それを蹴って君と一緒の中学校に入学した。だけど、これがお母さんの逆鱗に触れた。
当たりは更に強くなり、食事もろくに用意されていないことのほうが多くなり、挙げ句話しかけてもないものとして扱われることもあった。それでもなんとか耐えてこられたのは、君への想いを持ち続けていたからだと思う。
けど、それすらも奪われ始めていた。
中学校という限られた枠組みと、潜在的に異性愛を肯定させるような教育カリキュラムのなかで、僕の君に対しての「愛」はどんどん否定されていった。
やがて自分でも、君への感情は異常なものだと思えるようになっていき、今まで僕を保ってきた想いが壊れ始めてきたのだ。
愛している。愛している。それなのに、どうしてこの感情を否定されなければならないのか。
僕は、優一のことが大好きなのに、たった一人の生きる意味だったのに。多くの人間が僕からそれを取り上げていった。
その時、僕は悟ったんだ。君を愛することもできないのなら、生きている意味もない、ということに。
馬鹿な気持ちだった。生きてさえいれば、きっと別の選択肢もあったはずなのに、あのときの僕はそれすらもわからずに、「自殺」なんてもので救われた気になっていた。
でも、死のうとした直前に、壊れかけていた君への想いを告げたくなった。どうせ報われることのない想いならば、抱えて死ぬのはもったいない。せめて、報われなくても、君にこの感情を知ってもらいたかった。
その欲望が、さらなる悲劇を作り出してしまった。
君は、僕の感情を受け入れようとしてくれた。それだけではなく、同じ気持ちを共有していたのだ。
それを知って僕は、深い混乱と、それを受け取ることへの恐怖に苛まれることになる。
どうして、死のうとしている人間に希望を持たせるようなことを言うのだろう。
こんな自分を愛してくれる人なんているはずがないんだ。だって、家族からすら、愛されることのなかった僕のことを、優一が愛してくれるなんて、考えられなかった。
美しく、気高く生きている君に、僕なんて似合わない。死にかけの僕に、そんなことを言わないでほしかった。
けれど、同時にこんな気持も生じていた。
愛されたい。優一に、愛されたい。
その両価的な気持ちに、僕は完全に理性を失った。そうして辿り着いた答えが、彼とともに死ぬことだったのだ。
どうしてそんな狂気に満ちた選択をしてしまったのかわからない。多分、これから生きていく自信がない事と、愛情の試し行動だったのかもしれない。それか、誰かに優一を取られることを危惧しての行動だったのかもしれない。
どれであっても、許されることではないことを知っていながら、僕は彼のことを突き落とした。
だから僕もすぐに、その命を絶った。
「それが……この世界の意義……」
あらゆるもののショックで、もっというと、最も愛したはずの彼のことを自らの手で殺害してしまった罪悪の念から記憶をなくしてしまい、代わりにこの世界が作り上げられた。
無意識の懺悔と後悔に苛まれた、悲しい世界の根である。
その中核が、目の前に鎮座していた。
階段を下りきったところに現れたのは、最初に見た異形の扉であった。
赤黒い血液を彷彿とさせる素材でできた大きな扉、瑠璃いわく「記憶の中枢」へ通づる扉だ。この世界の根源が、こんなに近くにあるなんて思いもしなかった。
けど、これですべてが終わる。すべてを思い出した。だからこの先に広がっているものも、なんとなく察しがついた。
「これで本当に最期だ」
僕は、自分に言い聞かせるように言葉に出して、ゆっくりと扉を開く。
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