第12話 孤独な家


 僕を待っていたのは、剥き出しのコンクリートに埋め込まれたような、民家の扉だった。

 光源が存在しない中、扉の前はオレンジ色の光に灯されていて、扉の横には丁寧に表札まで用意されている。そして、その表札に刻まれている名前は「錫野」、間違いなく自分の苗字だった。


 どうして、そんな疑問は既になかった。

 自分の中にある感情は、「この場所が最奥である」という確信のみであり、ゆっくりと、その扉に触れる。

 すると、その瞬間、後方の花びらは一気に枯れはじめ、存在しているのかすら曖昧な暗がりに大量の枯れ葉を落としていく。そして、地に伏していった枯れ葉は一気に液体の中に沈むように消えていき、何も存在していなかったように道は消えてしまう。

 それを一瞥しても何も揺らぐことはなかった。この先に広がっていることがなんとなく想像できたからだろうか。どっちにしても、消えていった帰り道は僕にとって後押しでしかない。


 すべてを決めるようにその扉を思いっきり引くと、冷たい空気が一気にこちら側に吹き荒れるように冷気が体中を弄った。

 その感覚に、不意に吐き気を感じつつ、暗がりから響き渡るアラベスク第一番の音色が乱反射のごとくエコーを掛けて鳴っている。その旋律は恐ろしく正確であり、今まで奏でられていたどのメロディよりも美しく、そして優しいように聞こえている。


 一方で目の前に広がっているのはかすかな光すらも存在しない闇だった。

 見ているだけでそこに吸い込まれてしまいそうな暗がりであるが、同時に鳴り響く優しい音色に引きずり込まれるように、扉の中に足を踏み込む。

 踏み込んだ足は、コンクリートのような硬い床に触れ、それに続いてなにか柔らかな布のような質感に触れる。それは小物程度の大きさであり、ゴツゴツとした延べ棒状のものだ。かなりの量があるらしく、それを踏みつけながら先に進むと、急に現れた段差によって転倒してしまう。


「痛っ……何……?」


 あまりに勢いよく転倒してしまったことで、膝を思いっきり打ち付けたようで、脳を揺さぶるほどの痛みが神経を刺激する。

 無意識に、僕は患部を触りながら、とっさに自分が躓いた段差を手探りで触る。それが本当に、段差であることが信じられなかったのだ。これほどまでに異形の世界を見てきた身としては、なにか死体の類であると思えてならない。

 しかし、そんな気持ちを宥めるように、手に触れる感覚はただのコンクリートである。触れている限りではおよそ数センチで、なんてことはないただの段差だ。どうしてこんなものがあるのかはわからないが、とりあえず立ち上がり、そそくさと先に進もうとする。

 すると今度はなにかの壁にぶつかってしまい、額を思いっきり打ってしまう。


 今度は一体何なんだ、苛立ちのあまりそう思いながら目の前の壁に触れると、この世界では存在しなかった質感を持っていることに気づく。

 さらさらとした感覚といえば直感的だろうか。恐らくは小奇麗な壁紙なのだろう。どうしてこんなところに高そうな壁紙が貼ってあるのか疑問であるが、さほど気にすることなく、壁を伝って先に進んでいく。

 かなりの時間をかけて先に進んでみると、どこか大きな部屋に出たようで、一気に空気感が変わる。ほとばしるカビ臭さと気味の悪さとは対照的に鳴り響くアラベスクの音色は、どうやらここが音源のようだ。その気持を察するように、部屋の中心には薄明かりを浮かべる、オルゴールのような浮遊している。

 佇まいは非常に不気味であるが、そのオルゴールが優一からのプレゼントであることを気づくと、すぐにその不気味さも晴れ、そのままの勢いでオルゴールへと駆けていく。


「ここにあったんだね……」


 誰に言うわけでもなく呟いた言葉は、闇に反響しながらアラベスの音色にかき消されてしまう。

 ひっそりとそれを手に取ると、すべての感覚を弄るように体が大きくぐらついた。


 最初は視界が眩暈のようにゆらぎ、続いて耳元で甲高い音が鼓膜を裂かん勢いで突いてくる。

 何が起きたのかわからない、そんなことを思ったが、すぐにそれが今までにあった記憶が戻っていく感覚であることに気づき、体を持ち直して眼の前を見据える。


 しかし、すぐに目を開くことはできなかった。多分これが、自分にとって最も苦しい記憶であることを潜在的に理解しているのだろう。

 本当は、今すぐにでもここから逃げ出してしまいたかった。それでもこの記憶と向き合わない限り先へ進めない。自分がしてしまったことの重さを理解しているからこそ、この暗がりに辿り着いたのだ。

 その覚悟を嗤笑するように、何かの声が聞こえてくる。



「やっぱり、子どもなんて作るんじゃなかった」


「いつも泣いてばかりね」


「お前がちゃんとしないからだろう」


「いっつも私の邪魔ばっかりして」



 羅列される言葉は、誰に向けられているのかは明白だった。

 全て自分に向けられた言葉。そしてそれを発しているのは、父親と母親だった。

 最も愛されたかった人から受ける言葉は凄惨だった。苦しいとか、悲しいとか、そういう気持ちで留まるものではなくて、ただ求める渇望がゆっくりと自分の心を溶かしていっているようだった。



「お母さん、次は、いつ帰ってくるの?」


「1週間くらいって言ったでしょう? ちゃんとご飯も買ってあるから。学校にもちゃんと行くのよ」


「でも……僕、明後日、誕生日なんだよ?」


「仕事なんだから仕方ないでしょう? ワガママ言わないで。ほら、遅刻するでしょう」


「……うん」



 その日の誕生日はいつもどおりだった。誰もいない家に、放置された生温い食事と自分。どちらも仕事で忙しい両親は僕の誕生日にそばに居てくれることなどはなく、いつもどおりに振る舞い、そしてそれを繰り返す。

 小さな自分にとって、それは残酷さを通り越して生きる意志を奪っていった。

 どうして、僕は生まれてきたのか。これからどうやって生きるのか。もうよくわからない。どこまで進んでも僕はひとりぼっちだった。それは優一と関わるようになってからも変わらなくて、延々に続いていく「孤独」の二文字に、苛まれ続けていた。

 そんなときに、微かに残った希望すらも刈り取られた。



「公立の中学校がいい? 何をふざけたことを言っているの!?」


「だ……だって……、そっちのほうが友達もいるし……」


「一体、なんのために貴方に教育費を払ってきたと思ってるの……?」


「僕は、公立に行きたい……絶対に行くから!」



 自分の中で最も大きな勇気を振り絞って、僕は優一と同じ公立中学校に通うことができた。

 しかし、そこから更に母親の振る舞いが変わっていった気がする。


 その時点で、聞こえてくる記憶の羅列は影を潜め、不気味に歪んでいた視界が戻っていた。

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