第5話

「…………」

 皐月賞の前日、中山競馬場の調整ルームにて東見は頭を抱えていた。

(皐月賞にノーザンソニックが出走しないなんて予想できねぇ……日本ダービーを狙ってるからってこうあからさまに逃げるか?いや、重要なのはそこじゃない。怖いのは―――)

 隣では唐津が新聞を読んでいる。

「おう甘ちゃん。まーた考えことしてどーしたんや」

「……何も」

「そんなワケあるか。顔に書いてあるで?ノーザンソニックが出てこないから皐月賞は安心。と思ったらなんかヤベェの居るやんってトコか」

「…………」

 唐津は「ヘッヘッヘ」と三下の悪役のような声を出しながら東見に新聞を見せる。

「怒涛の逃げ馬『ラーステック』や。この馬にペース乱されちゃかなわん思ってるんやろ?前走の弥生賞はそれでタジタジやったもんなぁ」

 東見は唐津を睨む。

「あんまり邪魔せんでください」

「おーこっわ。ええやんか、弥生賞では四馬身差やで四馬身差。これを圧勝と言わんでどうすんねん」

「分かって言ってるんでしょう」

「ヘヘッ、バレたか」



 弥生賞は波乱の展開だった。

 ユメノプリンセスの出遅れ、前走では差し馬だったラーステックの大逃げ、9番人気メイヤーロードの驚異の末脚。

 ゲートが開いた瞬間にユメノプリンセスだけが出遅る。

 その後ラーステックが大逃げ、縦長の展開に。

 だが実際、ラーステックのペースは超とつくほど早いものではなく、他の騎手は勘違いを起こしていただけだった。

 800mほどで追い上げを始めたユメノプリンセスはグングン伸びていき、残り300mにてラーステックと三馬身。ここでユメノプリンセスが勝つと思われた。

 後ろから猛烈な勢いでユメノプリンセスを追いかける馬が一頭。

 『メイヤーロード』だった。

 残り200mでラーステックが失速。そしてメイヤーロードがユメノプリンセスに襲い掛かる。

 150mで完全に並んだ。

 しかし100mでメイヤーロードが急激に失速。

 そのままユメノプリンセスは失速せずにゴールした。



(もし、もしメイヤーロードが失速しなければ、二着だった)

「メイヤーロードは皐月賞にでらんのが幸いやなぁ?ケガで」

「…………」

 東見は唐津の顔を再度見る。

 ラーステックの騎手は唐津だった。

(……また騙されたら、今度は一着は取れない)



「お嬢様、到着いたしました」

「ええ」

 宇佐美が車のドアを開け、柳川が出る。

 そのまま、中山競馬場の馬主席へと向かう。

「楽しみだね、今日のレース。勝てるかな」

「現在は一番人気です。対抗馬も居ませんし、最有力は揺るぎ無いかと」

「……勝てるかどうか聞いたんだけどなぁ」

「勝てる可能性が一番高いだけで、勝てるとは言えませんよ」

「むぅ……」



 東見は第8レースを5着で終え、ジョッキールームへと戻った。

 東見の次のレースは、第11レース『皐月賞』。

(平常心だ……落ち着け、大丈夫だ。いつものように乗るだけだ)

 東見には、先ほどのレースでの観客の多さを思い出す。

(多くの人間が、皐月賞を見るために来ている。多くの視線が、俺とユメノプリンセスに向く……)

 東見の膝は少し震えていた。

(大丈夫だ。ユメノプリンセスの力を出しければ勝てる。だから震えるな。ユメノプリンセスの力さえ出せれば、勝てるんだ)

 東見の膝の震えは止まらない。

(観客なんか気にするな。レースには関係ない)

「…………」

(もし、ユメノプリンセスが力を出し切れなかったら?俺がまた逃げに騙されて、届かなかったら?俺のミスで、皐月賞を獲れなかったら?)

 東見は、背中にゾクッと冷たい『何か』が這ったように感じた。

 膝の震えは大きくなり、冷たい汗が頬筋を伝う。

「何してんだよお前」

「――――――ッ」

 東見が後ろを振り向けば、戸山が立っていた。

「なに下向いてガタガタ震えてんだよ」

「うるせぇ」

「……荒れてんなぁ。せっかくのGⅠなんだからもっと楽しくいけばいいじゃんか」

「できるわけねぇだろッ……」

 東見の低く唸るような声に戸山は目を丸くした。

「おい、どうしたお前。大丈夫か?」

「うるせぇッ!楽しく走れるわけねぇだろうがッ」

「だから落ち着けって!ユメノプリンセスなら余裕なんだろ?」

「…………」

 東見は戸山の一言で黙り込んだ。

「……おい、どした?」

「ユメノプリンセスは強い。余裕で一着獲れるほどだ」

「ならいいじゃんか。大船に乗った気分で行けよ」

「……それで負けたら、確実に俺のミスだ」



 パドックにて柳川と宇佐美はユメノプリンセスを観察していた。

「……いつも通りだね」

「はい」

 二人の目には、いつもと変わらないユメノプリンセスが映し出されていた。

「なんかさ……こう、気負いとか武者震いとかないのかな?」

「そう私に言われましても」

「ほら、あれじゃいつもと全く変わらないじゃない。もっと皐月賞唯一の牝馬だから頑張らないといけないとかさ。昨日テレビでは東見さんはすごい意気込みで話してたよ。目が本気だった」

「東見ジョッキーは全力で来るでしょうね」

「頑張って勝ってもらわないと」



「東見!」

「岩垣さん」

 ユメノプリンセスの調教師である岩垣は東見を呼ぶ。

「…………」

「な、なんですか」

 岩垣は東見の顔を覗き込んでいた。

「おい、ちょっと後ろ向け」

「はぁ……」

 渋々後ろを向くと、背中に手のひら大の衝撃が東見を襲った。

「でっ!?」

「よし」

「よしじゃないですよ何するんですか」

「ガッチガチの体をほぐしてやったんだ。感謝しろ」

「………ッ」

 岩垣はしゃがみこみ、先ほどの張り手で落ちた鞭を拾い、差し出す。

「ほれ、勝ってこい」

「…………はい」




 中山競馬場 第11レース 皐月賞


 一番人気のユメノプリンセスは6枠11番。


 『最も速い馬が勝つ』と言われるレースが、始まる。

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鐙に足を 北八 @kitahachi

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